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第20話 黒谷の魔女たち - 序章 甘露なる毒・あるいは箱底の処方箋

其の一 甘露なる毒、あるいは箱底の処方箋


元治元年(一八六四年) 早春 京・黒谷 金戒光明寺


 京の都における「底冷え」とは、単に気温が低いということではない。それは千年の歴史が澱ませた湿気と、幾多の戦乱で染み込んだ怨嗟が、盆地の冷気によって凝り固まり、あたかも実態を持った重みとなって、生者の肌から熱を奪いにくる妖気のごときものであった。


 禁門の変から半年。焼け野原となった市中から立ち上る焦げ臭さは、今もなお雪の下から亡霊のように滲み出し、都の空気を灰色に濁らせている。


 だが、ここ金戒光明寺の一角、京都守護職にして会津藩主・松平容保の正室、照姫てるひめの居室だけは、世のことわりから切り離されたかのような、別世界の暖かさに満たされていた。


 部屋の中央には、舶来の鋳鉄製ストーブがあり、中では無煙炭が赤々と燃えている。煙も煤もごく少なく、ただ純粋な熱気のみを静かに吐き出すその黒い石は、本来であれば黒船の腹を動かすための産業の血であり、京の貧しい町人が啜る薄い粥を何百回も炊けるほどの、法外に高価な燃料であった。


 その人工の陽だまりを囲むように、三人の女が車座になっていた。


 この場の主であり、夫・容保を支える理性と慈愛の会津藩主正室、照姫。


 会津藩家老・西郷頼母の妻であり、藩邸の台所事情と、狂乱する京の物価を差配する奥向き(ストラジック)の守護者、千重子ちえこ


 そして、会津藩勘定役・中野平内の長女であり、小野派一刀流の免許皆伝。薙刀を持たせれば鬼神の如き強さを誇るが、普段は些か真面目すぎるきらいのある若き女武者、竹子たけこ


 彼女たちの視線は、部屋の中央にある卓袱台の上に釘付けになっていた。そこには漆塗りの盆の上に、あまりに場違いな「銀色の筒」が鎮座していたからだ。 

 「南山物産特選 鳳梨パイナップル蜜漬缶」。


 極彩色で多色刷り(クロモ・リトグラフィ)されたラベルには、南洋の突き抜けるような青空と、鎧のように刺々しい皮を持つ奇妙な果実の絵が描かれている。それは南山の東國資本の工場で生産され、黒煙を吐く蒸気船で運ばれてきた「文明の雫」であった。


「これが、江戸で噂の『幻の果実』でございますか」


 竹子が恐る恐る問うた。彼女の膝には武家の娘らしく、折り目正しく手が置かれているが、その聡明な瞳には、未知の怪物を見るような警戒心と、抗いがたい好奇心が同居していた。


 彼女たちにとって缶詰そのものは珍しいものではない。會津藩邸の備蓄庫には、南山から送られてきた「牛肉大和煮コンビーフ」や「鮪の油漬け(ツナ缶)」、蝦夷地製の「銀鮭の水煮( 鮭 缶 )」といった実用的な缶詰が山積みされている。戦時下にある京において、長期保存がきく糧食は必須であり、彼女たちも日常的に、その独特の滋味ある肉や魚を口にしていた。


 だが、この「鳳梨パイン」だけは別格であった。


「ええ。殿への陣中見舞いとして、江戸の軍艦奉行・勝安房守さまから届けられたものです。『南山の太陽を、腐らせずに鉄の皮で包みました』との口上が添えられていましたよ」


 照姫は、白魚のような指で、缶の側面を愛おしげに撫でた。


「千重子、そなたなら知っているでしょう? この缶が今、どれほどの値で取引されているかを」


 水を向けられた千重子は、主婦の顔と、藩財政を案じる役人の顔をないまぜにして、ため息をついた。 

「えぇ、聞き及んでおります。昨年の南山・北嶺島を襲った大嵐(野分)の影響で、鳳梨の収穫量は例年の三割以下に落ち込んだとか。それに加え、江戸の富裕な商人や女子おなごたちの間で爆発的な流行となり、一缶につき一両……いえ、闇値では三両でも手に入らぬこととなっております」 


「さ、三両!?」


 竹子が素っ頓狂な声を上げた。三両あれば下級武士の一家が数ヶ月は暮らせる。たかが果物の砂糖漬け一缶に、それほどの価値があるというのか。千重子は続ける。


「はい。東国の商人たちが買い占め、蔵に隠匿しているため、市場には全く出回っておりません。勝様も、よくぞこれを手に入れられたものです。これはもはや食品ではなく、食える宝石、あるいは食べる金塊と言って差し支えありません」


 竹子が、改めて目の前の缶詰を見つめ直した。ただのブリキの筒ではない。そこには、天変地異、物の欠乏、そして人の欲望という浮世の縮図が凝縮されているのだ。彼女は、武術の達人として「間合い」を測るように、その缶との距離を詰めかねていた。


「では、開けますよ。今の京で、これほど贅沢で、そして不吉な音が他にあるかしら」 


 照姫は、缶の横に添えられた奇妙な道具――缶切り――を手に取った。南山製の鋼鉄で作られたその刃は鋭く、果物を剥くというよりは、敵船の装甲をこじ開けるための凶器のような機能美と冷たさを秘めている。照姫が切っ先をブリキの蓋に突き立てる。


 プシュッ。


 密閉されていた空気が抜ける微かな音。それは、南山の気が京の気に触れた音でもあった。続いて照姫は手首の返しを利かせ、刃を進めていく。


 キリキリ、キリキリ、シュッ。 


 金属が悲鳴を上げて切り裂かれる音が、静寂な室内に響く。その音は、戦場で刀と刀が擦れ合う音にも似ていたが、ここにあるのは殺意ではなく、純粋な食欲への前触れであった。 


 蓋が持ち上げられた、その瞬間。 


「……!」


 三人の女は、同時に息を呑んだ。


 爆発的に解き放たれたのは、濃厚で、暴力的で、そして目眩がするほどに甘美な芳香であった。それは、お香や線香の匂いや、古びた沢庵の酸っぱい匂い、そして血と硝煙の臭いが染み付いた京の都にあって、呼吸するだけで罪悪感を覚えるほどの「生命の香り」であった。


 輪切りの黄金色の果肉が、筒の中に円満に収まり、とろりとした蜜が間を埋め尽くしている。それはまるで、南山の太陽そのものを溶かして閉じ込めたかのようだった。


 照姫は、その黄金を南山製の硝子ビードロの器に取り分けた。カチャン、と涼やかな音がする。


 さらに彼女は、暖炉の上の薬缶から湯を注ぎ、傍らの水注ポットで手早く何かを淹れ始めた。黒く濁った液体が、白磁の茶碗に注がれる。「珈琲コーヒー」である。南山入安島の高地で栽培された豆を、深く焙煎し、布で濾したものだ。これもまた、会津藩邸では夜警の将校たちが眠気覚ましに愛飲しているが、奥向きの女たちが口にすることは稀な「男たちの飲み物」であった。 


「さあ、召し上がれ。これが噂の『極楽浄土の味』です」


 促され、千重子と竹子は、まず鳳梨を口に運んだ。

 竹子は、まるで毒見役のような緊張した面持ちで、銀のフォークを突き刺し、ひと口分に切って口へと運ぶ。


 咀嚼。


 瞬間、彼女の目が限界まで見開かれた。


「……んっ!? ……あ、甘い……ッ!」 


 竹子が、武人らしからぬ上擦った声を漏らす。和三盆の上品で慎ましい甘さではない。砂糖の蜜を極限まで吸い込んだ果実は、舌が痺れるほどに甘く、同時に強烈な酸味が口中を爆撃し、南洋独特の熱い香気が鼻腔を駆け抜けて脳髄を直接揺さぶった。


 それは味覚というより、一種の幻術に近い体験だった。


「美味しい。けれど、どこか恐ろしい味ですわ」


 千重子が、複雑な表情で呟く。


 彼女の舌は、この一切れに含まれる砂糖の量が、京の町家の一ヶ月分の調味料に匹敵することを瞬時に計算していた。飢えた民が粥をすすっている壁一枚隔てた場所で、自分たちは一缶三両の黄金を食んでいる。その背徳感が、甘さをより一層際立たせる。


「そして、この黒いお湯……苦い、煎じ薬のようですけれど、飲むと身体の芯がカッと熱くなります」


 竹子が珈琲に顔をしかめつつも、その即効性のある薬効に驚きの声を上げる。照姫は、優雅に茶碗を持ち上げ、その漆黒の液面を見つめた。


「これは『覚醒の薬』なのよ、竹子。南山や東国の男たちは、これを飲んで眠気を殺し、夜通し機械を動かし、図面を引くのです。彼らはもう、お天道様と共に起き、沈めば眠るという牧歌的な暮らしをしておりません。時計の針が刻む『カチ、コチ』という無機質な音に合わせて、己の命を削って働いているのです」


 照姫の言葉には、文明への羨望よりも、深い憐憫が含まれていた。


「千重子、竹子。私はね、時々思うのです。私たちは、この甘い毒を守るための『番犬』にされているのではないかと」


 照姫は、中身の空になった缶詰をじっと見つめた。精巧なブリキの輝き。内側は果実の酸で腐食しないよう、丁寧に施しがされている。それは会津藩そのもののようにも見えた。


 強固な鎧(武力)と忠義で中身を守っているつもりで、実は外部(幕府や東国の商人)から切り刻まれ、中身(命と誇り)を美味しく貪り食われるのを待つだけの、哀れで便利な器。


「殿をお守りしなければなりません。敵の剣からではありません。殿ご自身を焼き尽くす、『忠義』という名の業病ごうびょうから」


 照姫の瞳に、悲壮な決意の炎が宿った、その時だった。


「ん? これは…」


 缶詰を取り出した後の木箱。その底に敷き詰められた、南山松の削り屑だろうか、森の香りがする緩衝あてもの代わりのカンナ屑の中に、何かが埋もれていることに照姫は気づいた。彼女は、まるで不発弾を処理するかのような慎重さで、その異物を取り出した。


 出てきたのは、油紙に包まれた一冊の薄い冊子と、コルク栓のされた二つの小さなガラス瓶だった。


「これは…書物? それに、薬でしょうか」


 千重子が身を乗り出す。


 ガラス瓶の一つには、片栗粉のような真っ白な微粒子が。もう一つには、黒く干からびた植物のさやのようなものが入っている。


 照姫は冊子を開いた。表紙には、活版印刷の唐様の書体でこう記されていた。


『南山家庭医書付録・ふさぎの虫を払う慈悲の菓子 加寿天羅カステラ・プディング製法』


「菓子の、製法?」


 竹子が目をぱちくりとさせる。そして、草紙の間に挟まれていた一枚の和紙が、ひらりと畳の上に落ちた。拾い上げると、そこには見覚えのある、奔放で力強い筆文字が躍っていた。


 *


拝啓


京の寒さは、江戸とはまた違って底冷えがいたしますな。御前様におかれましては、いかがお過ごしで

……いや、お元気なわけはねえ。風の噂に聞きましたよ。容保の旦那、心労が重なって食い物も喉を通らず、まるでお痩せになって枯れ木のようだとか。


これはいけねえ。全く、いけねえ。


男って生き物は、腹が減っちゃあ戦もできねえし、まともな判断も下せなくなる。

忠義だのメンツだのといった理屈をいくら並べ立てたところで、腹は一向に膨れやしねえんでございます。


南山あたりでは、病み上がりの者や、どうにも気が塞いで心が風邪をひいちまった時に、これを食わせるんだそうです。


卵と砂糖と小麦粉。それに同封いたしました白い粉:’重曹タンサン」と黒い鞘「バニラビーンズ」という香料がありゃあ、誰にでもこしらえられる。


失礼を承知で申し上げますが、殿様の命を救うのは、苦い薬でも、お偉い坊主の説法でもねえ。甘くて、温かくて、柔らかい——そんな「旨い飯」と、家族の笑顔。結局はそれこそが、一番の薬になるもんです。

御前様、ひとつ、旦那のために腕を振るってみてはくださいませんか。


追伸

もし形が崩れて失敗したって、「あら、失敗しちゃいました」と笑って済ませちまうのがコツでございます。


勝 安房守 拝


 *


 読み終えた照姫の手が微かに震えていた。

 勝海舟。江戸っ子特有の乱暴な言葉遣いの中に、不器用だが温かい配慮が満ちていた。彼は知っていたのだ。容保を殺そうとしているのが、長州の弾丸ではなく、政治的重圧と栄養失調であることを。


「…重曹に、バニラ…」


 照姫は、小瓶を手に取った。

 黒く干からびた植物の鞘—バニラビーンズの栓を抜く。

 瞬間、甘く、妖艶で、それでいてどこか母性を感じさせる芳醇な香りが立ち上り、パイナップルの攻撃的な酸味とは異なる、安らぎの香気が部屋の空気を塗り替えていく。それは殺伐とした黒谷の本陣にはあまりに不似合いな、平和と団欒の記憶を呼び覚ます香りだった。


「…殿は先月の流感インフルエンザが癒えてからも、お加減が優れません」


 照姫は、静かに、しかし憂いを帯びた声で語り始めた。


「熱は下がりましたが、咳が残り、何より食が細いのです。朝夕の膳を下げさせると、お粥には箸をつけた跡すらございません。ただ、夜中にこっそりと、南山から届いたビスカウト(硬焼ビスケット)や干し柿を齧っておられる姿を、小姓が見ております」


「なんと。それでは、お身体が持ちませぬ」


千重子が眉を曇らせる。


「ええ。元来が食の細い方です。それに加えてこの激務と心労。

ここ数ヶ月で、軍帯の穴が二つほど縮まりました。頬も痩け顔色はまるで半紙のようです。

本人は公務に支障なしと強がっておられますが、妻の目をごまかせるものではありません」


 照姫の言葉には夫への深い愛情と、それを支えきれない無力感が滲んでいた。


 容保が必要としているのは、苦い薬湯や無理やりに流し込む玄米粥ではない。疲弊した胃袋が自然と受け入れ、萎縮した心を内側から温めてくれるような、優しく甘い滋養なのだ。


 勝海舟の手紙にある「甘くて、温かくて、柔らかい」という言葉が、照姫の胸にすとんと落ちた。それは、今の容保が、言葉には出せずに求めている「救い」の形そのものではないか。


「千重子、竹子。……力を貸して頂けますか?」


 照姫は顔を上げた。その瞳から、先ほどまでの悲壮な色は消え失せ、代わりに難問に挑む棋士のような、静かだが凛とした理知の光が宿っていた。


「「殿の御膳に、この『南山の菓子』を上げとうございます。今の殿に必要なのは、まつりごとの正しさよりも、生きていくための熱量(カロリー)と、食事の喜びです。この見慣れぬ処方箋(レシピ)を解読し、殿の頑なに閉ざされた胃の腑を、優しく解きほぐして差し上げたいのです」


「…御意にございます」


 千重子は深く平伏した。その脳裏では、早くも京の市場における鶏卵と牛乳の相場勘定が始まっているようであった。


「しかし、御方様」


 竹子が、小首を傾げて冊子を覗き込んだ。


「この『カステラ・プディング』なる料理、製法を見ますれば、我々の知る料理とは(ことわり)がまるで違います。『天火(オーブン)』なる密封された熱源にて、全体を均一に加熱せよとありますが……本陣の台所くりやにあるのは、煮炊き用の(かまど)のみ」


「左様。そこが最大の難所です」


 照姫は、勝からの手紙と冊子を、あたかも軍事機密の絵図面であるかのように卓上に広げた。


「直火で焼けば焦げる。蒸せば水分過多で膨らまない。必要なのは、アームストロング砲の砲身を鋳造するが如き、繊細かつ大胆な熱管理です」


「熱管理…」


 竹子がゴクリと唾を飲み込む。彼女にとって、それは小野派一刀流の秘伝書よりも難解で、しかし武芸者としての血が騒ぐ魅力的な果し状に見えた。


「毒(文明)を食らわば皿まで、と申します。東國が誇るこの技術と素材を使って、極上の菓子を焼き上げましょう。これは、過労と心労という病魔に蝕まれた殿を、食という名の『後方支援』で支える、私たちなりの(いくさ)です」


 照姫は、冊子を丁寧に、しかし力強く押さえた。決して声を荒げることはない。だが、その常識的で穏やかな口調の裏には、会津の女が代々受け継いできた、家を守るための鋼のような強さが秘められていた。


「目標は、殿の夕餉(ゆうげ)。作戦内容は三点です」


 照姫が指を折る。


「一、兵站の確保。新鮮な鶏卵と、当時の京では薬種同然の牛乳の入手」


「二、熱源の制圧。(かまど)を改造し、簡易的な天火(オーブン)を構築すること」


「三、化学変化の制御。この『重曹』と『卵白』の性質を見極め、理想的な食感を生み出すこと」


 三人の女の視線が交錯した。


 そこには、悲壮感はない。あるのは、厄介だがやりがいのある「家政」という名の軍務ミッションに挑む、主婦たちの頼もしい連帯感であった。


「やりましょう、奥方様。殿の驚くお顔が目に浮かびます」


 千重子が微笑み、(たすき)をかける動作をした。


「熱源の設計ならば、砲兵隊の山本覚馬殿に知恵を借りましょう。あの御仁なら、喜んで協力するはずです」


 竹子もまた、薙刀を構えるように両の拳を握りしめた。


 その瞬間、優雅な茶会は作戦会議ぐんぎへと移行した。甘い鳳梨パインの香りが残る部屋で、彼女たちは見えざる敵――容保の拒食と憂鬱――に挑む準備を始めたのである。


 窓の外では春を呼ぶ淡雪が、静かに降り積もっていた。それは、これから始まる温かくも騒がしい「黒谷の台所革命」の前触れのようでもあった。




つづく



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