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第19話 南山の槌音 - 其の一:食い詰め三男坊、南へ

少し今までとは毛色を変えてみたお話です。


2026/1/16:ちょっと長すぎたので分割します。

それだけでは申し訳ないので、若干加筆して書き直しています。

文久二年(一八六二年)初夏 南山・北嶺島 明望めいぼう


 その日、南半球の太陽は、北国の鈍色の空と、湿った雪の反射光しか知らぬ若者の眼球を焼くほどに、暴力的なまでに眩しく輝いていた。


 視界のすべてが、極彩色の油絵具をぶち撒けたかのように鮮烈だ。


 南部盛岡藩出身 三田村新九郎(みたむら しんくろう) 二十二歳


 彼は今、南山総督府が置かれた徳川の天領首都・明望めいぼうの港に降り立ち、まるで異界の門をくぐった巡礼者のように、呆然と立ち尽くしていた。


 彼の背後には、彼をここまで約3週間かけて運んできた三千トン級の鉄製蒸気貨客船「北斗丸」が、長い航海の疲れを吐き出すように、どす黒い煤煙を南洋の青空へと噴き上げている。船体からは、ボイラーの余熱と、こびりついた海水の塩気が混じり合った、巨大な獣の体臭のような湯気が立ち上っていた。


「…これが、南山か」


 新九郎の乾いた喉から漏れた言葉は、感嘆というよりは、あまりのカルチャーショックによる、うわ言に近い呻きであった。


 彼の眼前に広がっていたのは、江戸の絵草紙にも、洋学者の書いた色褪せた挿絵にもない、混沌カオスとエネルギーの坩堝であった。


 そこは、人口十五万人を擁する急成長都市にして、別名「南の江戸」、あるいはその空を覆う煤煙から煙の都(スモーキー・シティ)と仇名される、南半球屈指の産業都市の玄関口であった。


 港湾を見渡せば、林立する巨大な蒸気クレーンが、まるで首長竜が餌を食むかのように唸りを上げてコンテナを吊り上げている。その足元では、半裸の沖仲仕たちが、言語の壁を罵声と身振りで乗り越えながら、蟻の群れのように荷を運んでいた。


 彼らの肌の色は、まさに人種の展覧会だ。日に焼けた日本人の小麦色、南洋の日差しを吸い込んだようなマオリ族の深い褐色、そして赤ら顔の西洋人や、遠く清国から渡ってきた苦力クーリーたち。彼らは皆、等しく泥と汗と油にまみれ、その瞳には「今日を生き延び、明日には一攫千金」という、野卑だが力強い光を宿している。


 視線を街へと向ければ、そこには奇妙で、しかし圧倒的な説得力を持つ建築群が広がっていた。


 海岸線には、英国の波止場を思わせる赤煉瓦造りの巨大倉庫群が城壁のように連なり、その隙間から無数の工場の煙突が、黒煙を絶え間なく吐き出している。それは環境汚染などという概念が生まれる前の、純粋な「生産の誇り」としての黒煙であった。


 市街地は、古き良き江戸の迷路のような路地ではない。定規で引いたように正確なグリッド状(格子状)に区画整理され、メインストリートには、昼間だというのにガス灯が青白い炎を揺らめかせている。その舗装された大通りを、髷を結った御者やマオリ族の若者が操る乗り合い馬車オムニバスが、鐘を鳴らしながら砂埃を上げて行き交っていた。


 建物もまた、新九郎の常識を破壊した。


 瓦屋根を戴いた重厚な煉瓦建築があれば、その隣には南洋の気候に合わせた、深い庇とベランダを持つ木造の長屋(コロニアル様式)が並んでいる。畳と暖炉、障子とガラス窓が同居するその風景は、和洋折衷という言葉では生ぬるい、生存と快適さを追求した結果生まれた「南山様式」とでも呼ぶべき独自の生態系を形成していた。


 さらに新九郎の視線は、街を見下ろす高台——通称「山手」と呼ばれる地域へと吸い寄せられた。


 そこには、下界の喧騒を睥睨するかのように、白亜の洋館や端正な日本建築が立ち並んでいる。はためく旗は、ユニオンジャック(英国)、トリコロール(フランス)、星条旗(米国)、そして三色旗 (オランダ)。各国の公使館や領事館が軒を連ねるその一角は、ここが単なる植民地ではなく、列強が「日本の南の首都機能の一部」と認識し、外交官たちがしのぎを削る国際的な社交場であることを無言で物語っていた。


 空気の匂いも違う。


 潮の香りに混じって、石炭の焦げた匂い、精製された鯨油の甘ったるい悪臭、そしてどこかの屋台から漂う醤油と脂の濃厚な香りが、渾然一体となって鼻腔を刺激する。


 新九郎の故郷、盛岡の冷たく澄んだ空気とは対極にある匂い。それは「清貧」を美徳とする武士社会には決して存在しない、剥き出しの「欲望」と「生産」、そして過剰な「カロリー」の匂いであった。


 新九郎は、腰に差した大小二本の刀——父から譲り受けた一刀流の魂——を、無意識に左手で強く握りしめた。 汗ばんだ掌の中で、柄糸の感触だけが彼を過去へと繋ぎ止めている。


 だが、同時に彼は感じていた。この蒸気と鉄の音が支配する世界において、この二本の刀はもはや武士の魂などではなく、単なる前時代的な鉄の棒切れ、あるいは滑稽な腰飾りに過ぎないのではないか、と。


 その時、地響きのような音が近づいてきた。新九郎が振り返ると、港の大通りを、一糸乱れぬ隊列で行軍する一団が現れた。日本にいた頃、週刊新聞などで取り上げられていた、幕領南山駐留軍コロニアル・ガーズである。


 先頭を行くのは、本土から派遣された旗本や御家人の次男三男たちで構成された戦列歩兵大隊サムライ・ガンナーズだ。彼らは南山産の良質な羊毛で仕立てられた、濃紺の軍服に身を包み、その顔つきは、本土の兵士に見られるような悲壮感や飢えとは無縁だ。彼らにとって、三年間の南山勤務は、高給を得て、退役後には南山に広大な農地付きの「永住権」が得られるという、人生逆転の黄金チケットなのだ。


 彼らが肩に担いでいるのは、火縄銃でもゲベール銃でもない。最新鋭の後装式ライフル、スナイドル銃である。その金属的な輝きは、徳川幕府がこの島を守るために、どれほどの富を投じているかを雄弁に語っていた。そして、その後に続く部隊に新九郎は目を見張った。肌の色も、体格も、髪の色もバラバラな男たち。


 日系移民の二世や三世、顔に入れ墨を施したマオリ族の戦士、縮れ毛のパプア系住民などが混成された、異様な、しかし野生的な精悍さに満ちた集団。現地志願兵大隊オール・カラーズ。地形を知り尽くし、ジャングル戦やゲリラ戦に長けた彼らは、正規軍のような規律正しさはないが、一人一人が猛獣のような殺気を放っている。彼らの腰には、和刀の代わりに蛮刀やトマホークが下げられ、手には連射可能なスペンサー銃が握られていた。さらに隊列の最後尾には、幌を外されたガトリング砲が、馬に引かれて不気味な六本の銃口を覗かせている。


「……なんという、威だ」


 新九郎は戦慄した。盛岡藩の武器庫には、数代前の先祖が使ったマスケット銃が数10丁眠っているだけだ。だが、ここでは最新鋭の殺戮兵器が、まるで日用品のように溢れている。「南山を守ることは、公儀の財布を守ること」。その冷徹な論理の下、予算の制約なく配備されたその軍事力は、一地方の植民地軍という枠を遥かに超え、独立国家のそれに匹敵していた。その一端が目の前を通り過ぎて行った。


 行軍が通り過ぎた後、巻き上げられた砂埃の中で、新九郎は咳き込んだ。咳と共に、喉の奥からこみ上げてきたのは、敗北感にも似た焦燥だった。


 自分は、算術と理学を少々かじっただけの、田舎侍の三男坊だ。剣の腕は道場剣法。実戦経験などない。そんな自分が、この鉄と蒸気と多民族が入り乱れる巨大な坩堝の中で、一体何になれるというのか。


「…おいっ、そこの若いの。刀が邪魔だ。どいてくれ!」


 大声に我に返ると、巨大な木箱を背負った髭面の男が、すぐ背後に立っていた。男の太い腕には、幾何学的な紋様の入れ墨——マオリのタ・モコ——が刻まれているが、その口から飛び出したのは、べらんめぇ調の流暢な江戸言葉だった。


「す、すまぬ」


 新九郎は慌てて道を空けた。


「へっ。来たばかりの『お上り侍』か。

ここは戦場じゃねえ、仕事場だ。刀なんざさっさと質に入れて、ツルハシでも買いな! その方がよっぽど役に立つぜ!」


 男は豪快に笑い、人混みの中に消えていった。新九郎は、カッと顔が熱くなるのを感じた。武士に対して、この言い草。無礼討ちにしても文句は言われないはずだ。


 だが、周囲の誰もそれを咎めない。マオリの商人も、白人の技師も、日本人の飛脚も、皆一様に忙しなく動き回っているだけだ。ここでは「身分」という通貨は通用しない。通用するのは「何ができるか」という機能だけなのだ。


 新九郎は、深呼吸をした。肺の中に、石炭と潮と、そして見知らぬ花々の甘い香りが満ちていく。  彼は、震える手で懐の財布——なけなしの南山両と小判が入っている——を確かめ、そして一歩を踏み出した。目指すは、この街のインフラ人材を一手に担う「南山総督府・建設局・技手人足斡旋所」


 刀という過去を背負いながら、彼は蒸気機関車が走る未来の街へと、その身を投じたのである。


     ◆


 港から続く石畳の坂道を登りきった先に鎮座するその建物は、赤煉瓦と御影石で組まれた重厚なネオ・バロック様式でありながら、屋根には黒光りする日本瓦が葺かれているという、南山特有の奇妙だが威厳のある威容を誇っていた。


 高い天井のロビーには、幾重もの列ができていた。職を求める者、土地の登記に来た者、あるいは一攫千金を夢見て破れた者。それらの熱気と体臭を、天井で回る巨大なファンが緩やかに撹拌している。新九郎が並んだ窓口の向こうでは、麻のワイシャツの袖をまくり上げた一人の役人が、まるで千手観音のような手際で、山のように積まれた書類の塔を崩していた。


 その役人の顔立ちは、古風な浮世絵に出てくるような切れ長の目と、白く端正な肌を持っていた。おそらくは、江戸の旗本か御家人の出であろう。


 この南山の行政機構を支えているのは、かつて江戸城でご公儀に仕えていたが、政争や派閥争いで弾き出されたエリート官僚の末裔たちが多い。ここには世襲という安楽椅子は無い。無能な官吏は早々に退場させられる。本国から短期でやってくる上級幹部以外の、現地官吏の採用は基本的に実力主義で(まあ、それなりに情実はあるだろうが)、彼らはその親世代と同様に幼少期より徹底した英才教育を叩き込まれているが故に、今ここで官吏の職に就いているのだ。彼らにとって家柄とは、さして誇るものではなく、ただ勉学へのアクセス権を意味するに過ぎぬものだった。


「…次」


 役人は、インクの染みた指先で次の書類を招いた。顔すら上げない。彼にとって目の前の人間は、処理すべき多数の書類の一つでしかないのだ。


「名前と出身は?」


「元南部盛岡藩士、三田村新九郎でござる」


 新九郎は、できるだけ腹に力を入れて名乗った。故郷では、家名は己の存在証明そのものであったからだ。 だが、役人の反応は冷ややかだった。ペン先が紙を走る音だけが返答だった。


「士族か。で、何ができる? 剣術か? 漢詩か? それとも茶の湯か?」


 その問いかけには、隠そうともしない倦怠と、微かな嘲笑が含まれていた。 ここには毎日、職を求めて何人もの食い詰めた元侍たちが押し寄せる。彼らの多くは一様に、先祖の武功や、実社会では一文の得にもならない儒教的教養を売り込もうとし、そして失望と共に去っていくのだ。


「…い、一刀流の中目録を持ってはおるが」


 新九郎は口籠った。やはり、ここでも剣の話から入ってしまう。それが武士の悲しいさがだ。だが、彼はふと、船の中で同室だった商人が言っていた言葉を思い出した。『南山じゃ、算盤が刀だ』。  彼は、おずおずと付け加えた。


「…それよりも、算術と、あと…測量が、多少」


「ほう?」


 役人の手が、初めて止まった。





其の二に続く

最後までお付き合いいただき感謝します。

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