第19話 南山の槌音 - 其の五:龍の脈を穿つ
何とか大筋からそれずに、お話を進められました。
クライマックスです。
裁定は下った。
だが、突きつけられた条件は、死の宣告にも等しい過酷なものであった。
「猶予は三日(七二時間)。それ以内に水抜き導坑を貫通させ、本坑の間隙水圧を安全域まで低下させること。…一刻(二時間)でも遅れれば、作戦は即刻中止。全山撤退とする」
スミス技師長の言葉は、冷徹な鉄槌のごとく響いた。三日。それは、通常であれば一週間を要する掘削距離である。しかも相手は、いつ崩落してもおかしくない「腐った岩盤」だ。
だが、新九郎は不敵に笑った。その目には、かつて死地へ赴く武士が浮かべたであろう、静謐な狂気が宿っていた。
「上等でござる。三日あれば、山一つ、風穴を開けるには十分すぎる」
◆
その瞬間より、現場は修羅の巷と化した。
「おらぁぁっ! 掘れ! 掘り抜けぇぇッ! 先生が『ここだ!ここを突けば水が出る!』と言ってるんだ! その計算を信じてツルハシを振るえ!」
源次の怒号が、蒸気が充満する狭い導坑内に轟く。彼は上着を脱ぎ捨て、上半身裸となっていた。隆々たる背中の筋肉の上で、不動明王の刺青が玉のような汗と泥にまみれ、まるで生きているかのように紅潮し、蠢いている。元火消しの彼は、落岩が軋む微かな音、腐った泥の匂い、風の流れの変化、そういった落盤の予兆を獣のごとき感覚で察知し、的確に支保工の指示を飛ばしていく。
「ビビんじゃねえ! 天井なんぞ見んな! 俺の背中を見てりゃ、死にゃあしねえ!」
その姿は、まさしく現場の守護神、火中の金剛力士であった。
トーマは狭い坑道と、迫りくる水の恐怖に怯えるマオリ族の作業員たちの間に立ち、彼らの言葉で歌うように叫び続けた。
「恐れるな! この山のタニファ(水龍)は怒っているのではない、腹に水が溜まって苦しんでいるのだ! 俺たちが、その腹を裂いて、楽にしてやるんだ!」
彼は新九郎と共に最前線に立ち、複雑に湾曲する導坑の測量を寸分の狂いもなくこなし続けた。暗黒の地下において、彼が掲げるカンテラの光だけが、進むべき「道」を示す灯台であった。
そして新九郎。彼もまた鬼神のようになって現場に立ち続けていた。万年筆を胸の内ポケットに大切に仕舞い、固くスコップを握る。もはや計算の段階は終わった。あとは己が弾き出した「解」を、己の肉体で証明するのみ。
手の皮が剥け、血が滲み、それが泥と混じり合う。だが、痛みなど感じない。脳裏にあるのは、ただ一点の座標。水圧の急所。そこへたどり着けるか否かという、極限の緊張感だけが彼を突き動かしていた。
地上では神田累が戦っていた。彼女は現場事務所を作戦司令室へと変貌させていた。壁一面に貼られたグラフ。刻一刻と変化する本坑の歪みデータ、湧水量、気圧配置。彼女はそれらすべてを集計し、伝声管を通じて地下の新九郎へフィードバックし続ける。
『深度八〇ヤード到達。目標地点まで、あと五ヤード。…新九郎さん、聞こえますか? 本坑の第三支柱、限界係数を超えかけています。山が、山が悲鳴を上げています。急いで!』
伝声管から響く彼女の声は、疲労で枯れかけていたが、それでも凛としていた。新九郎は泥だらけの手で、累が差し入れてくれた握り飯 - 塩の効いた握り飯だ - を口に押し込み、泥水で流し込んだ。
「承知! これより最終突撃を敢行する!」
◆
そして運命の三日目。深夜。
外は暴風雨が吹き荒れ、地下には地熱と蒸気が籠もる、地獄のような刻限。
スミス技師長が設定した期限まで、あと一時間を切っていた。導坑の先端(切羽)は異様な静けさに包まれていた。岩盤から滲み出る水が、ポタ、ポタと音を立てる。その水は冷たく、そして生温かい。大地の血液だ。
「ここだ」
新九郎は泥に汚れた顔を拭いもせず、岩壁の一点を指し示した。地質図と計算式が交差する、特異点。この薄皮一枚向こうに、数万トンの水圧が渦巻いている。
「源次殿。頼めるか」
「へっ、俺以外の奴に頼んだら怒るっちゅうもんだぜ。先生」
源次はニヤリと笑い、愛用の巨大なツルハシを構えた。その時、背中の不動明王がカンテラの火を浴びて、カッと目を見開いたように見えた。
全員が息を飲む。源次の筋肉が鋼のように隆起し、渾身の一撃が振り下ろされた。
ガキンッ!
硬質な音が響き、火花が散る。
一瞬の静寂。
亀裂が入った岩盤の奥から、「ヒュオッ」という、空気が吸い込まれるような音がした。
次の瞬間である。
ドシュッッッ!!!!!
爆音と共に岩盤が内側から弾け飛んだ。まるで巨龍が咆哮したかのごとく、高圧の地下水が白濁した鉄砲水となって噴き出したのだ。
「出たぁぁぁッ!! 水だッ! 龍の脈を突いたぞォッ!!」
誰かの絶叫が響く。水圧は凄まじく、大の男を吹き飛ばすほどの勢いで坑道内を走り抜ける。
「退避ッ! 退避ィッ! 水を流せ! 決して塞ぐなよ!」
源次が新九郎の首根っこを掴み、大笑いしながら濁流から引きずり上げるようにして走る。作業員たちが泥水に足を取られながらも、歓喜の声を上げて退避していく。それは敗走ではない。凱旋の行進だ。
ドクドクと脈打ちながら溢れ出る水は、勢いよく排水路を流れ下り、地上へと排出されていく。それと同時に、今まで頭上でミシミシと不気味な音を立てていた支保工の軋みが、嘘のようにピタリと止まった。まるで、苦しんでいた巨人が、長い溜息をついて安眠に就いたかのように。
地上、現場事務所。累の目の前で、圧力計の針が動いた。死を示す赤色から、生存を示す緑色へ。 ゆっくりと、しかし確実に、針は降下していく。
「…下がった…」
累は、震える手で口元を覆った。
「水圧低下を確認! 作戦、成功です!」
その声と共に事務所内が爆発したような歓声に包まれた。
勝ったのだ。無慈悲な自然という巨人を、人間の知恵と計算とそして心意気という名のドリルで、ねじ伏せたのだ。
◆
夜明け。雨は上がり、雲の切れ間から南十字星が薄れゆく空に、力強い朝日が差し込み始めていた。
泥だらけの坑口から、よろめきながら出てきた新九郎たちを待っていたのは、まばゆい逆光と、地鳴りのような万雷の拍手であった。
「やったな、先生! あんた、大した山師だぜ!」
源次が、泥と油で真っ黒になった腕で、新九郎の首をへし折らんばかりに抱きしめる。
「おい、よせ源次殿! 痛い、痛い、痛いって!」
「シン! やったよ! タニファが鎮まった! 僕たちの勝ちだ!」
トーマもまた、くしゃくしゃの笑顔で新九郎の背中をバンバンと叩く。国籍も、肌の色も、身分も関係ない。そこにあるのは、死線を共にくぐり抜けた「兄弟」としての絆だけだった。
「Amazing... Truly amazing job, Samurai engineer!」
人垣を割って現れたスミス技師長が、敬意を込めて山高帽を取り、大きな手で握手を求めてきた。新九郎は、泥だらけの手をズボンで拭おうとしたが、スミスは構わずその手をガシリと握りしめた。
「誇りたまえ。君の手は汚れているが、君の仕事は、黄金よりも美しい」
そして。歓喜の輪が少し開いたその奥に、彼女は立っていた。
神田累。徹夜続きで、自慢の巻き髪は乱れ、目元には化粧崩れがあり、白いブラウスにはインクの染みが付いている。だが、朝日の逆光の中に立つその姿は、新九郎の目には、どんなに着飾った貴婦人よりも、神々しく、美しく映った。
彼女の大きな瞳には、うっすらと涙が膜を張っていた。
「…計算、合っていましたね」
彼女はハンカチで目元を乱暴に拭いながら、震える声で言った。いつもの冷徹な調子はどこへやら、それはただの、安堵に泣く一人の女の声だった。
「ああ。お累殿の、あのノートのおかげだ。君がデータをくれなければ、君が共に戦ってくれなければ、俺は山に負けていた」
新九郎の言葉に、累はハッとして顔を上げ、そして濡れた瞳のまま、花が綻ぶように笑った。それは、戦友としての信頼と、一人の異性としての親愛が入り混じった、極上の笑顔であった。
「約束通り、明望の街で一番美味しい洋食屋、案内しますから。…覚悟しておいてくださいね」
彼女は涙を拭い、いつもの悪戯っぽい調子を取り戻して付け加えた。
「ただし…、まずはその泥を落として、髭を剃ってくださいね。今の貴方は、山賊の親分みたいですから」
「えっ」
新九郎は慌てて自分の顎を触った。確かに無精髭が伸び放題で、髪は泥で固まり、酷いありさまだ。彼は耳まで赤くなり、狼狽した。
「こ、これは面目ない! 武士として身だしなみを忘れるとは……!」
その慌てふためく様子に、周囲からドッと笑いが起きる。源次が笑い、トーマが笑い、スミスが笑い、そして累が鈴を転がすように笑う。その歓喜の笑い声は、雨上がりの南山の、突き抜けるような青空へと吸い込まれていった。
◆
その夜。トンネル貫通を祝う慰労会の喧騒を抜け出し、新九郎は一人、宿舎の外に出て夜空を見上げた。
雨に洗われた大気は澄み渡り、頭上には満天の星空が広がっている。そこには、故郷の盛岡では決して見ることのできない星座、南十字星が、南洋の湿った夜気の中で、四つのダイヤモンドのように凛と輝いていた。
彼は、自分の掌を月明かりにかざして見つめた。かつては、筆と刀の柄しか知らなかった白い手。だが今は南洋の日差しで黒く焼け、無数の豆が潰れては固まり、爪の間には洗っても落ちない機械油と赤土が染み込んでいる。ごつごつとして、節くれだった、武骨な手。
それは紛れもなく労働者の手であり、技術者の手であった。だが、新九郎は知っている。この汚れた手は名刀よりも重い現実を動かし、数百人の命を守り、そして鉄の道を未来へと繋げたのだ。その確かな熱が、脈打つように残っている。
(父上、母上。…俺は、侍ではなくなりました)
彼は心の中で、遠い北の故郷へ静かに語りかけた。
(ですが、俺は今、これまでの人生で一番、己を誇りに思っています。人を斬るためではなく、人が生きる道を拓くための、南山の技師として)
ふと、彼は宿舎の裏手にあるロッカーへ向かった。南京錠を開け、奥にしまい込んでいた油紙の包みを取り出す。入国した日に役人に預け、つい先月、明望へ買い出しに行った際に返却された、大小二本の刀だ。
彼はそれを腰に差そうとはしなかった。代わりに丁寧に古い油を拭い、新しい丁子油を塗り込んだ。刀身がランプの光を受けて冷たく青白く輝く。それは美しかった。だが、今の新九郎にとっては、博物館に飾られた化石のように、どこか遠い世界の遺物に見えた。もはや、この刃が血を吸うことはない。吸わせてはならないのだ。
「錆びさせてはならぬ。…だが、二度と抜くこともない」
彼は静かに刀を鞘に納め、再び厳重に布に包んで、ロッカーの奥深くへと仕舞い込んだ。それは「捨てた」のではない。自分の魂の核として、心の最深部に「鎮めた」のだ。
彼が代わりに胸ポケットから取り出したのは、一本の万年筆だった。初日に役人(そう言えば名前も聞いていなかった)から貰い、潰れたペン先を累が直した、黒いインクが染み込んだ、英国製の筆記具。 月光の下、真鍮のクリップが鈍く光る。
新九郎は、それを愛おしげに握りしめ、夜空の十字星に向けて掲げた。これこそが今の彼の帯刀。この大地に、新たな地図を描くための、誇り高き「一刀」であった。
<エピローグに続く>
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