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第19話 南山の槌音 - 其の四:山をなだめる方程式

単に分割するだけだった筈なのに、どんどん話が伸びていきます。

何故だ?

それから数週間後。南山の空が、鉛色に閉ざされる季節が訪れた。


 雨季の走りである。南半球の冬の入り口は、静寂な雪の訪れではない。空そのものが決壊したかのような、暴力的な豪雨のカーテンである。連日降り続く雨は、容赦なく赤土の台地を叩き、現場のすべてを泥色の混沌へと沈めていった。蒸気掘削機スチーム・ショベルの巨大な鉄のアームも、泥濘ぬかるみに足を取られて沈黙し、代わりに英国製の排水ポンプ(ドンキー・ポンプ)だけが、断末魔のような悲鳴を上げて蒸気を吐き出し続けている。


 そして、運命の日は訪れた。


 最大の難所である第四工区、通称「タウポの喉笛」


 全長一二〇〇ヤードの隧道トンネル掘削最前線(フェイス)にて、突如として異常出水が発生したのである。


「退避ッ! 全員、退避せよォォッ!」


 源次の怒号が坑内に響き渡った瞬間、岩盤の裂け目から、泥水が鉄砲水となって噴出した。坑内の水位は瞬く間に膝まで達し、天井を支える松丸太の支保工しほこうが、ミシミシ、パキリと、不吉な音を立てて歪み始めた。それは、何万トンもの土圧を支えきれなくなった木材の悲鳴であり、同時に「山が死のうとしている」断末魔でもあった。


 現場事務所に招集された幹部たちの空気は、坑内よりも重く、冷え切っていた。

 テーブルの上には、泥とコーヒーの染みがついた図面が広げられている。


「No way...(駄目だ、話にならん)」


 スミス技師長が、太い指で図面の一部に赤インクで×印をつけた。彼は英国本土の炭鉱で叩き上げた古狸であり、その判断は常に冷徹かつ合理的だ。


「地圧が想定を遥かに超えている。これ以上掘り進めば、出水と共に天盤が崩落フォールする。作業員ごと生き埋めだ。悔しいが、ルート変更だ。この山を大きく迂回する」


「しかし技師長! 迂回ルートでは、新たな用地買収と整地で工期が三ヶ月は遅れます!」


 営業担当の役人が悲鳴のような声を上げた。


「開通を首を長くして待っている鉱山主たちが黙っていません! 違約金だけで会社が飛びますぞ!」


「人の命より石炭が大事か! 決定だ!」


 スミスの一喝が、雷鳴のように響いた。会議室に、死のような沈黙が落ちる。三ヶ月の遅れ。それは、南山の近代化を背負ったワイカト鉄道会社にとって、致命的な損失を意味する。資金ショート、株主の撤退、そしてプロジェクトの凍結。窓の外では、雨音が嘲笑うかのように激しさを増していた。


          ◆


 その夜。嵐は勢いを増し、駐屯地のテントを叩く雨音だけが、世界の終わりのように響いていた。


 三田村新九郎は一人、揺らめく鯨油ランプの灯りの下で、悪鬼の形相で机に向かっていた。彼の周りには、現場から採取された泥塗れの岩石標本サンプルと、破り捨てられた計算用紙が散乱している。  顔は煤とインクで黒く汚れ、充血した目は狂気すら帯びていた。


(諦めてたまるか。迂回などすれば、予算も工期もすべて吹っ飛ぶ。何より……)


 彼の脳裏に、仲間の顔が浮かんだ。あの蒸気ショベルを「花形」と呼び、誇らしげに笑った源次。  

「この国の血管を作るのだ」と、希望に燃える瞳で語ったトーマ。彼らの信じた未来を、ただの「雨」ごときに奪わせてなるものか。


 だが、現実は冷酷なやいばのごとく立ち塞がる。新九郎は、かつて累に指摘されたミスを糧に、より慎重に、より大胆に計算を繰り返していた。英国の微積分学を用いた土圧計算。さらには、故郷の藩校で学んだ和算の奥義「円理えんり」を応用した、アーチ構造の応力解析。東西の数学を融合させ、必死に答えを探る。


 しかし、どうしても計算が合わない。未知の変数X。すなわち「水」が、すべての方程式を狂わせるのだ。


「クソッ! なぜだ! なぜ数値上は耐えられるはずの支保工が歪む!? この山には、魔物でも棲んでいるというのか!」


新九郎は万年筆を机に叩きつけ、髪をかきむしった。侍であることを捨て、刀をペンに持ち替えた。だが、そのペンですら、この巨大な自然の前では無力なのか。


「行き詰まりましたか?」


 ふと、テントの入り口が開き、湿った夜気と共に、凛とした声が響いた。雨音にかき消されぬ澄んだ声色。


 神田累だった。彼女は防水加工されたオイルスキンのコートを脱ぎ、濡れた髪をタオルで拭きながら入ってきた。夜更けの訪問にもかかわらず、その装いは崩れていない。だが、いつもはきっちりと結い上げている髪が、今は湿気を含んで少し解け、白いうなじに張り付いているのが、妙に艶めかしく見えた。


 その手には、湯気を立てるバスケットと、一冊の古びた革表紙のノートが抱えられていた。


「お、お累殿。こげな嵐の夜に、女子おなごが一人で」


「技師が寝ていないのに、製図係が寝ていられません」


 彼女は躊躇なく新九郎の隣に椅子を引き寄せ、ランプの芯を少し上げた。温かな光が、彼女の知的な横顔と、目の下のわずかなくまを照らし出す。彼女もまた、この危機に心を砕き、戦っていたのだ。


「夜食を持ってきました。神田家特製の牛肉洋風煮込(ビーフシチュー)です。…と言いたいところですが、まずはこれを」


 彼女はシチューの香りを漂わせつつ、持ってきた古びたノートを机上に広げた。カビ臭いような、古い紙の匂い。そこには、びっしりと英語と、幾何学的なマオリ語で書き込みがされていた。


「これを見てください。私の祖父が残した、このタウポ山系付近の、古い地質調査記録です」


 累の祖父は、初期の日本人入植者とマオリ族の首長の娘の混血で、鉱山開発や道路開削などのある伝説的な人物である。彼女の中には、日本人の持つ緻密な観察眼と、マオリ族が持つ「土地の声を聞く」野生の叡智が、数代を経て結実していた。


「祖父は書き残しています。ここの地層は、硬く締まった『硬砂岩グレイワッケ』と、脆い『泥岩』のサンドイッチ構造(互層)だと。ここまではスミス技師長の分析通りです」


「左様。ならば、やはり崩落の危険は…」


「ええ。ですが、問題なのは岩そのものではありません。そのサンドイッチの間に薄く塗られた、マヨネーズのような『火山灰層』です」


 累の細い指が、断面図の隙間をなぞった。


「この火山灰は、乾燥している時は石膏のように硬い。ですが、一度水を吸うと石鹸のようにヌルヌルと滑る(スライディング)性質(・クレイ)に変わります」


 新九郎はハッとした。  石鹸。滑る。  その言葉が、霧の中に一条の光を投げかけた。


「まさか! 崩落の原因は、上からの重さではないと?」


「はい。岩盤そのものが砕けているのではなく、岩盤と岩盤の間に水が入り込み、潤滑油となって、地層全体を滑らせているのです。だから、いくら太い丸太で支えても、横からの力でへし折られる」


 新九郎は、手元の岩石サンプルを鷲掴みにした。確かに、割れ目は濡れて、ぬめるような感触がある。


間隙水圧かんげきすいあつ……!」


 新九郎の口から、英国の原書で読んだ専門用語が漏れた。土粒子と土粒子の間に入り込んだ水が、圧力を持って粒子同士を引き離そうとする力。


「そうだ、犯人は重力じゃない! 水圧だ! 山が潰れようとしているんじゃない、山が内側から破裂しようとしているんだ!」


 新九郎は震える手で万年筆を握り直し、計算用紙の裏白に書き殴った。地質密度、水分含有率、そして推定される水圧係数。 数式が、生き物のように繋がり始める。和算の円理が、流体の動きを捕捉する。英国の物理学が、その圧力を数値化する。


 だが -- 新九郎の手が、ピタリと止まった。


「わかった。理屈はわかった。だが、どうする? 

相手は山そのものだ。この膨大な水圧を、どうやって抜く? 

ポンプを何台並べても、染み出してくる水は止められん……」


 万策尽きたか。新九郎が頭を抱えそうになった、その時である。


 苦悩する新九郎の泥だらけの手の甲に、累がそっと自身の白い手を重ねた。


 ビクリ、と新九郎の肩が跳ねた。だが、その手は彼を誘惑するような艶めかしいものではない。  温かく、力強く、そして共に戦う者だけが持つ、同志の熱を帯びていた。彼女の体温が、新九郎の混乱した脈拍を整えていく。


「新九郎さん。マオリの言葉に『タンガタ・フェヌア(大地の民)』という言葉があります」


 累は、新九郎の目を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、ランプの炎よりも熱い光が宿っている。


「大地と喧嘩をしては勝てません。大地は征服するものではなく、対話するものです。……なだめるんです」


「なだめる……?」


「はい。水を敵だと思わないで。水の気持ちを考えて、水が流れたがっている方向へ、道を作ってあげるんです」


 水の、気持ち。水が、流れたがっている方向。


 その言葉が、雷撃のように新九郎の脳髄を貫いた。そうだ。我々は今まで、水を「止めよう」としていた。分厚い壁を作り、強固な支保工を組み、力でねじ伏せようとしていた。だから水は怒り、圧力を高め、牙を剥いたのだ。


 止めるのではない。逃がすのだ。


「…導坑どうこうだ」


 新九郎が呟くと、累が小さく頷いた。


「いける。迂回する必要はない!」


 新九郎は叫び、図面の上に定規を当て、新たな線を猛然と引き始めた。それはトンネル本坑の下、並行する位置に、小規模な「水抜き坑道パイロット・トンネル」を先行して掘削する画期的な工法だった。まず小径の穴を掘り、そこへ岩盤内の地下水を誘導排出する。水の圧の抜けた山は、再び大人しくなるはずだ。


「これなら……山を殺さずに済む!」


 新九郎の手が走る。累がすかさず、その横で計算尺を操り、必要な木材の強度と、排水勾配を弾き出して補佐する。言葉はいらなかった。新九郎が数値を求めて手を伸ばせば、累が黙ってその数値を記したメモを渡す。二人の思考回路が蒸気機関の歯車のように噛み合い、加速していく。


 雨音はもはや聞こえない。テントの中には、ペンが紙を走る音と、二人の熱気ある呼吸音だけが満ちていた。それは、恋人同士の睦み合いよりも濃密で、戦友同士の背中合わせよりも信頼に満ちた、魂の共鳴であった。


          ◆


 そこから、地獄のような、しかし熱狂的な時間が始まった。


 翌朝の緊急会議。寝不足で目が血走り、しかしその瞳に爛々たる炎を宿した新九郎は、一枚の巨大な図面を会議テーブルに叩きつけた。その横には、徹夜明けとは思えぬ凛とした佇まいで、累が控えている。


「No detour! Drain the water!(迂回は不要! 水を抜け!)」


 新九郎の拙い、しかし気迫のこもった英語が炸裂した。居並ぶ英国人技師たちがどよめく。スミス技師長が眉をひそめ、葉巻を灰皿に押し付けた。


「Mr.Mitamura. 気でも触れたか? 本坑すら掘れぬのに、もう一本トンネルを掘れだと? 正気の沙汰ではない(Insane)!」


「正気です! これはただの穴ではない、山の血抜きです!」


 新九郎は一歩も引かなかった。彼は黒板に、昨夜累と共に導き出した計算式を書き殴った。間隙水圧のメカニズム。火山灰層の摩擦係数の変化。そして、導坑による水圧低下のシミュレーション。


「水ヲ、敵トスルナカレ。水ヲ導ケ。サスレバ、岩盤ハ再ビ硬化スル!」


 新九郎の熱弁を、累が流暢かつ論理的なクイーンズ・イングリッシュで補足し通訳する。彼女は単に言葉を訳すだけではない。祖父のノートから引用した現地の地質データを提示し、新九郎の理論が空想ではなく、南山の事実に即したものであることを証明していく。


「This reflects Maori wisdom...(これはマオリの知恵に基づいています)」


 累の言葉に、最初は嘲笑していた英国人技師たちの顔色が変わり始めた。彼らは頑固だが、科学と事実にだけは敬意を払う技術屋だ。新九郎の提示した数字には、否定しがたい整合性ロジックがあった。


 スミス技師長は新九郎の目をじっと覗き込んだ。見た目は平凡な元サムライ。髷もなく腰の大小も下げていない。だが、その眼光はかつて戦場で死線をくぐり抜けてきた者だけが持つ、鋭い輝きを放っている。  そしてその横で彼を支える混血の才女。


 スミスは、噛み砕かれた葉巻の吸い殻を床に捨て、ニヤリと笑った。


「……Crazy Samurai. But... logical.(イカれた侍だ。だが……筋は通っている)」


 技師長は立ち上がり、新九郎の図面の上に、拳をドンと叩きつけた。


「Gentlemen!(諸君!)」


 スミスが全スタッフを見回す。


「撤退準備は中止だ! これより『作戦・水抜き(オペレーション・ドレイン)』を開始する! ポンプをフル稼働させろ! 侍の言う通り、山に風穴を開けてやれ!」


「イエッサー!」


 歓声が上がり、技術者たちが一斉に飛び出していく。その喧騒の中、新九郎は力が抜けたように椅子に手をついた。膝が震えている。ふと横を見ると、累がそっとハンカチを差し出していた。


「……ご立派でした、新九郎さん」


 小声で囁かれたその言葉は、どんな勲章よりも新九郎の胸を熱くした。彼はハンカチを受け取ろうとして、誤って彼女の指先に触れた。今度は、二人とも手を引っ込めなかった。ただ、互いにはにかむように視線を逸らし、しかし、その距離は昨日よりも確実に、数センチ縮まっていた。


 窓の外、厚い雨雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込み、泥だらけの現場を黄金色に照らし始めていた。




続く

次回、いよいよ本話のクライマックス。


最後までお付き合いいただき感謝します。

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