第19話 南山の槌音 - エピローグ
約束の日曜日。
南半球の太陽は、雨季の憂鬱を吹き飛ばすかのように輝いていた。
三田村新九郎は、半月分の給金をはたいて新調した麻の三つ揃えに身を包み、喉をゴクリと鳴らしながら、明望の目抜き通りにある西洋料理店「オーシャン・パビリオン」の前に立っていた。慣れない蝶ネクタイが首を締め付けるようで息苦しいが、それ以上に心臓が早鐘を打っていた。今日は技術者としての計算も、現場監督としての采配も通用しない。一人の男として試される日である。
そこへ、一台の瀟洒な馬車が滑り込んできた。御者がドアを開ける。降り立ったのは、累だった。
新九郎は息を飲んだ。現場での、泥と油にまみれた活動的な姿とは打って変わり、この日の彼女は、タイの生糸で織られた、淡い翡翠色のドレスを纏っていた。最新のパリ・モードを取り入れつつ、裾にはマオリ伝統の幾何学模様が刺繍されている。艶やかな巻き髪には真珠の髪飾りが揺れ、その姿は南洋の姫君そのものであった。
新九郎は、あまりの眩しさに目を細めた。現場の同志としての彼女も美しいが、今日の彼女は別格だ。高嶺の花、という言葉が脳裏をよぎる。
「お待たせしました、新九郎さん」
累が微笑むと、周囲の空気が華やいだ。
「い、いえ! 拙者も…いや、僕も今来たところです!」
慌てて言い直し、彼女をエスコートする。店に入るとそこは別世界であった。豪奢なシャンデリア、純白のテーブルクロス、磨き上げられた銀食器。給仕たちが無音で動き回り、皿とグラスが触れ合う微かな音が、上品な音楽のように響いている。
運ばれてくる料理もまた、未知の領域であった。近海で獲れた牡蠣のガンボ・スープ。香り高いハーブと共に煮込まれた野牛の蒸し焼き(ステーキ)。そして、フランスから輸入された年代物の赤ワイン。
累は、まるでピアノを弾くような優雅な手つきでナイフとフォークを使いながら、楽しげに語った。新九郎は学寮で教わった西洋作法の授業を思い出しながら、必死で何気ない顔を作りながら、その話に頷いていた。
「このお店、私の祖父が出資しているんです。祖父はよく言っていました。『南山は人種のるつぼだ。英国人も、日本人も、マオリも、清国人もいる。だからこそ、食卓の上だけは平和でなければならない』と」
彼女の語る神田家の歴史は、そのまま南山の開拓史そのものであった。マオリの首長の娘だった曾祖母。浪人あがりで一旗揚げようと海を渡った曾祖父。そして英国留学と鉱山経営を経て、この国に鉄道という血管を通そうとしている父。彼女の血管には、異なる文化が衝突し、反発し、やがて融合してきた激動の歴史が流れているのだ。
「父は私を、女だからといって甘やかしませんでした。『神田の人間なら、泣き言ではなく、数字と図面で男を黙らせろ』と。でも、時々疲れるんです。期待される重圧に、押しつぶされそうになる夜もあります」
ふと見せた、弱気な横顔。グラスの縁をなぞる指先が、微かに震えているように見えた。新九郎は思わず身を乗り出していた。
「貴女は強い」
飾らぬ言葉が、口をついて出た。
「あの嵐の夜、貴女がいてくれたから、俺たちは踏ん張れたんです。貴女の引いた図面は、ただの線じゃない。俺たちが迷わぬための、羅針盤だ」
新九郎の直球な言葉に累は頬を染め、ワイングラス越しに彼を見つめた。その瞳の奥にはビジネスパートナーとしての信頼を超えた、何か熱っぽい光が揺らめいていた。
食後、二人はガス灯が灯り始めた港を散策した。夕闇が迫り、沖合の船の灯りが星のように瞬き始めている。海風が累の髪を揺らし、甘い香油の匂いを運んでくる。
新九郎は、勇気を出して、そっと彼女の手を取った。彼女はぎゅっと握り返してくれた。マメだらけで、節くれだった無骨な自分の手。そして、白くしなやかな、しかし中指には固いペンだこがある彼女の手。二つの手が、まるで最初からそうなるように作られたパズルのピースのように、温かく重なった。
「新九郎さん。私、貴方と一緒に、この国の未来図を描いていきたい」
累が、上目遣いに囁く。
「…ああ。やっぱり先に言われてしまった…
俺もですよ、累さん。貴女となら、どんな荒野にも線路を敷ける気がする」
二人の影が、煉瓦造りの倉庫街に長く伸びていた。それは新しい時代の夫婦の形を予感させる、揺るぎないシルエットであった。
◆
慶応三年(一八六七年)秋。
月日は流れ、南山の風景は劇的に変貌を遂げていた。かつて難所と恐れられたタウポ山系。今はワイカト鉄道が全線開通し、黒いダイヤ(石炭)を満載したC型タンク機関車が、新九郎たちが苦闘の末に穿ったトンネルを、勝利の凱歌のごとき轟音と共に駆け抜けていく。
三田村新九郎は、その後、スミス技師長や、周りのおっかない技師や技術者たちから、土木工学はもちろんのこと、各種建築について理論から実践までのスパルタ教育を受け、今やワイカト鉄道会社の設計部・主任技師として、駅舎や橋梁の設計を一手に引き受けていた。同時に、現場からの叩き上げとして工事部の課長も兼任し、数十人の技手、数百人の部下、数千人の労働者を束ねる立場となっていた。 かつて盛岡で穀潰しの部屋住みと呼ばれた男は、今や南山のインフラを支える若き重鎮である。
彼の相棒たちもまた、それぞれの場所で頭角を現していた。
源次は、鉄道工事で培った人脈と技術を元に「明神組」という建設請負会社を立ち上げ、その親方となっていた。
「へっ、先生! 次の現場はどこだ? 橋でもダムでも摩天楼でも、俺の若い衆が極上の仕事で片付けてやらぁ!」
相変わらずのべらんめぇ調だが、今や彼は明望の裏社会にも顔が利く、頼れる「顔役」だ。揃いの半纏を着た荒くれ者たちを顎で使い、背中の不動明王も貫禄を増している。
トーマは、大学を首席で卒業後、南山総督府の工務開発局へ入り、若き官僚となっていた。 彼はその語学力とマオリの血筋を活かし、開発に伴う土地紛争を、暴力ではなく契約と対話で解決する交渉人として奔走している。彼の上司は、かつて新九郎を技手人足斡旋所で見出し、この鉄道会社へ紹介した、あの眼鏡の役人であるという。
「シン、君が引く線路は、ただの鉄じゃない。人種の壁を越え、人々の心を繋ぐ線だ。頼りにしているよ」
洗練されたフロックコートを着こなし、片眼鏡を光らせる彼は、南山の新しいエリートの象徴であった。
そして、新九郎の隣には常に累がいた。彼女はワイカト鉄道会社の設計部で、副部長兼設計支援課長として彼の上役であり続けながら、私生活では新九郎の妻として、彼を支えている。
今、彼女のお腹には新しい命が宿っていた。
日系と、マオリと、そして新しき南山の血を受け継ぐ、次世代の子供である。
仕事は順調だった。街は繁栄し、蒸気機関の煙が空を覆い人々は豊かになった。だが、海の向こう、日本本土からは、不穏な風の便りが絶え間なく届いていた。
蛤御門の変で京の都が焼けたという凶報。
幕府による長州征伐の泥沼化。
そして将軍の死と、倒幕への動き。政情は混迷を極めていた。
ある日、明望港に日本からの定期船が到着した。タラップを降りてくる乗客たちの顔色は、数年前とは明らかに異なっていた。以前のような一攫千金を夢見る野心を見せる者は殆どいない。戦火から逃れてきた疲労と恐怖が、その表情に深く刻まれていた。
「始まるのか、内戦が」
新九郎は、港の拡張工事の現場に立ち、真新しい青焼き図面を握りしめながら、遥か北の空を睨んだ。 本土では、かつての同胞たちが、佐幕だ倒幕だという旧態依然としたイデオロギーのために、殺し合いを始めようとしている。自分が捨てたはずの「刀の世界」が、断末魔の叫びを上げているのだ。
(俺は、逃げたのか? …いや、違う)
彼は振り返り、背後に広がる明望の街並みを見た。林立する赤煉瓦の煙突、建設中の鉄骨ビル群、活気ある市場、そして路面電車が行き交う大通り。ここには、日本が失おうとしている、あるいはまだ見ぬ「未来」がある。
「新九郎さん」
累が、大きくなったお腹を労りながら歩み寄ってきた。彼女もまた、港に降り立つ避難民の群れを、憂いを含んだ瞳で見つめていた。
「…準備、急がないといけませんね」
「ああ。本土から、もっと多くの人が海を渡ってくる。彼らを受け入れるための住居、上水道、病院、そして仕事を用意しなければ」
新九郎は胸元から、愛用の万年筆を取り出した。彼が今引くべき図面は、単なる鉄道や駅舎ではない。 崩壊する祖国から逃れてくる幾万人もの同胞を受け入れ、彼らに新しい生を与えるための、巨大な「箱舟」としての都市計画図だ。
遠くから、夜間工事の蒸気ハンマー(スチーム・ハンマー)が杭を打つ音が聞こえてくる。
ドーン、ドーン、ドーン。
それは、本土の戦場で響く破壊の大砲の音とは違う。大地を揺るがし、基礎を固め、新しい国を創り上げていく、力強い建設の鼓動、南山の槌音であった。
新九郎は、深く息を吸い込んだ。南山の夜気は、冷たく澄んでいて、石炭と潮の香り、そして微かに希望の匂いがした。
彼はもう迷わなかった。かつて腰に帯びていた二本差しの代わりに、今は胸に万年筆と図面がある。この大地に骨を埋める覚悟が静かに、しかし溶鉱炉の火のように熱く胸の中に灯っていた。
彼の本当の戦い——国造りという名の大事業は、これからが本番なのだ。
<第19話 了>
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