第19話 南山の槌音 - 其の二:サイン・コサイン・タンジェントの力
書き直し2話目。
かなり書き直しました。
役人はゆっくりと顔を上げた。鼻眼鏡の奥から、新九郎をじろりと凝視する。その眼光は古道具屋がガラクタの山から掘り出し物を見つけた時のそれに似て、鋭く、かつ値踏みするような光を帯びていた。
「測量ができると言ったな。具体的にはどうだ。平板か? それとも経緯儀は扱えるか」
「はっ。実機には数回しか触れておりませぬが、理は解しております。藩校の学寮にて、英国の『三角法』の原書と、ネイピアの対数表を……」
「対数表が読めるのか」
役人が身を乗り出した。椅子がギシリと軋む。
新九郎には、相手がなぜそこまで食いつくのか合点がいかなかった。彼の故郷である盛岡(南部)藩は、二十万石といえど借財に喘ぐ「じじむさい」貧乏藩である。だが、こと学問に関しては貪欲であった。鎖国をしていないこの国では、ロンドンやパリで出版された最新の学術書が、数ヶ月遅れで北奥の藩校にまで届くのだ。
新九郎のような部屋住みの三男坊にとって、それらの難解な数式を解読することは、徒然を慰む判じ物であり、貧しい現実から逃避するための手遊びに過ぎなかった。 己が解いていた数字の遊戯が、実は国家を動かすための最先端技術であるなどとは、夢にも思っていなかったのである。
「…読んでみろ」
役人は、手元の分厚い大福帳を開き、複雑な数字の羅列を指差した。港湾拡張工事における、土砂量の計算書である。
「この断面図より、必要な埋め立て土量を概算せよ。刻限は三分だ」
それは入社試験というよりは、一種の挑発であった。新九郎は反射的に懐から矢立と紙を取り出した。刹那、脳裏で何かが切り替わる。目の前の数字が、単なる墨の染みから、意味を持った幾何学の文様へと変貌する。
円周率、底面積、勾配……。
彼は無心に筆を走らせた。その速度は剣を振るう時よりも遥かに速く、そして迷いがない。
「できました。およそ一万二千五百立方ヤード。ただし、地盤の沈下係数を鑑みれば、もう少し積み増しが必要かと存じます」
言い終わるのに、二分とかからなかった。役人は、新九郎の弾き出した答えと、手元の正答表を見比べる。そうして小さく口笛を吹いた。
「正解だ。しかも、沈下の歩合まで指摘するとはな」
役人は眼鏡を外して疲れた目を揉み、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「お前さん、己の才を安売りするなよ。その計算の腕、南山では剣豪の太刀筋よりも遥かに高く売れるぞ」
「は、はあ……」
新九郎は呆気にとられた。己の「暇つぶし」が、褒められている。これまで国許で穀潰しと陰口を叩かれてきた自分の頭脳が、ここでは黄金の如く扱われているのだ。
「よし、採用だ。剣客なんぞは掃いて捨てるほどおるが、対数が理解できる奴は砂金より貴重だ」
役人は一枚の羊皮紙に「合格」を示す朱印を力強く押し、新九郎に突きつけた。
「ワイカト鉄道会社だ。明望から内陸の炭鉱へ続く、鉄道敷設の普請場で、測量技師の助手が足りておらん。現場は泥だらけで飯も粗末だが、給金は弾むぞ」
役人は、さらさらと雇用条件を書き込んでいく。
「日当は、一分二朱。寮と食事付きだ。文句はないな」
一分二朱。
新九郎は耳を疑った。それは、故郷の父が一年かけて受け取る扶持を、わずか一ヶ月足らずで稼ぎ出す額であった。手が震えた。これが、南山か。これが、能力が正当に値踏みされるということなのか。
「……あ、ありがたき幸せにございます!」
「礼は仕事で返せ。それと、その刀だ」
役人は顎で、新九郎の腰をしゃくった。
「現場じゃ邪魔なだけだ。狭い坑道や測量の藪漕ぎで、そんな長物をぶら下げていては命取りになるぞ。ここで預けていけ。代わりに、これをやる」
役人が引き出しから取り出し、カウンターに置いたのは、真鍮製の精巧な方位磁針と、黒光りする英国製の万年筆であった。磁針を覆う硝子の面が、天井のガス灯を弾いて鋭く煌めいた。
「…武士の魂を、預けろと?」
新九郎は左手で大小の柄を強く握りしめた。これは父から、祖父から受け継いできた家宝である。己が己であることの証そのものである。それを手放すことは、自分が何者でもなくなるような、底知れぬ恐怖を伴っていた。
「魂、か」
役人は鼻で笑った。だが、その眼差しの奥には、かつて同じ決断を下した者だけが宿す、奇妙な共感の色があった。
「勘違いするな。刀を捨てろとは言うておらん。持ち替えるのだ。人を斬るための鉄から、国を造るための真鍮とインクにな」
役人は、指先で万年筆をくるりと回してみせた。
「ここでは、誰もがお前の家名なんぞ気にせん。気にするのは『お前が何を作り出せるか』、ただそれだけだ。その刀で鉄道が敷けるか? 大河に橋が架けられるか? 無理であろう。だが、この磁針とペンがあれば、お前は地図を書き換えられる」
新九郎は腰の刀を見下ろし、次いで卓上の磁針を見た。冷たい鉄の塊。精緻で未来を指し示す羅針盤。
彼はゆっくりと、帯から大小を引き抜いた。ずしりとした重みが腰から離れる。彼はそれを両手で役人に差し出した。
「…頼みます」
「ああ、確かに預かった。こっちに戻ってくる時まで、赤錆がつかぬよう守っておいてやる」
役人は刀を受け取り、代わりに磁針と万年筆を、新九郎の掌に乗せた。
軽かった。
拍子抜けするほどに、軽かった。だが、その軽さは寄る辺を失った不安の軽さではない。何処へでも行けるという、鳥の翼にも似た解放感であった。
「行け、三田村新九郎。今日よりお前は、侍ではない。南山の技術者だ」
新九郎は、万年筆を胸ポケットに挿し、磁針を握りしめた。真鍮のひやりとした冷たさが、熱を帯びた彼の掌に、心地よく馴染んでいった。
◆
【明望郊外・第三工区 ワイカト鉄道敷設現場】
翌日より、三田村新九郎の戦いは、インクの匂い立つ証文への署名ではなく、膝まで没する泥沼との格闘をもって幕を開けた。
彼が奉職した「ワイカト鉄道会社」は、単なる土木請負業者ではない。南山総督府が四割、残りを現地の豪商や英国資本が出資する、資本金五〇万南山両という化け物じみた規模の「半官半民」の巨獣である。
彼が震える手で捺印した雇用証文には、「一日八時間(四刻)労働」「超過勤務の手当」「傷病時の扶助」、そして「職務怠慢時の過料」に至るまでが、極めて近代的な明朝体の活字でびっしりと記されていた。それは「主従」という湿った情緒ではなく、「労務と対価」という、乾いた鉄のような契約であった。
現場は、明望の市街より五里(約二十キロ)ほど内陸へ入った、ワイカト川沿いの丘陵地帯にある。そこは、噴き上がる蒸気と泥と鉄、そして太古の羊歯植物が発する青臭い瘴気が支配する、人間が自然という巨人に挑む最前線であった。
「おい、新参! 呆けておるな! 経緯儀を据えろ! 水準器の気泡を真ん中に合わせるのに、何刻かけておるか!」
怒声を浴びせてきたのは、測量組の組頭、坂田という男だった。元は幕府の普請方であったというこの男は、髷を切り落とした頭に山高帽、油染みた作業着という奇妙な出で立ちで、常に懐中時計を片手に現場を怒鳴り歩いている。彼にとって時は金であり、精度こそが神であった。
「は、はいッ! 直ちに!」
新九郎は、泥に足を取られながら、三貫(約十キロ)はある真鍮製の経緯儀を肩に担ぎ直し、指定された測点へと走った。
新九郎が配属された測量組は、鉄路を敷くための最適路を選定し、切土や盛土の量を弾き出す頭脳部隊である。だが、その実態は優雅な机上作業とは程遠い。
南山の自然は、美しくも過酷であった。
頭上を覆うのは、本国の植物とは比較にならぬほど巨大な銀羊歯の森。足元は、度重なる驟雨と火山灰が混じり合った、粘着質の赤粘土。腰まである藪をナタで切り開き、顔にまとわりつく吸血性のブヨ(現地語でナム)の大群を手で払いながら、ぬかるんだ斜面を登り、三脚を据える。
新九郎の仕事は、単にレンズを覗くだけではない。硝子越しに見える標尺の目盛りを読み取り、手元の野帳に書き込む。そして、そこからが彼の真骨頂だ。彼は懐から、移民局の役人がくれた万年筆と、手擦れてボロボロになった対数表を取り出す。
(甲地点と乙地点の高低差は一二・五呎。水平距離は三〇〇碼。となれば、勾配は四〇分の一か……。いかん、これでは蒸気機関車の登坂能力の限界だ。曲線の摩擦抵抗を鑑みれば、確実に車輪が空転する)
彼は泥だらけの手で、三角関数の計算式を書き殴る。
正弦、余弦、正接。
かつて盛岡の藩校で、「かかる遊戯が何の役に立つのか」とあくびを噛み殺しながら学んだ数式が、ここでは数千トンの土砂を動かし、鉄の道を作るための「魔術」となる。
「組頭! この径路は危のうございます! 半径二〇〇碼の曲線を入れるならば、勾配は五〇分の一まで落とさねば、脱線の恐れあり!」
新九郎が叫ぶと、坂田組頭は泥のついた革長靴で歩み寄り、新九郎の野帳をひったくった。そして数字の羅列を睨みつけ、フンと鼻を鳴らした。
「勘定は合うておるな。よし、径路変更だ。乙地点を北へ二〇碼ずらせ!」
採用された。新九郎の計算が、巨大な工事の進路を変えたのだ。 その瞬間、彼の胸に湧き上がったのは、剣術の試合で一本取った時よりも遥かに重く、そして確かな手応えであった。
◆
かかる過酷な現場にて、新九郎の相棒となったのは、出自も性根も全く異なる二人の男であった。
一人は、源次。
「元・江戸本所深川の火消し」を自称する年齢不詳、筋骨隆々の男である。常に襦袢の袖をまくり上げ、丸太のごとき二の腕を晒している。背中には見事な不動明王の刺青を背負っているらしいが、現場では「墨はマオリ族の専売特許じゃねえ」と嘯いている。
彼は「発破技師」として雇われていた。破壊力が安定した「ダイナマイト」なる新型爆薬が普及する直前のこの時期、扱いづらい黒色火薬を用いて岩盤を砕く、命知らずの仕事である。
「へっ、先生。また難しき面体で数字と睨めっこか」
源次は、新九郎を「先生」と呼ぶが、そこには半分の冷やかしと、半分の敬意が混じっていた。
「俺には正弦だか余弦だかは分からねえ。だがな、岩の『目』なら読めるぜ。ここの岩盤は湿気てやがる。計算通りに薬を詰めれば、不発か、あるいはデカく弾けすぎて崩落するぞ」
彼の学歴は皆無だが、土と岩を見る眼力は地質学者顔負けであった。彼の勘は、長年の火消し稼業で培われた「火と風と普請」への、動物的な直感に基づいている。
「先生が図面を引き、俺がドカンと道を空ける。……悪くねえ組だろう?」
もう一人は、トーマ。
現地のマオリ族の祖母と、初期に入植した日本人商人の祖父を持つ、新九郎と同年代の青年だ。彫りの深い貌立ちに、南洋特有の巻き毛じみた黒髪。知的で穏やかな瞳をしているが、その腕力は源次と互角である。
彼は、南山の最高学府「南山大学校」で土木工学を専攻する書生であり、実地修業者として現場に来ていた。彼は完璧な日本語(しかも上品な武家言葉)、英語、そしてマオリ語を操る、三ヶ国語話者である。
「シン(新九郎)。無理は禁物だ。ここの天気は、マオリの神話に出てくる女神のごとく気まぐれゆえ」
トーマは、現地民との折衝役も兼ねていた。鉄路がマオリ族の聖域を避けるよう調整し、地元の労働者たちを統率するのは、彼の役目だ。
「僕の祖父は、日本の槍を持ってこの島に来た。母方の祖父は、石棍を持ってここを守っていた。二人が殺し合わずに、こうして僕が生まれたのは奇跡のようなものだ。だから僕は、この島に『血の流れない道』を作りたい」
ある日の昼餉。突然の驟雨が去り、強烈な日差しが戻った現場で、三人は切り倒された巨木カウリの切株に腰を下ろし、弁当を広げていた。
中身は、南山名物「塩蔵牛肉(焼いたコンビーフ)の握り飯」である。 最初は「四足の肉など」と抵抗があった新九郎も、今ではこの塩気と独特の獣脂の甘みが、重労働で枯渇した五臓六腑に染み渡るのを至福と感じていた。海苔の代わりに巻かれた塩漬けの葉が、絶妙な塩梅となっている。
「それにしても、凄まじいな」
源次が、建設中の鉄橋のたもとを、握り飯を持った手で指差して言った。そこには、英国から輸入され、昨日組み上げられたばかりの巨大な「蒸気掘削機」が鎮座していた。
米国オーチス社製の初期型。黒々とした鉄塊から突き出た長大なアーム。釡からは常に黒煙と白き蒸気が噴き出し、まるで生き物のようにシュウシュウと呼吸音を立てている。
ガシャン、グオオオオオ!
操縦席の技師が挺子を操作すると、巨大な顎が地面に食い込み、人間が一日かかっても運べぬ量の土砂を、たった一掻きで掬い上げ、貨車へと放り込んだ。 その圧倒的な質量と剛力。
「あれ一台で、人足百人分の仕事をこなしやがる。江戸にいた時分は、火事と喧嘩が華であったが、ここではあの『蒸気野郎』が花形だ。俺の火薬も、あいつの馬力にゃ敵わねえや」
源次は悔しそうに、しかしどこか惚れ惚れとした面持ちで言った。新九郎もまた、その鉄の恐竜から目を離せずにいた。本土では、攘夷だ佐幕だと騒いでおる。刀で人を斬る技を磨いておる。だが、いかなる名刀も、この蒸気掘削機の前では爪楊枝にもならぬであろう。ここにあるのは、精神論をねじ伏せる、冷徹な「物理の力」だ。
「ああ。あれこそが、南山の心臓だ」
トーマが、水筒の水をあおり、静かに言った。
「本土(日本)では、未だ侍たちがどっちが偉いかで斬り合いをしておると聞く。だが、ここでは関係ない。身分も、家柄も、思想も、この蒸気の前では等しく無意味だ」
トーマは、建設中の鉄路が地平の彼方、内陸の山々へと続いているのを見つめた。
「この鉄道が通れば、内陸のワイカト炭鉱から石炭が運ばれ、港から世界へ出て行く。逆に、世界の叡智や機械が、この線路を通って奥地へと届く。僕は、ただの道を作っておるのではない。この国の血管を作っておるのだ」
トーマの言葉に、新九郎は胸を打たれた。盛岡では、不作になれば農民が餓死し、武士でさえ内職で食いつなぎ、未来など「いかにして食うか」という不安の中にしかなかった。だが、ここでは違う。泥にまみれ、虫に刺され、過酷な労働に喘ぎながらも、確実に「昨日より今日、今日より明日が良くなる」という確信がある。己が引いた図面の一本線が、一月後には鉄の道となり、人々の暮らしを変えていくという実感がある。
これが、「進歩」というものか。そして、その進歩の最前線に、今、自分は立っているのだ。
「…負けてはおれんな」
新九郎は、最後の一口を飲み込み、胸ポケットの万年筆に触れた。刀は預けた。だが、武士としての誇りは捨てていない。俺は俺のやり方で、この新しい国に「一刀」を刻んでやる。
遠くで始業の汽笛が鳴った。三人は顔を見合わせ、ニカっと笑うと、泥だらけの現場へと再び駆け出していった。その背中には、日本のどの藩の紋章でもない、油と汗の染みが、勲章のように張り付いていた。
続く
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