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第20話 黒谷の魔女たち - 第一の障壁:熱力学の戦い・あるいは煉瓦の城塞

其の二 第一の障壁:熱力学の戦い・あるいは煉瓦の城塞


同日 午後 金戒光明寺・庫裏くり裏庭


 料理とは、突き詰めれば「化学変化」と「熱移動」の制御に他ならない。南山から輸入された最新の理化学書にはそう記されているし、多分書いた学者は料理などしたことはないのだろうなと思いつつも、竹子もその理屈は頭では理解していた。


 だが、眼前の敵、すなわち、数百年変わらぬ構造を持つ、日本の伝統的なかまどは、西洋菓子が要求する繊細な熱管理を、頑固な老人のように拒絶していた。


「なりませぬ。これでは、殿の胃袋を慰めるどころか、消し炭を献上することになります」


 竹子は、腕組みをして竈を睨み据えた。日本の竈は、薪を燃やして鍋底を炙る「直火加熱」には特化している。米を炊き、汁を煮るには最強の道具だ。


 しかし、今回の作戦目標である『カステラ・プディング』が求めているのは、全方位から優しく、かつ均一な熱で包み込む天火(オーブン加熱)である。この竈に生地を突っ込めば、底は焦げ、上は生焼けという、戦術的敗北は火を見るより明らかであった。


「熱を、回さねばなりませぬ。敵陣を包囲殲滅するが如く、全周からの包囲攻撃ヒート・サラウンドが必要なのです」


 竹子は、腰に下げた手ぬぐいをきりりと締め直した。


 彼女の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。會津藩において、誰よりも「火」と「鉄」、そして「爆発的な熱エネルギーの制御」に精通した男。


「砲兵隊の出番でございますね」


 竹子は、小野派一刀流の足運びで、本陣の一角にある武器庫へと走った。


          ◆


會津藩砲兵隊・屯所


 そこは、寺院の中とは思えぬほど、油と鉄の匂いが充満する空間であった。机の上には江戸から取り寄せた弾道計算表や、分解された銃の部品が散乱している。 その中心に分厚い眼鏡をかけ、書物に顔を埋めるようにして読みふけっている男がいた。


 會津藩公用方にして砲兵隊長、山本覚馬である。彼の視力は日増しに衰えていたが、その代償として彼の脳内にある論理的思考回路は、研ぎ澄まされた刃物のように冴え渡っていた。


「山本様。軍事顧問として、至急のご相談がございます」


 竹子が戸口で声を張り上げると、覚馬はゆっくりと顔を上げた。


「ほう、中野の娘か。長州が動いたか? それとも新型銃の暴発か?」


「いえ。事態はより深刻です。『カステラ』の焼成についてでございます」


「…は?」


 覚馬は眼鏡の位置を直し、怪訝な顔をした。だが、竹子が差し出した勝海舟からの手紙と照姫の決意、すなわち、容保公の拒食を救うための極秘作戦を聞かされると、彼の表情は一変した。それは、難解な数式を前にした数学者のような、知的好奇心と使命感に満ちた顔つきであった。


「なるほど…。殿の胃の腑を救うための、兵站支援か。…面白い。実に理に適っている」


 覚馬は立ち上がり、黒板にチョークで何やら図を描き始めた。


「良いか、竹子。菓子を焼くという行為は、砲身内部における火薬の燃焼と原理は同じだ。密閉空間における気体の膨張。これこそが『ふくらみ』の正体だ」


 覚馬は、黒板に「卵」の絵と「大砲」の絵を並べて描いた。傍から見れば狂気の沙汰だが、二人は至って大真面目である。


「従来の竈は、熱エネルギーが上方へと散逸する開放型だ。これでは、生地内部の気泡が熱膨張を起こす前に、底面だけが炭化する」


「では、如何すれば?」


「熱を閉じ込め、反射させ、対流させるのだ。アームストロング砲の砲身冷却理論を逆用する」


 覚馬は別の図面を広げた。それは横須賀の製鉄所で使用されている「反射炉」の縮小版のような設計図であった。


「名付けて、対熱衝撃・反射式簡易天火リバーブ・オーブン。材料は、本陣の改修用に積んである南山製の耐火煉瓦と、古寺の瓦を使う」


「耐火煉瓦! あの、銃弾をも弾くと噂の!」


 竹子の目が輝いた。


「うむ。あれは熱伝導率が低く、蓄熱性が高い。

竹子、お主の役目は、この図面通りに煉瓦を積み上げ、熱の要塞を構築することだ。隙間は一分いちぶたりとも許されんぞ。熱気という敵兵を、一兵たりとも逃がすな」


「承知!この中野竹子、石垣普請の覚悟で挑みます!」


          ◆


金戒光明寺・中庭


 それから数時間、黒谷の静寂な中庭に竹子の気合の入った掛け声と、煉瓦が積み上げられる硬質な音が響き渡っていた。


「てぇぇぇいッ! そこだ、貴様(煉瓦)の重心はそこにあるはずだ!」


 竹子は、たすき掛けに袴姿で、赤茶色の煉瓦を積み上げていた。その所作は、左官屋のそれではない。完全に武術の「型」であった。


 煉瓦を掴む指には、敵の喉笛を掴むかのような力が込められ、積み上げる動作は、居合の抜刀のように迅速かつ精密。モルタル代わりの漆喰を塗るコテ捌きに至っては、薙刀の石突きを繰り出すような鋭さである。


 その背後で、覚馬が腕組みをして監督していた。彼はほとんど見えていないはずだが、音と気配だけで状況を把握しているようだった。


「竹子、三段目の右。音が軽い。漆喰の密度が足りんぞ。そこから熱が漏れる」


「はッ! 申し訳ありませぬ!」


 竹子は即座に修正する。積み上げられた構造物は、かまぼこ型のドーム状をしており、内側には熱を反射させるために磨き上げられた古瓦が敷き詰められている。それは、菓子を焼くための窯というよりは、どう見ても小型のトーチカ(防御陣地)にしか見えなかった。


「山本様。空気の吸入口インテークは、この角度でよろしいので?」


「うむ。柴又帝釈天の近所で見た、ピザ焼き窯の構造を参考にした。下から吸い上がってきた冷気は、燃焼室で加熱され、ドーム天井に当たって対流コンベクションを起こす。この熱の風が、生地を包み込むのだ」


 覚馬は、熱っぽく語った。


「火加減の要諦は、弾道計算と同じだ。初期加速(予熱)は最大火力で一気に立ち上げ、巡航高度(焼成)に入れば安定させる。そして着弾(仕上げ)に向けて、余熱で優しく着地させる」


「なるほど。つまり、火加減は敵陣を焼き払うが如く猛々しく、かつ赤子の肌を撫でるが如く繊細にということでございますね」


「その通りだ。さすがは免許皆伝、飲み込みが早い」


 通りかかった若い藩士たちが、二人の会話を耳にして、顔を見合わせた。


「おい、聞いたか? 敵陣を焼き払うだと?」


「長州攻めの軍議か?」


「いや、赤子の肌とも言っていたぞ…何の暗号だ?」


 彼らは知らない。この物騒な軍事用語の応酬が、すべて「ふわふわのカステラ」を作るためだけに行われていることを。


 やがて、夕暮れと共に、庭の隅に奇妙だが堅牢な要塞が完成した。高さ三尺。南山煉瓦の赤と、日本の黒瓦のコントラストが美しい、和洋折衷のオーブンである。


「…ふぅ」


 竹子は、額の汗を拭った。手のひらは漆喰で荒れ、爪の間には赤土が入り込んでいるが、その顔には強敵を討ち取った後のような清々しい達成感があった。


「見事だ、竹子。これならば、アームストロング砲の砲弾ですら、焼き菓子のようにふっくらと仕上がるだろう」


 覚馬が、煉瓦の壁をコンコンと叩きながら満足げに言った。


「恐れ入ります。ですが山本様、一つ懸念が」


「なんだ」


「この要塞、一度火を入れたら、冷めるのに半日はかかります。失敗した場合、証拠隠滅が困難かと」


 覚馬は眼鏡の奥で目を白黒させ、そしてニヤリと笑った。


「ならば、成功させるまでだ。砲兵に次弾装填の猶予はない。一撃ワン・ショット・必中ワン・キルこそが、我らの流儀だろう?」


「御意!」


 竹子は、完成した窯に向かって深々と一礼した。  それは、これから始まる「火と小麦粉の戦い」への、宣戦布告の礼であった。


   ◆


 一方その頃、京の町ではもう一人の戦士—千重子が、別の戦場(市場)で「卵」という名の弾薬確保に奔走していたのだが、それはまた別の話である。




つづく


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