第19話 南山の槌音 - 其の三:拝啓、姉上。南山の女は強敵です
書き直したら当初の倍の長さになりました。
【明望郊外・第三工区 ワイカト鉄道敷設現場】
南半球の太陽は、容赦というものを知らぬ暴君のごとく、赤土の台地を灼き尽くしていた。視界の端で、陽炎がゆらりと立ち昇る。太古のシダ植物が腐葉土となって発酵した青臭い熱気と、蒸気掘削機が吐き出す石炭の煤煙、そして男たちの汗の匂いが混じり合い、むせ返るような現場の体臭となって肺腑を満たす。
午後の小休止。泥まみれの作業着のまま、巨大なカウリの倒木に腰掛けた三人の男たちは、水筒のぬるい水を回し飲みながら、男所帯特有の華やぎのない雑談に花を咲かせていた。
「…で、だ。俺が言いたいのはな、女ってのは火事場と同じだってことよ」
手拭いで首筋の汗を拭いながら、元火消しの源次が、さも重大な哲理を説くような顔で言った。
「火事場? また物騒な喩えですね、源さん」
学生技師のトーマが苦笑いしながら、あごに付いた握り飯の米粒を取る。
「おうよ。風向きを見誤れば焼かれるし、手荒に扱えば消えちまう。かといって、ビビって腰が引けてりゃ、纏は振れねえ。度胸と愛嬌、それにちっとばかりの命知らずな馬鹿さがなけりゃ、江戸の女は口説けねえって話だ」
源次は、遠い故郷の深川芸者でも思い出しているのか、ニヤリと口元を緩めた。その言葉に、眉をひそめたのは新九郎である。彼は万年筆のインクで汚れた指先を気にしながら、堅物らしい口調で反論した。
「源次殿の申すことは、いささか下世話に過ぎる。おなごとは本来、奥ゆかしく家を守る花のごとき存在。男が命懸けで庇護すべきものであって、火事場のような危険なものではござらん」
新九郎の盛岡武士らしい清廉潔白な、悪く言えば時代錯誤な女性観に、源次とトーマは顔を見合わせ、盛大に吹き出した。
「ぶっ! へへっ、先生。あんた、さては『とんと御無沙汰』だな? いや、そもそも蕾に触れたこともねえか?」
「な、なにおう! 拙者はただ、武家の嗜みとして……!」
赤面する新九郎をなだめるように、トーマが青い瞳を細めた。
「まあまあ、シン。君の言う『大和撫子』も素敵だけどさ、南山じゃ通用しないよ。マオリの言葉に『カイ・タフ』というのがある。共に狩りをする者、という意味だ。ここでは、女も男と一緒にカヌーを漕ぎ、畑を耕し、時には敵と戦う。守られるだけの花じゃ、この荒野では枯れちまうからね」
「共に、狩りをする…」
新九郎はその言葉を反芻した。頭では理解できる。現に、この現場でも現地の女性たちが土砂運びを手伝っている。だが、幼少期から叩き込まれた儒教的価値観は、そう簡単には拭えない。
「俺は…やはり、女は静かに墨を擦ってくれるような、しとやかな方が好ましい」
「へっ、これだから部屋住みのボンボンは。いいか先生、南山の女ってのはな、もっとこう、ギラついたナイフみてえな」
源次が言いかけた、その時である。
突如、現場の空気が変わった。
赤土の粉塵が舞い上がる現場事務所の方角から、ざわめきが静まり、代わりに奇妙な緊張感と、華やかな気配が波紋のように広がってきたのだ。
一人の女性が、こちらへ向かって歩んでくる。
周囲の殺伐とした泥濘と鉄錆の風景の中にあって、その姿は泥中に咲く一輪の白百合のごとく、あるいは研ぎ澄まされた銀の医療器具のごとく、鮮烈な異彩を放っていた。
身に纏っているのは、日本的な小袖ではない。生成りのレースがあしらわれた、英国仕立てのハイカラなブラウス。下半身は、動きやすさを重視した紺色の行灯袴—いや、よく見ればそれは、乗馬服を改良したキュロット・スカートだ。足元は泥避けのスパッツ(脚絆)を巻き、頑丈な編み上げの革ブーツを履いている。南洋の容赦なき陽光を避けるため、広いつばの麦わら帽子を目深に被り、その下から覗く瞳は、硝子細工のように冷徹に光っていた。
無造作に束ねられた髪は、濡羽色の中にわずかに赤みを帯びた栗色が混じり、熱風に吹かれて波打っている。
「おっ、噂をすれば、お累様のお出ましだ」
源次が、慌てて居住まいを正した。あの豪快な男が、直立不動になるほどの相手である。
彼女の名は、神田累。
明望の旧市街に広大な屋敷を構える豪商「神田屋」の一人娘にして、現在はワイカト鉄道会社の設計課で製図技師として辣腕を振るう才女である。神田家は初期の移民時代にマオリ族の首長の娘を娶った家系であり、累の血脈には数代にわたる日系とポリネシア系の融合の歴史が流れている。その顔立ちは、日本的な切れ長の涼やかな瞳と、南洋的な彫りの深さが奇跡的な均衡で同居しており、見る者をハッとさせるエキゾチックな美貌を誇っていた。
彼女は、男たちが気圧されるほどの速度で道なき泥道を突き進んでくる。途中、巨漢のマオリ人作業員が道を塞ぐように立っていた。男たちは固唾を飲んだが、累は歩調を緩めず、流暢なマオリ語で何かを短く告げた。すると、岩のような巨漢が「申し訳ねえ、姉御」とばかりに慌てて脱帽し、道を開けたではないか。
彼女は新九郎たちの前まで来ると、軍人が停止するようにピタリと足を止めた。その手には使い込まれた革製の図面嚢が握られている。
「三田村さん」
鈴を転がすような、しかし氷柱のごとく冷徹な声であった。
「は、はいッ!」
新九郎は反射的に立ち上がった。まるで藩校の鬼教官に呼び出された時のように。だが、彼の本能は別の警鐘を鳴らしていた。この女性は、故郷の厳しい上の姉と同じ種類の「手練れ」である、と。
累は、無言で新九郎の足元へ視線を落とした。そこには、測量用の杭が打たれている。彼女はいきなり、その白い手で泥だらけの杭を掴むと、力強く引き抜き、数寸ほど横へ打ち直した。
「…測量基準点が、重機の振動でずれていましたよ。これでは、水平出しに狂いが生じます」
新九郎は愕然とした。数ミリのズレだ。目視で気付けるようなものではない。
「な、なぜ分かったのですか?」
「昨日の夕方、私が確認した時は、あの羊歯の葉の影と一直線でした。今は影の角度が変わっていますが、太陽高度を逆算すれば、杭の位置が不自然です」
涼しい顔で言ってのける。恐ろしいほどの空間把握能力と、記憶力。新九郎が呆気にとられていると、累は懐からハンカチを取り出し、泥で汚れた自分の手を無造作に拭った。
「それより、本題です。午前に提出された、第三工区・魔の肘鉄付近の勾配計算書。検算なさいましたか?」
累は図面嚢から一枚の青焼き図面を取り出し、新九郎の鼻先に突きつけた。そこには新九郎が昨夜、鯨油ランプの灯りで目を赤くしながら書き上げた計算式が並んでいる。だが、その紙面は、まるで戦場の血飛沫のごとく、赤インクの修正で埋め尽くされていた。
「えっ? な、何か不備が?」
「不備どころではありません。致命傷です」
累は、美しい眉間に深い皺を刻み、図面の一点を、まるで親の仇のように指差した。
「ここの対数計算、桁が一つずれています。貴方は、この区間の勾配を六〇分の一で設計するおつもりでしたか? ですが、この計算の瑕疵のおかげで、実際の施工指示書には四〇分の一と記載されかけておりました」
「よ、四〇分の一?」
新九郎の全身から、さっと血の気が引いた。鉄道工学において勾配の数値は死活問題である。蒸気機関車の鉄の車輪と、鉄のレール。その摩擦係数は、油を引いた氷のように低い。急勾配になれば、車輪は空転し、火の粉と蒸気を撒き散らす巨大な鉄塊は坂を登れずに立ち往生するか、最悪の場合は逆走して脱線転覆の大惨事を招く。
「現在導入予定の英国製C型タンク機関車の牽引力と、南山特有の驟雨による粘着係数の低下を考慮すれば、四〇分の一の勾配など自殺行為です。貴方は、開通初日に乗客を崖下へ突き落とすおつもりですか?」
「め、滅相もござらん!」
「武士の刀は腰の飾りでも済むかもしれませんが、技師の弾き出す数字は、人の生死そのものです。しっかりしてください!」
累の言葉は、鋭利な鞭のように新九郎の未熟な矜持を打ち据えた。反論の余地など欠片もない。ただの計算違いではない。現場の土を知らぬ、机上の空論が招いた、技術屋としての重大な失態である。
「面目次第も…ござらん! 直ちに再計算し、修正案を提出つかまつる!」
新九郎は直角に腰を折り、深々と頭を下げた。冷や汗が背筋を伝い、軍服めいた作業着を濡らす。 だが、絶望的な羞恥と同時に彼は奇妙な感覚を覚えていた。胸の奥が熱いのだ。彼女の怒りは単なるヒステリーではない。この鉄道を、一本の線路を、何としてでも安全に通すのだという、鉄のごとき信念から来る「義憤」だ。
(ああ、やはりそうだ。この叱責の響き…姉上たちが、俺の剣術の甘さを理詰めで指摘する時と同じだ。そこにあるのは嫌味ではなく、道理だ)
彼は理知的な女性に叱られることに、ある種の懐かしさと安心感を覚えるという、末っ子特有の悲しい性を発揮していた。
頭を下げ続ける新九郎を、帽子の陰からじっと見下ろしていた累の表情が、ふと微風のように和らいだ。彼女は、新九郎の胸ポケットに挿された万年筆に視線を留めた。
「ペン先、割れていますよ」
「え?」
新九郎が顔を上げると、累は至近距離まで顔を寄せていた。インクと紙、それに柑橘系の香油の匂いが、泥臭さの中にふわりと漂う。彼女は新九郎の胸元から万年筆を抜き取ると、懐から小さなペンチを取り出し、器用にペン先を調整し始めた。その手つきは、裁縫をする乙女というよりは、時計職人のように精緻で無駄がない。
「計算に熱中して、筆圧が強くなりすぎたのですね。はい、直りました。道具は大事になさいませ。侍にとっての刀でしょう?」
彼女は万年筆をポケットに戻すと、今度は左腕に下げていた籐の籠から、油紙に包まれた何かを取り出し、ポンと新九郎の泥だらけの膝に置いた。
「謝罪に費やす暇があるなら、手を動かしてください。これ、差し入れです」
包みからは、甘く香ばしい、小麦と油の匂いが漂っていた。中に入っていたのは、南山風の揚げ菓子「マラサダ(砂糖をまぶした揚げパン)」と、井戸水で冷やされたレモネードの硝子瓶であった。
「ここの現場は灼熱地獄でしょう。頭を回すには糖分が必要です。計算が終わりましたら、召し上がって結構ですからね」
そう言って、彼女は初めて少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。その笑顔は、南洋の強烈な日差しよりも眩しく、そして新九郎の故郷にいた優しい下の姉の面影とも、どこか重なった。
「お、お累様、俺たちには?」
源次が、ここぞとばかりに茶化すように聞くと、累は腰に手を当てて快活に笑った。
「源次さんには、とびきり辛い干し肉を持ってきましたよ。昨夜、父の晩酌の肴を作った余りですが、仕事の後の麦酒には合うはずです」
「へへっ、手作りかよ! さすが神田屋のお嬢だ、男の肝臓がわかってらっしゃる!」
源次が口笛を吹く。累はトーマにも包みを渡すと、もう一度新九郎に「頼みましたよ」という、期待と圧力の入り混じった熱い視線を投げかけ、軽やかに現場事務所へと戻っていった。その背筋の伸びた歩き方は、明望の社交界(行った事はないが)でドレスを着飾った貴婦人よりも美しく、そして何より、現場の誰よりも頼もしかった。
新九郎は、膝の上の揚げ菓子と、修正を待つ無慈悲な図面を見比べた。胸の奥で、何かがトクンと鳴った。それは、異国の地での心細さが埋められた安らぎか、それとも、才色兼備な「南山の女」への淡い憧憬か。
「…強いな」
思わず口から漏れた。
「だろう? 言ったはずだぜ、先生」
源次が干し肉を齧りながら、ニヤニヤと笑った。
「南山の女は、ただの花じゃねえ。根っこが深くて、嵐でも折れねえ強さがある」
「それに、今の見たかい? ペン先を直す手つき。あの人は、ただ図面を引くだけじゃない。現場の道具も、俺たちの苦労も、全部理解してくれてるんだ」
トーマも嬉しそうに頷く。
本土の、三歩下がって男を立てる武家の女性とは、在り方がまるで違う。彼女は自分の足で大地を踏みしめ、自分の頭脳で考え、男と対等に渡り合っている。そして、その厳しさの裏地には、働く者への深い敬意と、母性にも似た優しさがある。
「おいシン、顔が赤粘土みたいだぞ。日射病か? それとも南山の熱病(恋煩い)か?」
トーマが太い腕で小突いてきた。
「ば、馬鹿を申すな! …日差しのせいだ!」
新九郎は狼狽えて否定し、胸元の万年筆を抜き放った。彼女が直してくれたペン先。それはもはや、彼にとっての名刀であった。
やるしかない。彼女の期待に応えるために。そして何より、この鉄道を、誰よりも安全に走らせるために。
彼は油紙を開き、マラサダを一口かじった。粗い砂糖のジャリッとした食感と、濃厚な油のコクが、疲弊しきった脳髄に染み渡る。それは、故郷の醤油味の団子とは違う、新しい時代の、エネルギッシュでハイカラな味がした。
「…源次殿、トーマ殿」
新九郎は、口の周りに砂糖をつけたまま、真顔で二人に言った。
「訂正いたす。…火事場も、悪くはないかもしれん」
「はっ! 先生も言うようになったじゃねえか!」
源次とトーマの豪快な笑い声が、午後の現場に響き渡った。遠くで、作業再開を告げる蒸気の汽笛が、高らかに鳴り響いた。
続く
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




