第18話 第一次長州征伐 - 錆びゆくリヴァイアサン
元治元年(一八六四年)十一月 大坂城
冬の気配が濃厚になり始めた大坂の空は、鉛を流し込んだように重く垂れ込め、十五万もの兵士たちが一斉に吐き出す白い呼気と、城内のいたる所に据えられた巨大な炊き出し釜から立ち昇る牛鍋の脂っこい湯気によって、湿った白い膜で覆われていた。
かつて太閤秀吉が築き、徳川が再建したこの西日本最大の巨城は、史上空前絶後の規模となる大軍勢を飲み込み、消化不良を起こして破裂寸前の胃袋のように不健全に膨れ上がっていた。
長州征討軍。総勢十五万。尾張藩主・徳川慶勝を総督とし、西國三十六藩を総動員したこの軍勢は、帳簿上のスペックにおいては、東アジア最強にして無敵の威容を誇っていた。南山からもたらされた大量の羅紗で仕立てられた、明るい紺色の揃いの軍服が城内を埋め尽くす。
兵士たちの背嚢にはや、ドライゼ銃の15.4mm紙薬莢や最新鋭スナイドル銃の14.7 mmのボクサーパトロン実包、南山畜産公社製の肉缶、長期保存可能な乾燥野菜のブロックなどが詰め込まれ、眼下を流れる淀川には大坂湾から遡上してきた蒸気輸送船団が黒煙を上げ、山のような食料や冬場の燃料となる石炭をピストン輸送で陸揚げしている。その物量は一地方の反乱を鎮圧するにはあまりに過剰であり、その規模は神話に語られる巨大な海獣そのものであった。
だが、このリヴァイアサンは動かなかった。
いや、そのあまりの巨体ゆえに、自らの重力に押し潰され、複雑怪奇な神経系統(指揮系統)の麻痺を起こし、ピクリとも動けなくなっていたのである。
◆
城内の一角、本丸御殿の一室を改造した軍艦奉行・勝海舟の執務室。 勝は、豪奢な装飾が施された窓を大きく開け放ち、淀川から吹き上げる冷たい川風と共に、眼下に広がる停滞を見下ろしていた。
オクスフォードで日本人初の卒業生となり帰国して以来、技術開発の監督官であった筈が、気が付けば理不尽な国内政治の裏方役や、海千山千の列強の外交官とのタフな交渉などを経験し、南山との距離が近いとの評判のこの男は、今や幕府陸海軍の実質的なトップに登り詰めていた。
べらんめぇ調の江戸言葉で幕閣を煙に巻くその態度や仕事ぶりは劇薬と称されるが、その裏には列強の野心と南山の脅威を肌で知る者特有の、鋭利な危機感が常に張り詰めている。しかし、そんな今の彼の表情に浮かんでいるのは、苦虫を噛み潰したような焦燥と諦観に近い冷笑であった。
「けっ。見てみろ、あのザマを。あれは軍隊じゃねえ。馬鹿みたいにあからさまな失業対策事業だ」
勝が咥えた、南山経由のハバナ産最高級葉巻から、紫煙が流れ出る。彼の視線の先、城内の広場では、暇を持て余した兵士たちが、銃の手入れをするでもなく、車座になって賭け事に興じていた。台湾から輸入されたトランプ(カルタ)が切られる乾いた音と、「レイズだ!」「降りた!」といった、本来戦場には似つかわしくない博打用語、そして卑猥な冗談が風に乗って聞こえてくる。
彼らの多くは、動員された諸藩の正規兵ではない。その実態は、各藩が幕府から割り当てられた過酷な動員数を満たすために、農村や宿場町から急遽かき集めた「日当目当て」の農民や、食い扶持を失った次男三男坊たちであった。彼らの目は死を覚悟した兵士のそれではなく、給料日を待つ労働者の倦怠に満ちていた。
「勝先生。彼らを責めるのは、いささか酷というものです」
傍らで、山のように積まれた兵站に関する報告書を整理していた男が、インクの染みた指先をハンカチで拭いながら静かに口を開いた。
一橋家の家老並・西周である。 彼はオランダのライデン大学への留学経験を持ち、フィセリング博士の下で法学・哲学・経済学を修めた、幕府きっての超エリート・テクノクラートだ。現在は将軍後見職・徳川慶喜の懐刀として、この巨大な軍事機構の制度設計と監査を任されている。その理知的な双眸は、感情ではなく、冷徹なデータと統計を通して世界を見ていた。
「彼らは、「豊かさ」を知ってしまったのです。古来のように名誉や忠義のために命を捨てるよりも、生きて製鉄所で蒸気ハンマーを操る職工になった方が、あるいは南山へ出稼ぎに行った方が、遥かに実入りが良いことを。彼らは合理的に生きているだけです」
西は、眼鏡の位置を指で押し上げ、手元の分厚い帳簿を開いて特定のページを指差した。
「統計局の最新の試算によれば、この軍に参加している兵の六割強が、各藩が雇い入れた臨時雇いの請負兵です。彼らに支払われる日当は、南山の最低賃金を基準に高騰しており、一介の足軽の俸禄を遥かに上回っています。彼らにとって、この戦争は聖戦ではなく、農閑期における割の良い出稼ぎに過ぎません。先生、この国では今、忠義という貨幣の価値が暴落し、代わりに賃金という貨幣が異常な高騰を見せているのです」
「インフレーション(Inflation)ってやつか。メリケンの南北戦争で流行ってるっていう、あの厄介な病気だな」
勝は、葉巻の煙と共にその言葉を吐き捨てた。南山貿易でもたらされた大量の金と物資は、日本の経済を潤すと同時に、旧来の価値観を破壊していた。物価は上がり、貨幣価値は下がる。
かつては武士の魂とされた刀一振りの値段よりも、南山の工場で一ヶ月働く賃金の方が高いという現実。それが、兵士たちの士気を根底から腐らせていた。
「嫌な世の中になったもんだ。金が多すぎて、人が腐るたぁな」
勝は、脳内でこの戦争のコストを弾いた。十五万の兵を一日養うのに、どれだけの米が消えるか。彼らが吸う煙草、履き潰す草鞋、そして無駄に消費される暖房用の石炭。
南山貿易で得た莫大な利益が、この大坂城というブラックホールに、音を立てて吸い込まれていく。戦わずして幕府の財政は出血多量で死にかけているのだ。このままここに留まれば、幕府は長州と戦う前に、自らの財布の中身によって破産するだろう。
勝は、机の上に広げられた中国地方の地図を、葉巻を持った手で叩いた。そこには長州藩境に向けて展開する征討軍の配置が記されているが、その駒はここ一ヶ月以上、ピクリとも動いていない。動かせば金がかかる。負ければ政権が揺らぐ。この巨大な軍隊は、強すぎるがゆえに、政治的なオブジェと化していた。
「それに、だ。仮に長州まで攻め込んだとして、勝てる保証はねえ」
勝は、机の上に広げられた中国地方の精密な測量地図を葉巻を持った手で叩いた。南山産の良質な葉巻から落ちた灰が、長州藩の領土の上にボロボロと崩れ落ちる。それは、これから起きるかもしれない不吉な未来—幕府軍の崩壊—を暗示しているようだった。
「向こうは死に物狂いだ。高杉晋作とかいう跳ねっ返りが、奇兵隊なんちゅうもんを組織して待ち構えてやがる。
西先生、こいつの意味がわかるか? 連中は、金のために集まった請負兵じゃねえ。負ければ殺される、故郷を焼かれる、女房子供が路頭に迷うと信じ込んでいる、追い詰められた野良犬だ」
勝は、窓の外の屯所へ顎をしゃくった。
「対するこっちは、腹一杯の飼い犬だ。南山の肉缶で肥え太り、懐にはたっぷりの日当が入ってる。奴らの頭ん中にあるのは、敵を殺すことじゃねえ。五体満足で国へ帰って、この金をどう使うかってことだけだ。
飢えた野良犬と、退職金の計算をしてる飼い犬。どっちが喧嘩に強いかは、賭けるまでもねえよな」
西周は黙って深く頷いた。彼の脳内では、勝の直感がフィセリング博士から学んだ近代軍事理論と完璧に合致していたからだ。
「勝先生の仰る通りです。軍事学的に言えば、これは非対称戦(Asymmetric Warfare)の泥沼に陥る危険性が極めて高い」
西は手元のメモにペンを走らせながら、冷徹な分析を口にした。
「長州の地形は山岳が多く、平野が少ない。我々が誇る重厚長大なアームストロング砲や、南山式の輜重部隊を展開するには不向きです。対する長州軍は、高杉が導入した散兵戦術——地形を利用し、小部隊で散開して狙撃を繰り返す戦法——を採用しています。象が蚊の群れと戦うようなものです。踏み潰そうにも相手は捉えどころがなく、こちらは一方的に血を吸われ、疲弊していく」
さらに西は別の帳簿を開き、より深刻な問題を指摘した。
「それに、経済的リスク(ファイナンシャル・リスク)が限界値を超えています。現在、この十五万の軍勢を維持するために、幕府は一日あたり数千両の戦費を消費しています。これは南山の英仏の投資銀行からの借款で賄われていますが、もし戦線が膠着し、戦争が半年以上続けば…幕府の債務償還能力は破綻します。つまり、財政破綻です」
地図上には、長州藩境に向けて展開する征討軍の配置を示す赤い駒が置かれている。だが、その駒はここ一ヶ月以上、ピクリとも動いていない。動かせば莫大な金がかかる。無理に攻めて負ければ、徳川の権威が地に落ち政権そのものが瓦解する。かといって撤退すれば、弱腰と見なされ諸藩の離反を招く。
この十五万の巨大な軍隊は、強すぎるがゆえに、そして維持費が高すぎるがゆえに、誰にも動かせない、巨大な政治的な置物と化していたのだ。
「そこで、だ。西先生」
勝は葉巻を灰皿に押し付け、揉み消した。その瞳に博打打ち特有の鋭い光が宿る。
「これ以上、金と時間をドブに捨てるわけにゃいかねえ。軍隊が身動きがとれねえなら、政治という絡め手で動かすしかあるめえよ」
勝がニヤリと不敵に笑った、その瞬間だった。
ドス、ドス、ドス、
廊下の向こうから、地響きのような重い足音が近づいてきた。それは通常の人間が歩く音ではない。巨岩が転がるような、あるいは山そのものが意志を持って移動してくるような、圧倒的な質量の気配。城内の床板が軋み、障子が微かに震える。警護の兵たちが、誰何することさえ忘れ、その威圧感に道を開けているのが気配で分かった。
ガチャリ。
扉がノックもなく開かれ、一人の男が部屋に入ってきた。それと同時に、香水や整髪料の匂いではない、桜島の噴煙のような熱気と、血と泥と汗が混じり合ったような、濃厚な漢の臭いが、冷え切った執務室に奔流となって流れ込んできた。
逆光の中に立つその巨影は、そこに存在するだけで室内の空気を歪ませるほどの、暴力的なまでのカリスマを放っていた。
その男は城内を埋め尽くす十五万の兵士たちが身につけている、真新しい羅紗の軍服を着てはいなかった。使い込まれて色褪せた大島紬の着流しに、薩摩の黒塗りの下駄。腰には大小を無造作にぶち込み、太い首には手ぬぐいを巻いている。 彼の双眸。それは猛禽類のような鋭さと、すべてを包み込むような底知れぬ深淵が同居しており、一目見ただけで相手に「この男には嘘が通じない」と悟らせる、原始的な魔力を帯びていた。
征討軍参謀・薩摩藩、西郷吉之助(隆盛)
先の禁門の変で京を焼き払った指揮官の一人でありながら、飄々としてこの大坂城に出入りする、幕末最大の怪物狸である。
「お呼びでごわすか、勝先生」
西郷は巨体を揺らして部屋に入ると、遠慮会釈もなく、勝の向かいにある南山製の革張りソファに、どっかと深々と腰を下ろした。高級な革が、巨象に踏まれたかのような悲鳴を上げる。
彼が座った瞬間、緻密な計算と論理で張り詰めていた執務室の空気が、一変した。西周の積み上げた書類の山が、ただの紙屑に見えてしまうほど、この男の「実存」は圧倒的だった。
「呼んじゃいねえよ。待ちくたびれてただけだ」
勝は葉巻の煙を吐き出しながら、探るような視線を向けた。西周もまた眼鏡の奥から緊張した面持ちでこの薩摩の巨人を観察していた。彼のようなテクノクラートにとって、西郷のような数値化できない変数こそが、最も恐るべき対象だからだ。
「どうだ西郷さん。城に入ってくる時に見ただろう。この動かぬ軍はあんたの目にはどう映った?」
勝の問いに西郷は太い眉をピクリと動かし、窓の外、淀川の彼方まで広がる大軍勢を一瞥した。計算も、分析もしない。ただ、直観で感じ取った真実を、そのまま口にした。
「錆びてますな」
短く、しかし鉛のように重い一言だった。西周が弾き出した「インフレ」や「非対称戦」といった複雑な分析結果を、この男はたった一言、「錆」という言葉で看破してみせたのだ。
「鉄つぁ、使わんと錆びっど。人も同んなじこっじゃ。南山の飯を食い、南山の羅紗を着て、懐にゃ銭が入って腹ぁ肥てたかもしれん。じゃっどん、魂は脂で錆びっち、もうピクリとも動かん。
こげなこっでは、長州の毒を抜く前に、自分が破傷風にかかっ、死んでしまいもんそ!」
西郷は自らの太い腕をポンと叩いた。彼の言葉には机上の空論ではない、血の通ったリアリズムがあった。
兵士たちが戦わないのは、金のためだけではない。戦うための大義という免疫系が、南山の過剰な豊かさによって破壊されていることを、彼は本能的に理解していたのだ。
「違げえねえ。さすがは大狸だ、鼻が利く」
勝はニヤリと笑い、身を乗り出した。ここからが、政治の時間だ。論理と直観、二つの知性が交わり、歴史を動かす結節点。
「この戦争、止めにしてえ。いや、正確には勝ったことにして、終わらせてえ……わかるかい?」
勝は指を折りながら、状況を整理して突きつけた。
「幕府は金が惜しい。これ以上長引けば、南山銀行への利払いで首が回らなくなる。長州は命が惜しい。高杉の野郎も、本音じゃ全滅覚悟のゲリラ戦なんてやりたかねえはずだ。そして何より、おはんら薩摩はこれ以上幕府が強権を持って、中央集権化するのが面白くねえ。
…三者の利害は、奇妙な形で一致してるはずだ」
西郷の目が、小さく、しかし鋭く光った。彼は無言で懐から手ぬぐいを取り出し、額に滲んだ脂汗を乱暴に拭った。その動作一つにも、計算された演出と、隠しきれない野心が滲む。
「勝先生。そいは、長州を許せち、言うこつでごわすか。御所さ向っけ大砲を撃ちこんだ、あん憎っか朝敵を」
西郷の声色が低くなる。それは、勝の覚悟を試すような、底冷えする響きを持っていた。 彼にとって長州は、禁門の変で殺し合った仇敵だ。だが同時に幕府という共通の巨大システムに対抗しうる、唯一の同志になり得る存在でもある。その矛盾をこの男はどう料理するつもりか—西郷の沈黙は雄弁にそう語っていた。
「殺せとは言わん。だが、きっちりと責任は取らせろ」
勝は吸いかけの葉巻を灰皿に押し付け、その残り火が消えゆくのを冷ややかに見つめながら言った。
「切腹だ。長州の三人の家老に、古式ゆかしく腹を切らせて、その首を塩漬けにして差し出させろ。そうすりゃ、幕府も逆賊を討ち取ったという面子が立つ。十五万の軍勢を引く、これ以上ない大義名分という名の出口ができる」
それは、近代合理主義の皮を被った、あまりに残酷で、かつグロテスクな取引であった。十五万の軍勢と最新鋭のアームストロング砲を用いて長州全土を物理的に焦土(サラ地)にするか。それとも、たった三人の老人の命を「儀式」として差し出すことで、国全体の破滅を回避するか。
近代的な総力戦のコストを回避するために、あえて前近代的な「切腹」という封建的儀式を政治ツールとして利用する。これこそが、精神は中世に置き去りにしたまま、技術と経済だけが肥大化してしまった今の日本の歪な矛盾そのものであった。
西郷は、即答しなかった。
彼は、太い腕を組み、天井のシミを見上げるようにして沈黙した。だが、その沈黙は思考の停止ではない。彼の脳内では、京の大久保利通から送られてくる暗号通信、長崎のグラバーや五代友厚からもたらされる南山貿易の相場情報、そして薩摩藩独自の密偵網が収集した幕府の財政データが、高速で結合し、一つの絵図を描き出していた。
(勝先生の言う通りじゃ。幕府の金蔵は空っぽ。銀行への利払いで首が回らんのは、五代の報告と合致する。長州もまた、高杉らが意気込んではおるが、実弾の備蓄は三ヶ月分もない。ここで幕府軍と正面衝突すれば、西國全体が共倒れになる)
西郷という男の恐ろしさは、その野人じみた風貌の裏に、官僚顔負けの情報処理能力と、それを瞬時に直観という形に変換して決断する、動物的な政治センスを併せ持っている点にあった。彼は感情で動いているように見せかけて、その実、誰よりも冷徹にそろばんを弾いている。
「わかりもした」
やがて、西郷は地底から響くような低い声で唸った。
「そん泥被り、こん薩摩が引き受けもんそ。 おいが長州へ乗り込ん、引導を叩っ付けっきもす」
傍らで聞いていた西周が、思わず息を呑んだ。敵地へ単身乗り込むというのか。
「できるか? 西郷さん。長州はお前を恨んでるぞ。禁門の変で、御所から彼らを叩き出したのはアンタだ。下手をすりゃ茶を出される前に斬られるぞ」
勝の警告に、西郷はゆっくりと首を振った。
「恨みも憎くしみも、呑っ込んこそ、政治じゃっど。 そいに、な…」
西郷は、巨体を揺らして立ち上がった。その瞬間、彼から発せられる漢の臭い—血と汗と、そして抑えがたい野心の匂い—が、濃厚に漂った。彼はニカっと白い歯を見せて笑った。その笑顔は、愛嬌のあるものでありながら、同時に獲物の急所を見定めた捕食者の、背筋が凍るほど冷酷なものでもあった。
「今、こけ長州を根っこ削ぎ潰しっみやんせ。 南山との利権、そいから西國ん富は、みな公儀に独り占めされっしまいもす。そいは困る。徳川の世が盤石になっちょっては、面白くなか。」
西郷は勝の机上の地図、長州の部分に太い指を突き立てた。
「長州にゃ、死なん限りに弱ってもろて、恩を着せっおく。 そいで、いつか来る『そん時』の為に、牙を研いでもらわんなならん。」
勝は葉巻を取り落としそうになった。この男はすでに幕府後の絵図を描いている。この征討軍の解散は、平和のための撤退ではない。次のより巨大で、より決定的な内戦 - 東國対西國の最終戦争 - へ向けて、邪魔な動かぬ駒を盤上から取り除き、戦場を整理するための配置転換に過ぎないのだ。
「へっ。西郷さん、あんた、やっぱり稀代の大狸だ。京の公家なんぞ裸足で逃げ出すぜ」
「お互い様でごわす、勝先生。 おはんも、公儀ちゅう泥舟に乗っちょいながら、 底さ錐で穴を穿す算段をしちょっじゃなかですか。 ……日の本ちゅう船さ、乗っ換えっ為に」
二人の化物は視線だけで火花を散らし、そして同時に腹の底から笑った。それは友情の笑いではない。同じ滅びの予感を共有し、その崩壊の瓦礫の上に新しい国を建てようとする者同士だけが交わせる、乾いた共犯の哄笑であった。
◆
数日後。 西郷隆盛は吉井友実らわずかな供回りと共に、敵地・長州へ乗り込んだ。岩国・錦帯橋の近く、長州藩との交渉の場において十五万の大軍を背景にした彼の恫喝は、凄まじいものであったという。
「滅ぶか、腹ぁ切っか。二つに一つじゃっど。国ごと焼かれて皆、灰になっか、侍としっ、名のある死を選ん、家老ん首三つで遣こっか。返答次第じゃ、おいもこけ腹ぁ切っ覚悟で来ちょっど!」
西郷の気迫と、心底からの生存(生きろ)の説得に、長州藩内の過激派も沈黙せざるを得なかった。激論の末、長州は保守派が主導権を握り、屈服を選んだ。
国司信濃、益田右衛門介、福原越後。
三人の家老が、十五万の兵士と民の命の代償として切腹した。彼らの首は塩漬けにされ、広島の幕府軍本営における実検に供された。
一二月。幕府は「長州恭順」を確認し、勝利宣言と共に撤兵命令を出した。大坂城を埋め尽くしていた十五万の兵士たちは、一度も銃を撃つことなく、拍子抜けした安堵の表情で、あるいは「出稼ぎが終わった」という不完全燃焼の顔で、それぞれの故郷へと帰っていった。後には空き缶と汚物、そして「結局、金が無駄になっただけではないか」という、言いようのない虚無感だけが残された。
「動かぬ軍」は解散した。だが、それは平和の訪れではなく、巨大なリヴァイアサンが、その巨体を維持できずに自壊し、腐敗し始めた瞬間でもあった。
◆
元治元年(一八六四年)十二月 大坂城・天守台跡
かつて太閤秀吉が天下を睥睨し、徳川が大坂の陣で灰燼に帰した後に再建するも、落雷によって焼失し、今は巨大な花崗岩の石垣だけが残る天守台。その吹きっさらしの頂に、勝海舟と西周の二人は並んで立っていた。
眼下には、淀川の川面が夕陽を反射して、ドス黒い廃油のように光っている。その川沿いの街道を、蟻の行列のように無数の点—解散した十五万の兵士たちが、東へ、西へと散っていくのが見えた。彼らが去った後の城内には、南山畜産公社のロゴが入った空き缶の山と、ボロ布のように捨てられた軍服、そして排泄物の臭気だけが、祭りの後の汚物として残されていた。
「終わったな、西先生」
勝は、短くなった葉巻の吸いさしを、石垣の縁で乱暴に揉み消した。その指先は寒さのためか、それとも抑えようのない苛立ちのためか微かに震えている。
「ええ。一滴の血も流さず、三人の老人の切腹だけで十五万の軍を解体した。費用対効果の観点から言えば、これ以上の解決策はありません。西郷殿の政治力と、勝先生の絵図の勝利です」
西は南山製の革手帳に万年筆で最後の数字を書き込み、パタンと重い音を立てて閉じた。その横顔は感情を殺した事務官のものではなく、戦場の死体累々を直視しながら、眉一つ動かさずに死亡診断書を書く検死官の如き、冷徹な凄みを帯びていた。
勝は鼻で笑い、冷たい川風にコートの襟を立てた。
「勝利、だと? よしてくれよ、西先生。アンタほど頭の切れる男が、本気でそう思っちゃいねえだろう。アンタの手帳には書いてあるはずだ。幕府の倒産ってな」
勝は石垣から身を乗り出し、眼下で散りゆく兵士たちの背中を指差した。
「見てみろあの背中を。あれは凱旋じゃねえ。精算だ。幕府って会社が不採算部門(戦争)を切り捨てて、雇い人を解雇しただけだ。奴らは国元へ帰ってこう言うだろうぜ。幕府の旦那は金払いはいいが、喧嘩の仕方も知らねえ腰抜けだとな」
勝の声には、自嘲と、深い絶望が混じっていた。
「今回の一件で、幕府にあった武威という名の信用資産は無となった。いや債務超過だ、思いっきり超過だ。金で雇った士卒は金の切れ目が縁の切れ目。次に奴らが銃を取る時は、より高い日当を払う雇い主のために、平気でこの大坂城へ銃口を向けるさ」
西周は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、夕陽に染まる空を見据えたまま、静かに、しかし断定的に言った。
「承知の上です。数字は嘘をつきません。リヴァイアサンは、大きくなりすぎました。自らの代謝熱で内臓を焼き、動くこともできずに餓死寸前です。
ならば、我々の仕事は延命治療ではない。見事な安楽死の準備と、その死体から新しい国を切り出すための解剖です」
西の言葉に勝は一瞬目を見開き、そしてニヤリと笑った。この男もまた、ただの学者ではない。ペンという名のメスを握る、冷酷な執刀医なのだ。
その時、石段を駆け上がってくる足音がした。幕軍の伝令ではない。黒に近い紺色の軍装に白字でくっきりと「會」の一文字を染め抜いた袖章。會津藩の伝令将校であった。その顔は煤で汚れ、軍服には焦げ跡が残っている。京の地獄をくぐり抜けてきたであろう、まだ殺気立った気配が全身から抜けずに漂っていた。
「軍艦奉行、勝安房守殿とお見受けいたします。某は会津松平家が家臣、大沢詠進と申すもの。 我が主、會津中将 松平容保より内密の書状を預かり、御前にまかり越しました!」
彼は血と脂と硝煙の臭いが染み込んだ書状を恭しく差し出した。勝は表情を引き締め、それを受け取った。封蝋には會津松平家の家紋が押されているが、その赤色はまるで凝固した血のように見えた。
労いの声を掛けた将校がまた戦場に戻ると、勝は封を切り一気に読み下した。西周が固唾を飲んでその横顔を見守る。読み進めるにつれ、勝の顔から皮肉な笑みが消え、代わりに見たこともないような敬虔且つ、痛ましい表情へと変わっていった。
「内容を伺っても宜しいですか、先生」
勝は無言で手紙を西に手渡した。そこには抑えた筆致で、友からの魂の叫びとも言える文が綴られていた。
拝啓
大坂の空はいかがか。 京は依然として焦げ臭く、油の臭いが鼻について離れぬ。
貴殿の策により長州征伐が血を流さずに終わったこと慶着に存ずる。十五万の兵が喰らうを肉や米を政治で止めにさせた手腕はまさに魔術だ。
だが、安堵は禁物である。余は、この京で見た。そして知った。文明が如何に脆く、如何に残酷に人を焼くかを。 山砲の照準器越しに見る世界には、善も悪もない。あるのは座標と質量だけだ。
我々はお互いに勝利したのではない。ただ物理法則に従って障害物を効率的に処理したに過ぎない。 貴殿が政治という計算式で長州を止めたように、余は鐵と火薬という計算式で彼らを止めた。だが、お互い止まったのは時計の針だけだ。余の時計と西國の時計。そして貴殿ら幕府の時計。この三つの時間は間もなくまた刻を刻み始めるであろう。だがしかし、もはや二度と噛み合うことはないだろう。
貴殿の朋輩の加納嘉兵衛が申していた事が頭から離れぬ。彼は言った「文明とは野蛮の効率化だ」と。 ならば余は、この国の最後の秩序を守るために、誰よりも効率的な野蛮人になろうと思う。
都を焼いた罪も、民の怨嗟も、すべてこの身に引き受けよう。義だの忠だのという美しい言葉は、灰と共に燃え尽きた。今や余の手にあるのは、南からもたらされた冷たい杖一本のみ。
嘗て貴殿が言ったブリテン流に語らせてほしい。
友よ、義邦殿。
貴殿らは腐りゆく巨象の解体を進められよ。
余はその巨象が倒れる最後の瞬間まで、傍らで血塗れの秩序の番犬として立ち続ける。我々の道は分かたれた。ただ、もし生き残ることがあれば、また何処かの空の下で相まみえる日が来るやもしれぬ。その時は、地獄を起こしたもの同士、苦い酒でも酌み交わそうではないか。
敬意と親愛を込めて
容保
読み終えた西の手が微かに震えていた。 恐怖ではない。共鳴による震えだった。一人の男が自らの魂を殺し、理性の怪物として生きることを宣言した血判状であった。
「あの、容保公が、ここまで…」
西は、眼鏡を外し、懐から取り出したセーム革でゆっくりと拭った。その目には、同情を超えた同志に対する深い敬意が宿っていた。
「…公はどのような地獄を見たのでしょうか。そして、そこから引かず、その地獄の管理人になることを選ばれるとは…見事なお覚悟です」
勝はそれには何も答えず、ただ空になった葉巻のケースを弄びながら、遠く京都の方角 -北の空を見上げた。 そこには、まだ微かに、火災の残照と思われる不吉な赤色が滲んでいた。
「アームストロング砲の引き金を引いて、自分の心まで吹き飛ばしちまったか」
勝は天守台の縁に立ち、冷たい風を全身に浴びた。その背中は幕府という巨大組織の終焉を看取る、葬儀屋のような寂寥感と、新しい時代への渇望が入り混じった、複雑な影を落としていた。
「西先生。…西郷は長州という狼を檻に入れたまま、鍵をかけずに帰っていった。容保公は京で秩序という名の首輪を自らにつけて、狂犬と化す覚悟を決めた。そして俺たちは金欠で動けなくなった老犬の飼い主として、安楽死の注射針を磨いている」
勝はニヤリと笑った。だがその目は全く笑っていなかった。傍らに立つ西もまた、手帳を胸ポケットにしまい、冷ややかな、しかし力強い視線を未来へと向けていた。
「次は、ただの誤魔化しじゃ済んでくれそうにありませんね。鎖を引きちぎった獣たちの共食い争いです。金も、メンツも、切腹も通用しない。生きるか死ぬか、食うか食われるか。本当の生存競争が始まります」
二人の漢の言葉が終わると同時に、大坂の街に一斉にガス灯が灯り始めた。東國の技術と資本で設置された青白い人工の光。それは古き良き日本の夜を駆逐し、冷徹な近代の到来を告げる冷たい星々のように輝いていた。
死んでいることに気が付かないリヴァイアサンは急速に腐れていっている。そしてその腐肉の中から、次の時代の怪物が産声を上げようとしていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




