第20話 黒谷の魔女たち - 第三の障壁:流体力学と筋肉・あるいは白き泡の乱舞
同日 夕刻 金戒光明寺・庫裏
材料は揃った。覚馬の設計による煉瓦の「砲台(窯)」も、理想的な温度まで温まった。
いよいよ、この作戦における最終工程にして、最大の難関、メレンゲの撹拌である。
南山から取り寄せたレシピ本(指南書)には、こともなげにこう記されている。
『卵白ヲ、角ガ立ツマデ泡立テルベシ。コレガ膨張ノ肝要ナリ』
たった一行。筆で書けば数秒で終わるこの言葉が、どれほどの地獄を意味するのか、彼女たちはまだ知らなかった。
電動ミキサーなどという便利な文明の利器は、この時代の京には存在しない。ここにあるのは、千重子が茶道具の箱から探し出してきた竹製の古びた「茶筅」一本と、彼女たちの細腕のみである。
庫裏の土間には、夕闇が迫っていた。行灯の薄暗い灯りと、竈から漏れる赤い火の粉だけが、三人の女の顔を照らしている。
「……では、参ります。
中野竹子、推して参る!」
竹子が、白鉢巻きに襷掛けという、まるで討ち入り前の浪士のような決死の姿で、巨大なすり鉢の前に立った。
鉢の底には、分離されたばかりの透明で粘り気のある卵白が沈んでいる。
彼女は茶筅を逆手に持ち、切っ先を敵(卵白)の急所に定めるように、小野派一刀流の構えをとった。
「いざッ! チェストォォォッ!!」
シャカシャカシャカシャカシャカシャカッ!
凄まじい音が静寂な台所に響き渡った。
いや、チェストはまずいだろ。
竹子の右腕は残像となり、茶筅が空を切る風切り音すら生じている。それは料理というよりは、見えざる敵を千切りにする剣舞のようであった。
(父上……! そして、故郷で待つ優子……!)
竹子の脳裏に、厳格な父・平内と、まだ幼さの残る妹・優子の顔が浮かぶ。
彼女は思い出していた。雪深い会津の道場で、凍てつく床を踏みしめながら薙刀を振るった寒稽古の日々を。あの時、妹の優子は小さな手で竹子の袖を掴み、「姉様、強くなって私を守って」と言わんばかりの瞳で見上げてきた。
そうだ。武芸とは、敵を倒すためだけにあるのではない。大切な者の命を、暮らしを守るためにあるのだ。
今、目の前にあるこの白き流体こそが、殿の命を脅かす病魔そのもの。ならば、薙ぎ払わねばならぬ。
「……くっ、重い……! こやつ、斬っても斬っても手応えがない……!」
だが、五分経過。十分経過。
卵白は白く濁り、多少の泡は立ったものの、重くのしかかるような粘り気は消えず、レシピにある「角が立つ」状態には程遠い。
竹子の額から、玉のような汗が大粒になって滴り落ちる。呼吸が荒くなり、足腰の踏ん張りが震え始めた。
これが「流体力学」の壁だ。形のない泥沼を素手で掻き回すような徒労感が、若き女武者の体力を奪っていく。
「交代です! 竹子、貸しなさい!」
次に立ったのは、照姫であった。
彼女もまた、豪奢な打掛を脱ぎ捨て、紅絹の襦袢に襷掛けという姿である。普段の、琴や茶を嗜む優雅な姫君からは想像もつかない、なりふり構わぬ姿だ。白魚のような指が、粗末な茶筅を握りしめる。
「殿の……殿の胃袋のためと思えば……この程度!」
照姫は、リズミカルに、しかし執念深く茶筅を振るう。
彼女の瞳の奥に、切ない記憶が蘇る。
――あれは二年前の秋。まだ京の政情がこれほど悪化する前のこと。
金戒光明寺の庭で、紅葉を愛でていた時の夫・容保の横顔だ。あの頃の殿は、まだふっくらと健康的で、照姫に向かって「京の紅葉も悪くはないが、やはり会津の山々が恋しいな」と、穏やかに微笑んでくれた。
だが、今の殿はどうだ。眉間に深い皺を刻み、死に場所を探すような虚ろな目をしている。あの優しい笑顔は、どこへ行ってしまったのか。
(取り戻すのです。あの笑顔を、この手で……!)
この泡の一つ一つが、夫の命を繋ぐ気泡なのだ。そう思えば、腕の痛みなど感じない……はずだったが、現実は残酷だ。
慣れぬ筋肉の酷使に、二の腕が悲鳴を上げ、乳酸という疲労物質が鉛のように蓄積していく。茶筅が、鉄の棒のように重い。
「……御前様、交代でございます! 無理をなされては、元も子もございません!」
最後に千重子が飛び込んだ。
彼女は竹子のような爆発力も、照姫のような悲壮な決意も見せない。代わりに選んだのは、熟練の主婦ならではの「持久戦」であった。
力任せに振るのではなく、手首のスナップを利かせ、遠心力を利用した省エネかつ持続可能な撹拌法だ。
千重子の耳に、幻聴のように子供たちの笑い声が聞こえた。
会津の屋敷に残してきた、九人の子供たち。そして、夫・頼母の母や妹たち、総勢二十一人もの大家族。
毎朝、大釜で飯を炊き、騒がしい食卓を取り仕切っていたあの日々。
(母上、お腹空いたよー、と甘えるあの子たちの声……)
今、自分は京にいる。子供たちに、この甘い菓子を食べさせてやることはできない。
けれど、ここで自分が挫ければ、会津藩は倒れる。そうなれば、あの子たちの未来も閉ざされてしまう。
家老の妻として、何百人もの客をもてなす長時間の宴席を取り仕切り、終わりの見えない家政を回し続けてきた「母の忍耐力」が、ここで火を噴く。
「……回せ、回せ、南山の風車のように……! 会津の子供らのために……!」
三人の女が、身分の差も、年齢も忘れ、一つのすり鉢を囲んで奮闘する。誰かの腕が止まれば、誰かが支える。粉が舞い、汗が飛び散る。
いつしか、それぞれの胸に秘めた「大切な人」への想いが交錯し、奇妙な高揚感が台所を支配していた。
「ああっ! 竹子さん、勢いが強すぎます! 中身が飛び出しますわ!」
「申し訳ありませぬ! 敵(卵白)が思いのほか手強いゆえ、つい殺気が!」
「ふふっ、竹子、貴女の顔、小麦粉で真っ白よ。まるで舞台の京人形ね」
「奥方様こそ、鼻の頭にメレンゲがついておりますぞ」
三人は顔を見合わせ、一瞬の静寂の後、プッと吹き出し、そして声を上げて笑った。アハハ、ウフフと、腹の底からの笑い声が重なり合う。
その笑い声は、黒谷の本陣に漂う湿っぽい死の匂いと、男たちの重苦しい政治の空気を吹き飛ばすように明るく、力強かった。
彼女たちは気づいたのだ。
私たちは、ただ男たちの帰りを震えて待つだけの、か弱い女ではない。こうして知恵を絞り、体を張り、新しい技術(料理)という武器を手に、運命に立ち向かうことができる「戦士」なのだと。
そして、三〇分の激闘の末。
すり鉢の中には、雪のように白く、艶やかで、ピンと角の立つ、完璧なメレンゲが完成していた。
それは行灯の光を吸い込み、真珠のような光沢を放っている。
「……美しい」
照姫が、乱れた髪を直すのも忘れ、うっとりと呟く。
それは、一缶三両の鳳梨よりも、どんな高価な宝石よりも価値のある、三人の汗と涙と、そして愛する者への祈りの結晶であった。
「さあ、仕上げです。卵黄と砂糖、小麦粉、そして練乳を混ぜた生地と合わせます。……泡を潰さぬよう、赤子を抱くように優しく、かつ迅速に!」
千重子の指示が飛ぶ。生地が型(これも南山の空き缶を利用し、内側に油紙を敷いたものだ)にとくとくと流し込まれる。竹子が築城した煉瓦の要塞は、覚馬の計算通り、薪の熾火によって完璧な温度で予熱されていた。
「……頼みましたよ」
照姫は祈るように、生地を窯の中へと滑り込ませた。
重厚な耐火煉瓦の扉が閉まる。あとは、火の神と、南山の化学に委ねるのみ。台所には、甘いバニラの香りと共に、心地よい疲労感と、明日への希望が満ち始めていた。
窓の外の雪は止んでいる。漂い始めた芳醇な香りは、これから焼き上がる黄金色の菓子がもたらすであろう、小さな奇跡の予兆でもあった。
つづく




