第20話 黒谷の魔女たち - 第二の障壁:兵站線の確保・あるいは錦市場の相場師
同日 午後 京・錦小路
戦において、前線の兵士がどれほど勇猛果敢であろうとも、後方からの小荷駄が途絶えれば軍は一夜にして瓦解する。
これは孫子の昔から語り継がれる兵法の真理であり、同時に、日々台所という戦場を預かる主婦にとっては、呼吸をするように当たり前の日常感覚である。
京の都、その腹腔とも言うべき錦小路。
狭い通りの両側には、軒を連ねる店々から競りのかけ声が飛び交い、漬物樽から漂う酸っぱい発酵臭と、乾物屋の土埃、そして鮮魚の生臭さが入り混じった独特の熱気が、底冷えする京の空気に白く立ち込めていた。
その雑踏の中を、一人の女が歩いていた。
會津藩家老・西郷頼母の妻、千重子である。
彼女は供の者を一人も連れず、質素な紬の着物に前掛けという出で立ちであった。その足取りは、一見すれば今夜の夕餉の献立に頭を悩ませる商家の奥方のそれだが、その眼光だけは違っていた。
彼女の瞳は、市場に溢れる物資の量と価格の変動を、獲物を狙う鷹のように、あるいは熟練の相場師のように冷徹に分析していたのである。
(大根、一本八〇文。先週より一割の高騰。鴨肉は品切れ、あるいは売り惜しみか。炭は南山産が出回っているけれど、法外な値がついているわね)
蛤御門の変以降、京の経済は歪みに歪んでいた。
會津や南山、江戸といった東国では既に西洋式の近代化が進み、物資も流通も安定しつつある世になりつつあるというのに、ここ京都はいまだ旧態依然とした混沌の中にあり、戦時下の物資不足が拍車をかける悪性インフレが、都の民の生活を締め上げている。商人は商品を蔵の奥へと隠匿し、値が吊り上がるのを虎視眈々と待つ。
そんな混乱の最前線で、千重子の任務は困難を極めていた。ふと、千重子の脳裏に、夫・頼母の無骨な背中がよぎった。
数日前の深夜のことである。
會津藩本陣、家老の居室。行灯の灯りが揺れる中、激務を終えて戻った頼母は、泥のように疲弊していた。言葉少なに袴を脱ぎ、千重子が差し出す茶をすする。その横顔には、守護職である容保の補佐としての重圧と、薩長や朝廷との駆け引きによる精神的な摩耗が、深い皺となって刻まれていた。
頼母は、己の苦労を決して家庭には持ち込まない。愚痴一つ、弱音一つ吐いたことはない。
ただその夜、彼は懐から奉書紙に包まれた一包みを、千重子の手元にことりと置くと、一言だけこう漏らしたのだ。
『すまぬな。京の相場は狂っておる。家のことは、頼む』
それは、藩から支給されたばかりの、在京の賄料であった。包みの厚みは薄く、その中身が今の京の物価に対してあまりに心許ないことは、誰の目にも明らかだった。
武骨な指先が、一瞬だけ千重子の手に触れた。
言葉はそれだけであった。だが、千重子には分かっていた。この不器用な男が、己の無力さを噛み締めつつ、それでも妻である自分に全幅の信頼を預けていることを。
夫は、政治と軍事の戦場で血を流している。ならば妻は、家政と兵糧の戦場で、一歩も退くわけにはいかないのだ。
千重子は、帯をきゅっと締め直した。
今回の作戦目標「新鮮な鶏卵二〇個」と「牛乳(またはそれに準ずる乳製品)」。
會津の城下あるいは江戸屋敷、また、そこまで行かずとも、東國の主要都市であれば、近在に養鶏場や牧場が整備され、これらの食材は庶民の食卓にも上るようになっている。だが、保守的なここ京都においては、卵はいまだ滋養強壮の高級食材であり、牛乳に至っては薬種同然の扱いだ。
しかも、それをこの狂乱物価の中で、逼迫する藩の台所事情を圧迫せずに調達せねばならない。
「…あら、伊勢屋さん。ご機嫌よう」
千重子は、馴染みの乾物問屋の前で足を止めた。
店主の伊勢屋は、古狸のような風貌の男である。彼は、會津の家老の奥方が手ぶらで、それも鋭い目つきで現れたことに、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに商売人の仮面を被り、揉み手をして愛想笑いを浮かべた。
「へえ、こら御家老様の奥方様。…今日はまた、お忍びで? 何か御入用でっしゃろか」
「ええ。少しばかり、無理なお願いがありましてね」
千重子は、懐から風呂敷包みを取り出し、カウンターである分厚い一枚板の上にことりと置いた。
中身を見せる前に、彼女は優雅に微笑んだ。その笑顔は、慈母のように優しく、同時に借金の取り立てに来た高利貸しのように、逃げ場のない無言の圧力を放っていた。
「新鮮な卵を、二〇ほど所望したいのです。もちろん、ただでとは申しません」
「はあ、卵どすか…。奥方様、江戸や會津とは違いましてな、京では近頃、鶏も戦の音に怯えて産み渋る始末。一個につき一朱は頂かんと、とてもとても…」
伊勢屋が足元を見るようにふっかけると、千重子は無言で風呂敷を解いた。
現れたのは、金銀の延べ棒ではない。
きれいに洗われ畳まれた、冬の陽光を受けて銀色に鋭く輝く、南山製・空き缶(ブリキ缶)の山であった。
「…こ、これは!」
伊勢屋の目が釘付けになる。商人の本能が、その価値を瞬時に計算したのだ。
「小荷駄用(業務用サイズ)の塩漬牛肉の空き缶、十個ございます。蓋の切り口も、ご覧の通りやすりをかけ、滑らかに処理してありますわ」
この時代、先進工業地帯である南山からもたらされる純度の高いブリキ缶は、工業の遅れた京都においては単なるゴミではない。亜鉛メッキ薄板鋼板の超一級の「産業資源」であった。
京の職人たちは、これを加工して子供の玩具や、灯明の油差し、あるいは安価な食器、簪の金具へとリサイクルする。鉄が不足し、粗悪な地金しか出回らぬ今、南山製の不純物のない空き缶は、貨幣以上の価値を持つ「都市鉱山」なのだ。
「伊勢屋さん。南山のブリキは錆びません。輝きが違います。これだけの量があれば、簪の金具がいくつ作れるかしら? それを祇園の芸妓衆に売れば、一体どれほどの利になりますこと?」
千重子は、缶の一つを指先で弾いた。キーン、と硬質で澄んだ音が響く。それは、品質を保証する音色だった。
「卵二〇個と交換では、私が損をするくらいですけれど…會津と京のよしみに免じて、いかが?」
千重子は、あくまで上品に、しかし冷徹な経済合理性を突きつけた。
伊勢屋は、額に脂汗を浮かべ、脳内のそろばんを高速で弾いた。卵二〇個の仕入れ値と、ブリキ缶一〇個から生み出される加工品の利益。勝負は明白だった。彼は降参したように頭を掻いた。
「かないまへんなぁ、奥方様には。へえ、分かりました。極上の赤玉、今朝産まれたばかりのやつを揃えさせてもらいまっさ」
兵站確保、第一段階完了。
千重子は、空き缶という文明の廃棄物を、卵という生命の源へと、知恵という名の触媒を使って錬金してみせたのだ。彼女の胸の奥で、頼母への無言の報告が響いた。
(あなた、一つ勝ちましたよ)
◆
次なる目標は「牛乳」である。
こればかりは、市場にはない。東国では牛乳配達すら始まっていると聞くが、保守的な京の町では、いまだに牛は田畑を耕す労働力であり、その乳を飲むなど野蛮な行為だと忌避される傾向にあった。
だが、千重子には確かな心当たりがあった。
京の郊外、静かな竹林に囲まれた一角に、ある旗本の隠居所がある。彼は若い頃に南山奉行所の役人として赴任しており、帰国後も南山風の生活様式を頑なに守り続けている「ハイカラ隠居」として有名だった。
隠居所の庭には、季節外れの薔薇が植えられ、硝子障子からは暖かな光が漏れている。縁側で、奇妙な形をした渡来物のパイプをふかし、紫煙をくゆらせていたのが、この家の主、大久保翁であった。
「頼みがある、だと?」
大久保翁は、あごひげを撫でながら、怪訝そうに千重子を見た。その身には、着流しの上にウールの半纏を羽織るという、和洋折衷の奇抜な格好をしている。
千重子は、照姫から預かった直筆の書状を、うやうやしく差し出した。
「照姫様よりのお言葉です。『大久保殿が隠し持たれているという、南山の白き蜜を、殿のために分けては頂けぬか』と」
大久保翁は書状を一読すると、苦虫を噛み潰したような、しかし、どこか懐かしむような複雑な表情を浮かべた。パイプの煙が、風になびく。
「耳が早いな、照姫様は。わしが毎朝、珈琲に入れて楽しんでいる『練乳』のことを言っておられるのか」
「はい。殿は御病後で、食が進みませぬ。京の薄い粥では力がつかず、ただ痩せ細るばかり。翁が愛する南山の滋養で、殿をお救いしたいのです」
千重子は、板敷きの床に手をついて、深く頭を下げた。
筆頭家老の妻が、一介の隠居旗本に頭を下げる。それは武家の面目としては異例のことだ。だが、今の彼女にとって、夫の主君である容保の命をつなぐことは、己のプライドよりも遥かに重い。
その真摯な姿に、大久保翁の古びた記憶が揺り動かされた。文明開化の音が響く東国とは異なり、因習に囚われたこの京の都で、新しい風を理解する者同士の共鳴とも言えた。
「頭を上げなされ、奥方」
翁の声が、少しだけ湿り気を帯びた。
彼は立ち上がり、奥の土蔵へと向かった。やがて戻ってきたその手には、大切そうに油紙に何重にも包まれた、ずっしりと重い缶が握られていた。
包みが解かれると、そこには鷲のマークが誇らしげに刻印された「南山酪農公社製・加糖練乳」の文字が輝いていた。
「持っていきなされ。南山の牛の乳を煮詰め、砂糖を加えた保存食じゃ。東国ならいざ知らず、この京で手に入るまともな乳製品はこれくらいのものでな。弱った体に活力を与える、命の塊じゃよ」
翁は缶を千重子に手渡すと、ニカっと笑い、歯の抜けた口を見せた。
「ただし、毒見は無用だぞ。これは毒どころか、舐めれば天国へ行ける甘露じゃからな。容保公に伝えてくだされ。南山の風を忘れるな、とな」
「かたじけのうございます。この御恩、決して忘れませぬ」
千重子は、その缶をまるで秘仏でも預かるかのように、風呂敷に包んだ。
兵站確保、第二段階完了。
◆
こうして、千重子は卵と練乳という、当時の京においてはダイヤモンドにも匹敵する戦略物資を手に入れた。
籠はずっしりと重い。だがその重みこそが、容保の命の重みであり、夫・頼母の苦労を分かち合う証でもあった。彼女は夕闇が迫る京の町を、戦場(金戒光明寺)へと向かって、力強く歩き出したのである。
つづく




