第三話 蒸気とゴムの帝国
これは、後に南山共和国の政務首席として、一癖も二癖もある移民国家を纏め上げることになる男、勝義邦(海舟)が、晩年に南山の明望の私邸で書き残した未完の回顧録――その冒頭部分である。
雨が降るから泥濘になるんじゃねぇんだよ
歴史って奴は、後から振り返れば一本の綺麗な舗装路に見えるもんだが、その渦中にいる人間にとっちゃ、足を取られる泥濘の獣道に過ぎねえ。 特に、俺たちが生きたあの時代 -嘉永から安政にかけての日本って国は、まるで蒸気機関の圧力弁が壊れたボイラーみたいに、いつ爆発してもおかしくない熱気を孕んでやがった。
学者先生たちは、徳川の三百年を「泰平」だなんて書くが、冗談じゃねえ。あれは平和だったんじゃない。ただ、戦の場所が血生臭い関ヶ原から、脂と潮の匂いがする市場と外洋に移っただけのことさ。 俺は今、南山の首都・明望の丘からこの海を見下ろしているが、あの頃の江戸湾の、鉄錆と野心の混じった匂いが、昨日のことのように鼻について離れねえんだ。
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手元に一枚の古ぼけた地図がある。安政年間に、幕府の天文方が刷った『大日本南洋総図』だ。 こいつを眺めると、当時の日本という国がいかに奇妙で、そして貪欲な怪物だったかがよく分かる。北は蝦夷地から、南は赤道を越えて南山諸島、入安島、そして豪州の北岸に至るまで、葵の御紋が散らばっている。
事の起こりは戦国の昔だ。堺や博多の商人が南へ南へと欲を伸ばし、太閤秀吉がその切っ先を朝鮮ではなく、入安や豪州という未開の沃野へ向けた。
そして徳川の狸親父たちは鎖国なんてケチな真似はせず、その権益を直轄貿易という形で独占しちまった。 長崎、博多、堺、下田。これらの港からは、朱印船が進化したいわゆる「黒船(和製ガレオン)」や、後には蒸気船が次々と南へ下り、巨万の富を吸い上げて帰ってくる。
おかげで、日本は世界でも稀な「二つの顔」を持つことになった。 一つは、武士が威張り、農民が米を作る、古色蒼然たる封建の顔。 もう一つは、商人が世界相場を睨み、職人が鉄を打ち、南洋帰りの荒くれ者が幅を利かせる、近代産業の顔だ。 この二つの顔が、一つの胴体に無理やりくっついているんだ。歪みが出ないわけがねえだろう?
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一八五〇年代の江戸の町を歩けば、鼻の利く奴ならすぐに時代の変化と産業の血流を嗅ぎ取れたはずだ。
長屋の軒先には、南山のプランテーションから運ばれた生ゴムを、江戸の化学工場で加工したゴム引き合羽が干してある。雨の多いこの国で、水を通さない南洋の樹脂は、金よりも有り難い発明だった。
飯時の匂いも変わった。魚を焼く煙に混じって、甘辛い醤油と脂の匂いが漂ってくる。牛鍋だ。南山や豪州の広大な牧場で育ち、現地の巨大な缶詰工場で加工されて運ばれてくるコンビーフや冷凍肉が、江戸っ子の胃袋を支えていた。
だが、勘違いしちゃいけねえ。南山はあくまで”資源の倉庫”で、それを使って高度な”モノ”を作るのはあくまで本土の仕事だった。 例えば横浜や横須賀、仙台の造船所では、南山の鉄と石炭を使って巨大なボイラーを造る。 そして山形や 會津といった東北の城下町では、冬の間の手仕事として発達した精密加工技術が、最新の技術と結びついていた。
會津製の航海時計や山形製の測量機器は、その精度の高さで英米の品と張り合っていたほどだ。
「文武両道」の中身は、「算盤と科学」に摩り替わっていた。 漢詩を作る才能より、複式簿記ができる才能が出世の近道になり、剣術の腕前より、 會津製の照準器を調整できる奴が重宝される。 これについていけねえ古い連中の不満が、澱のように溜まっていったのも無理はねえ。
特に深刻だったのは、東と西の断絶だ。 俺のいた江戸や、水戸、仙台、 會津といった東国は、南山航路と重工業、精密工業が直結し、煙突が林立する「工場の国」になっていた。
一方で、京や大坂を含む西国は、昔ながらの農業と、清国相手の細々とした商売に頼っていた。彼らは南山からの富の恩恵を十分に受けられず、東国の奴らが黒い煙を吐き出しながら、自分たちを置いてきぼりにしていくのを指を咥えて見ているしかなかった。
「帝の威光」だの「国体」だのと、西の連中が騒ぎ出したのは、結局のところ嫉妬だ。 だが嫉妬ってのは馬鹿にならねえ。それは時として最新のアームストロング砲よりも恐ろしい破壊力を生む。 安政の初め頃にはもう空気は張り詰めていた。江戸の空には煤煙が、京の空には殺気が、それぞれ立ち込めていたのさ。
そんな、今にも弾け飛びそうな「蒸気とゴムの帝国」の片隅で、俺は海軍伝習所の教官なんて貧乏くじを引かされていた。 毎日、生意気な諸藩の若造どもに、「面舵」だの「取舵」だの、あるいは「社会契約」だのを叩き込む日々だ。
ある日の夕暮れ、築地の軍艦操練所の桟橋で、俺は腐れ縁の「とある男」を待っていた。 海風には、品川の製鉄所から流れてくる鉄錆の匂いが混じっている。 沖合には、豪州から帰港したばかりの満載喫水の輸送船が、夕陽を浴びて黒い巨体を休めていた。
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背後で複数の足音がした。 訓練された音を殺した足音だ。
振り返ると桟橋の入り口付近の物陰に、洋装だが腰に大小を差した鋭い眼光の男たちが四名ほど、周囲を警戒して立っていた。 會津藩の精鋭「別選組」の連中だ。
そして、その中央から一人の青年が歩み出てきた。 仕立ての良いフロックコートに、あえて時代錯誤な大小の刀を差している。そのアンバランスさがこの男には奇妙に似合っていた。
顔にはかつて品川の泥の中で負った火傷の痕が、勲章のように薄く残っている。
會津藩主 松平容保
この国の歪みを誰よりも理解し、それでいて、その歪みごと国を背負おうとする、悲しいほどに真面目な男。 彼はつい先刻まで、江戸城での熾烈な政治戦争の中にいたはずだ。西国の不満を抑えきれない老中たちを相手に、南山予算の増額と、艦隊の増強を叫んできたのだろう。その顔には、隠しきれない疲労と、燃えるような闘志が同居していた。
「お早いお着きで。……お城の古狸どもは、まだ寝言を言ってやがりましたか」
俺が皮肉交じりに尋ねると、彼は夕陽に染まる江戸湾を見渡し、静かに、しかし断固とした口調で答えた。
「相変わらずだ。彼らはまだ、この国が”島国”だと思っている。…だが、海は繋がっているのだ」
彼は俺の横に並び沖合の船を見つめた。その瞳には、すでにこの狭い列島を超えた、遥か南の水平線が映っているようだった。
「勝。嵐が来るぞ。」
「知ってますよ。だから俺たちは、沈まねえ船を造ってるんでしょうが」
俺はキセルを取り出し、南山葉巻の紫煙を吐き出した。 蒸気とゴム、嫉妬と理想、精密な歯車と錆びた刀。全てをごちゃ混ぜにした狂騒の時代が、いよいよ幕を開けようとしていた。 やれやれ、退屈しねえ国に生まれたもんだ。




