第17話 禁門の変(後編)- 秩序という名の冷徹な暴力
同日 未ノ刻(午後一時過ぎ)
久坂玄瑞が鷹司邸の奥座敷で点火した「自爆」という名の怨嗟は、物理的な衝撃波となって蛤御門周辺の空気を一瞬にして真空にし、次いで熱風の暴風となって吹き荒れた。
爆心地から舞い上がった瓦礫と紅蓮の炎は、夏の湿った大気を焦がし、戦場を覆う視界をドス黒い煤煙で塗り潰す。だが、その噴煙が晴れるよりも早く、混沌とする戦場を支配したのは、より冷徹で、より残酷なまでに整然とした「鉄の規律」であった。
御所内郭、乾門付近 會津藩砲兵陣地
その指揮官である會津藩公用方・山本覚馬は、爆風で埃まみれになった陣羽織を払うこともせず、分厚い眼鏡の奥で、眼前の地獄を凝視しようと目を細めていた。 彼が患っている眼病は日毎に視界を白く濁らせている。だが、肉体の眼が曇るのと反比例するように、彼の脳内にある「砲術の理」は、研ぎ澄まされた刃のように冴え渡っていた。
彼の指揮下には、国許の兵器工廠から極秘裏に搬入され、英国式の砲架に据えられた最新鋭兵器、—六ポンド・アームストロング砲が四門、黒光りする砲身を並べている。それは、従来のずんぐりとした青銅砲とは一線を画す、細長く、機能美に満ちた鋼鉄の猛獣であった。
「提尺(距離)、八丁。信管、五分
狼狽えるな。砲は心で撃つものではない。術で撃つものだ」
覚馬の声は、周囲の怒号や悲鳴とは対照的に、藩校・日新館の道場で教えを説くかのように低く、腹に響く声であった。 彼の手には山形製の精巧な望遠鏡が握られているが、それを使わず砲手たちの所作を耳と肌で感じ取っていた。
尾栓が開かれる金属音。装填手が鉛で被覆された椎の実型(円錐形)の砲弾を薬室へと押し込む、重く鈍い音。それに続いて、麻袋に入った装薬が詰め込まれ、螺旋状の閉鎖機がねじ込まれる「ジャラ、ガチン」という硬質な閉鎖音。
砲兵将校として彼は理解していた。この戦いはもはや武士の喧嘩ではない。槍の長さや剣の鋭さ、あるいは個人の勇猛さを競う時代は終わった。工業力による精緻な旋条と、兵站による火薬の純度、そして弾道学という物理法則が勝敗を決定づける、近代的な殺戮工程プロセスなのだと。
彼が指揮するこの砲は、かつてのような「丸」を飛ばすのではない。砲身内部に刻まれた数多の溝が、鉛で覆われた椎の実型の「砲弾」に食い込み強烈な回転を与える。回転は安定を生み安定は精度を生む。
それは、長州兵が持つ火縄銃や、滑腔ゲベール銃が吐き出す風任せの鉛玉とは、次元の異なる「文明」そのものであった。
「一番砲より、順次射撃ッ!」
覚馬が指揮杖を鋭く振り下ろす。
ズガァァァァァン!!
鼓膜を食い破るような轟音と共に、砲口から鋭い閃光が走る。これまでの大砲のような「ドーン」という牧歌的な音ではない。空気が裂け、悲鳴を上げるような、金属的で暴力的な咆哮だ。回転する椎の実型の砲弾は、不可視のドリルとなって大気を穿ち、独特の風切り音を残して長州軍の頭上へと吸い込まれた。
着弾。
長州軍の密集地帯、その中心部で地面が噴火したかのように炸裂した。
土砂と、人体と、鉄屑が、ひと塊になって空中に舞い上がる。爆発の瞬間、飛び散るのは肉片だけではない。赤いハチマキを締め「尊皇」を叫んで突撃してきた彼らの燃えるような情熱。あるいは死を恐れぬ突貫精神。そういった形而上学的な熱量のすべてが、冷徹な運動エネルギーと破片の拡散によって、意味のない有機物の飛散へと還元されていく。
「あれが新時代の理か…」
覚馬は、次弾装填のために砲腔をブラシで清掃する部下たちに背を向け、独りごちた。
彼の胸に去来したのは、敵を討ち果たした高揚感ではない。むしろあまりに正解すぎる暴力に対する、畏怖に近い戦慄であった。
砲術とはかつて、風を読み、火薬を量り、天運を祈る職人芸であったはずだ。だが、このアームストロング砲はどうだ。正確に数値を合わせ、手順通りに操作すれば、基本的に誰が撃っても同じ場所に落ち、同じように人を殺す。
この正しすぎる兵器は、戦場からゆらぎや武運、情けといった不確定要素を、あまりに綺麗に削ぎ落としてしまう。
それは完璧な掃除夫のように、敵をゴミとして処理していく。覚馬は硝煙でさらに白く霞む視界の向こうを見つめた。そこに転がっているのは、かつては志を持った武士だった肉塊だ。
(我々はこの「便利すぎる力」に、魂の形まで変えられてしまうのではないか……?)
武士としての誇りと、技術者としての絶望的な納得。その狭間で覚馬は再び指揮杖を握り直した。感傷に浸るには、まだ敵が多すぎた。
◆
御所内郭・凝華洞付近 會津藩本陣
数キロ先で炸裂するアームストロング砲の轟音と、着弾のたびに生じる地響き。それらを、容保は無表情で受け止めていた。
彼は御所の庭に据えられた床几に腰を下ろしているが、その背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、微動だにしない。
一見すれば、戦況を冷徹に分析する名将の姿である。それは確かに正しくもある。しかしその内実は若干異なっていた。実際のところ彼の顔色は白蝋のように透き通り、こめかみには脂汗が滲んでいた。胃の腑が、焼け火箸を突っ込まれたように痛むのだ。ストレスと過労が蝕んだ彼の内臓は、今にも悲鳴を上げ、血を吐き出そうとしている。
だが、彼はそれを許さない。彼は懐から、医師・松本良順が調合した茶色の水薬(アヘンチンキを含んだ鎮痛剤)を取り出し、震える手で一気に呷った。
苦味が喉を焼き、痛みがわずかに遠のく。彼は、一切の感情を排し、自らを法と秩序の執行機関として規定した者だけが持つ、凍てつくような静謐さを無理やりに作り出していた。
彼の手には、いつもの愛用する重い鉄芯入りの洋杖が握りしめられている。彼の指は、関節が白くなるほどそのグリップを握りしめ、まるでそれを王笏、あるいは自らの弱さを支える支柱のように地面に突き立てていた。
「申し上げます! 蛤御門方面、覚馬の砲撃により長州勢の前衛は壊滅! 敵は総崩れとなりつつあります!」
伝令の報告に、周囲を固める側近たちは「おお!」と歓声を上げ、安堵の息を漏らした。
だが、容保の眉一つ動かない。彼が見ているのは、戦術的な勝利ではない。眼前に広がる、紅蓮の炎に包まれた京の都という、巨大な統治の矛盾の光景だったからだ。
「守護職」その職名は、なんと甘美で、なんと残酷な響きであろうか。
彼はこの京の都の警察長官であり、帝の近衛隊長である。無法者が暴れればそれを制圧し、市民の安寧と法的秩序を維持する。それが彼の神聖な義務だ。だが、現実はどうだ。秩序を守るために発砲した大砲が、数百年続く町家を砕き、歴史ある寺社を焼いている。
炎の色が異常なことに気づく。
通常の木造家屋が燃える赤色ではない。毒々しいほどに黒く、粘着質な煙が、夏の入道雲のように天を覆い尽くしている。
報告によれば、火勢を爆発的に助長しているのは、京の商家や問屋の蔵に山積みされていた、南山産の精製鯨油と、紡績用の乾燥綿花、そして幕府軍のために運び込まれた大量の硝石だという。
(なんという皮肉だ。取り入れた東國の豊かさが、燃料となって都を焼くか)
容保の理知的な瞳が、苦痛に細められた。これは豊かさが抱えるコストなのか。我々が信じた近代化の正体は、この黒い煙なのか。
彼の心の中で、會津武士としての情が叫び声を上げる。民を救え。火を消せ。戦いを止めろ。
しかし彼はその叫びを、冷徹な理性の檻に閉じ込めた。今、感情に流されれば、国家が転覆する。
「…土佐」
容保は、傍らに控える家老・田中土佐を呼んだ。声は掠れていたが、明晰だった。
「はっ」
「火消し番組へ伝令。延焼地域の市民を、風下の寺院へ誘導せよ。それと、禁裏付の兵を増強だ。帝の御動座(避難)の準備は整っているな?」
「万全にございます。御剣や神鏡も、すでに防火箱へ納めました。いつでも唐崎へ抜けられます」
「よし。民の避難誘導も、可能な限り行え。だが、決して戦線を崩すなよ。情けをかけて隙を見せれば、賊が入り込む」
それは、血の涙を流しながら下す、ギリギリの指示だった。
「殿! 報告します! 風向きが北西に変わりました! 火の手が御所に迫っております!」
「長州の残党、火災の混乱に乗じて、乾門より決死の突撃を敢行する構え! その数、およそ三〇〇!」
別の伝令が、悲鳴に近い声で叫んだ。本陣に動揺が走る。ここで退けば、帝の御身が危ない。長州兵が御所に乱入すれば、帝を拉致し、それを「錦の御旗」として掲げるだろう。そうなれば、會津は逆賊となる。
だが、これ以上の砲撃は、都をさらなる火の海にする。側近たちが、判断を仰ぐように、縋るように容保を見る。
容保は、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、内臓を雑巾絞りにされるような激痛が走ったが、彼は表情筋一つ動かさず、ステッキで地面をドン、と強く突いた。
「撃て。賊を一人残らず殲滅せよ」
その声には、迷いも、震えもなかった。あるのは、外科医が、壊疽して腐り落ちそうな患部を、患者の命を救うために無麻酔で切り落とすと決めた時のような、冷徹で悲壮な職業倫理のみ。
「都が灰になろうとも、ここで無法を許せば、日の本という国家の法治が死ぬ。京の民には申し訳ないが、千年の秩序のために、涙を呑んでもらう」
周囲が息を呑む。それは、今までの情緒的な慈悲深い殿様の言葉ではなかった。近代国家の治安維持責任者としての、残酷なまでの合理的判断。
松平容保は、この瞬間、自らの手で「古き良き温情ある封建領主」を殺し、「理性の守護者」として覚醒したのだ。
彼は知っていた。この決断によって、自分は「都を焼いた男」として、永劫に恨まれるだろうことを。
だが、誰かがその汚名を被らねば、この国はカオスに飲み込まれる。たとえその手が民の血と都の灰で汚れようとも、彼は法の番人として、瓦礫の上に立ち続ける覚悟を決めていた。その蒼白な横顔は、炎の照り返しを受けて、鬼神のように赤く、そして悲しく輝いていた。
◆
下立売御門周辺
午後二時を回り、太陽が中天から西へ傾き始めても、京の空は夜明け前のように薄暗かった。
天を覆うのは、南山の鯨油と化学繊維が燃焼して生じた、粘着質で重い黒煙の天蓋である。その下で、地上は熱源の集合体と化していた。
「撃てッ!」
山本覚馬の号令一下、再び砲撃が開始された。 四門のアームストロング砲が、交互に火を噴く。椎の実型の榴弾は、燃え盛る町家を貫通し、その奥に隠れて再集結を図っていた長州兵の一団を、建物の梁や柱ごと吹き飛ばした。爆風が炎を煽り、火災旋風が発生する。「ドンドン焼け」の火勢は、もはや人間の手には負えない、都市そのものを喰らい尽くす狂乱の魔物となっていた。
その灼熱の地獄絵図の中で、歩兵戦の指揮を執っていたのは山川大蔵である。 彼は崩れかけた土塀の影に指揮所を構え、煤で汚れた軍服の襟を正し、まるで茶会にでも臨むような涼しい顔で、戦場全体を俯瞰していた。
彼の指揮する會津藩兵部隊は、炎の海の中に、見えない「死の境界線」を引いていた。
距離、三〇〇メートル。
これが、彼らが装備する南山製スペンサー七連発銃と、エンフィールド銃の有効殺傷範囲であり、敵が決して越えられない壁である。
「敵、右翼より接近。数、およそ五〇。……抜刀して突っ込んでくるぞ」
山川は、愛用の双眼鏡を下ろし、感情の欠片もない声で呟いた。
彼の目には、長州兵たちの決死の突撃が、あまりに非効率で、哀れな徒労に映っていた。
彼らは「天誅!」と叫び、白刃をかざして煙の中から飛び出してくる。その気迫は凄まじい。一対一の斬り合いならば、會津兵も後れを取るかもしれない。だが、これは合戦ではない。戦争だ。
「第一小隊、膝撃ち(ニーリング)。第二小隊、立撃ち(スタンディング)。……照準、安定。……放て(ファイア)!」
山川の指揮棒が振り下ろされた瞬間、整列した會津兵の銃口が一斉に火を噴いた。
タタタタタタッ!
乾いた破裂音が連続し、三〇〇メートル先で、長州の先頭集団が、見えない巨大な鎌で薙ぎ払われたように倒れ伏した。
悲鳴を上げる間もない。
鉛の弾丸は、彼らの粗末な鎖帷子を紙のように貫き、肉を砕き、骨を粉砕する。 彼らの剣が届くはるか手前で、勝負は決していた。
(呆れたものだ。まだ間合いという概念が刀の長さだと思っているのか)
山川大蔵は、内心で敵を憐れみ、そして軽蔑した。
彼は自らを近代戦の申し子と自負している。感情に流されず、弾薬と距離の計算だけで敵を制圧するこの戦法こそが、新しい時代の武士道だと信じて疑わない。
上官である容保や覚馬からは「切れすぎる剃刀」と危惧され、友軍である薩摩兵からは「會津の若造は血が凍っとるんか」と気味悪がられていたが、彼にとってそれは最高の賛辞であった。
だが、その「鉄の規律」を構成する兵士たちは、決して感情のない機械ではなかった。
「……う、っぷ」
射撃列の端で、一人の若い會津兵が装填の手を止めて口元を押さえた。まだ元服して間もない、あどけなさの残る少年兵だ。
彼の顔色は土気色だった。原因は匂いだ。
戦場に充満するのは、硝煙の刺激臭だけではない。南山の油が燃える化学的な悪臭と、そして何よりも焼けた人間の肉と脂の匂いが、濃厚に漂っているのだ。
「おい、しっかりしろ。詰まるぞ」
隣にいた古参の伍長が少年の背中を叩いた。軍曹の手もまた微かに震えている。
彼らは昨日まで同じ日本人、同じ侍を相手にしていたはずだ。それがどうだ。今は、顔も見えない距離から、レバーを引くだけで相手が肉塊に変わる。
斬った感触も、鍔迫り合いの緊張感もない。あるのは、反動による肩の痛みと、薬室から排出される熱い薬莢の金属音、そして照門越しに見る、人形のように倒れる敵の姿だけ。
「伍長殿。俺たちは、戦をしてるんでしょうか。それとも人殺しをしてるんでしょうか」
少年兵の問いに、軍曹は答えることができなかった。ただ無言で水筒のぬるい水を渡し、
「お役目だ。割り切れ」
とだけ告げた。
彼らの心は、近代兵器の圧倒的な性能と、武士としての倫理観の乖離によって、静かに、しかし確実に磨り減っていた。
◆
その殺戮のオーケストラを、後方の砲兵陣地から、山本覚馬は眼鏡の位置を直しながら見つめていた。
熱気で硝煙が揺らぎ、蜃気楼のように歪む視界。それに加え、持病の眼病が進行しているのか、彼の視野の中心は白く霞み、色彩を失いつつあった。
(……見えぬな。敵の顔が、全く見えぬ)
覚馬は、物理的な視力の低下を感じていたが、思考は恐ろしいほどクリアだった。彼はこの砲火の向こうにあるものを見通そうとしていた。
我々は勝つ。物理的に正しいからだ。 山川の指揮は見事だ。無駄な弾を一発も使わず、味方の損害を皆無に抑えている。軍事的には満点だ。だが、正しさだけで国は治まるのか?
焼け野原となった都。逃げ惑う市民の怨嗟の目。そして、虫けらのように殺されていく西國の兵士たちの行き場のない怒り。
彼らの持つ「飢え」や「情念」といった、数式に表せないドロドロとした変数を、我々の弾道計算はどこまで処理できるのか。我々は、敵の肉体を破壊することはできても、その魂まで殺すことはできていないのではないか。
「覚馬様! 第一防衛線、状況終了! 残敵掃討完了しました!」
硝煙の中から、山川が駆け寄ってきた。
その顔は煤で汚れ、瞳は勝利の興奮、いや、難問を解いた学生のような達成感で輝いている。
「……大蔵、弾薬の残量は?」
「十分です! 補給線は淀川ルートで維持されています。大阪からの輸送船が、あと三隻は十五時に着くはずです!」
若き天才の一点の曇りもない勇ましい報告に、覚馬は微かに苦笑した。 補給はある。弾はある。敵は消える。この完璧な循環。
だが、覚馬には、この循環機構が巨大な歯車となって、いつか武士としての魂や誇り、つまり我々自身をも巻き込み、すり潰してミンチにしてしまうような、不吉な予感がしてならなかった。
「そうか。ならばよし。…だが大蔵、あまり目を凝らしすぎるなよ。見えすぎる目は、時に大切なものを見落とす」
覚馬の謎めいた言葉に、山川は怪訝な顔をしたが、すぐに次の号令をかけるために前線へと戻っていった。残された覚馬は、白く霞む空を見上げた。そこには、太陽すら遮るほどの黒煙が、龍のように渦巻いていた。
同日 酉ノ刻(午後六時) 御所・蛤御門周辺
太陽は西の山並みに没したが、京の都に夜の帳が下りることはなかった。そこにあるのは、静謐な闇を拒絶するように狂い咲く、光と熱の暴虐な支配である。
「ドンドン焼け」と後に京雀たちが忌み嫌うことになるこの大火災は、単なる延焼の域を遥かに超え、一種の物理的な地獄を現出させていた。
町家を舐める炎は、通常の薪が燃えるような、どこか安らぎを伴う赤ではない。商家や豪商の蔵にうず高く積まれていた南山産の精製鯨油、紡績工場用の乾燥綿花、そして幕府が軍需物資として極秘裏に運び込んでいた硝石の山、それらが化学的な連鎖反応を起こし、毒々しいまでに鮮やかで、かつ重苦しい鉛色の紫を帯びた紅蓮となって吹き上がっている。
その炎は意志を持つ巨大な触手のように通りを走り、風を巻き込み、数百年守られてきた老舗の暖簾も、名刹の伽藍も、そして何より人々の慎ましい生活の断片を、瞬く間に高熱の塵へと変えていく。上空を覆う黒煙は、南山の重油が混じった特有の粘着質を帯び、京盆地全体を巨大な「焼却炉」へと変容させていた。
その灼熱の門前に容保が立っていた。
彼はもはや床几に腰を下ろしてはいなかった。本来、彼は會津の峻険な山々を馬で駆け、日新館の厳しい修練で鍛え抜かれた健康な肉体と鋼の精神の持ち主である。病弱な貴公子という風説は、その端正な容貌がもたらす誤解に過ぎない。
しかし、今の彼は連日の不眠不休の政務と、この数時間に及ぶ指揮によって、その頑健な肉体さえも限界を迎えつつあった。
煤と灰で汚れ白茶け本来の色彩を失った軍服。愛用の鉄芯入りの洋杖を石畳の隙間に突き立て、その一点に全身の自重を預けるようにして、彼は結果を見届けていた。
顔色はアヘンチンキの副作用と極限の疲労により、月光を浴びた大理石のように蒼白だが、その瞳だけは、眼前の業火を飲み込もうとするかのように爛々と、冷徹な光を放っている。
目の前を避難する人々の群れが絶え間なく通り過ぎていく。家財道具を背負った商人、泣き叫ぶ子供を抱いた母親、呆然と数珠を握りしめる老人。
會津藩兵たちが、
「速やかに退避せよ! 道を空けろ!」
と声を張り上げ、組織的な誘導を行っている。彼らは疲弊し、鼻腔を焼く脂の匂いに嘔吐しそうになりながらも、その動作は機械のように正確だった。
容保は、その民の波の中に、自分へ向けられる視線の色を、肌を刺す痛みとして感じ取っていた。それは、暴徒(長州)から皇居を守り抜いた「救世主」への感謝ではない。
自分たちの家を砕き、代々の家宝を焼き、平穏な日常を最新鋭のアームストロング砲で粉砕した、圧倒的な物理暴力に対する恐怖と畏怖、そして喉元まで込み上げた憎悪であった。
ある老女が、風呂敷包みを抱えながら、通り過ぎざまに容保を見上げた。その濁った瞳に宿る怨念は、炎の照り返しよりも熱い。騒音で声はかき消されたが、その乾いた唇の動きは確かにこう言っていた。
「人殺し(ひとごろし)」
側近の家老が色めき立ち、腰の刀に手をかけようとしたが、容保はステッキを軽く上げてそれを制した。その挙措には、激昂も、あるいは卑屈な謝罪もなかった。
「構わぬ。土佐、言わせておけ」
容保の声は、枯れ木が擦れるような響きだが、その芯には揺るぎない理性が宿っていた。
「彼らは正しいのだ。我々は今日、都を守るという名目のもとに、都を殺した。外科医が患者の命を救うために、壊疽した手足を切り落とすようにな。
だが、患者にとって、手足を切った医者は命の恩人であると同時に、一生消えない傷を負わせた仇敵でもある。恨まれて当然の仕事だ」
容保は、煤けた手袋をはめた手で、自らの胸元を強く押さえた。強靭な精神が、悲鳴を上げる胃壁を無理やり鎮めようとしている。ふと、彼の視界の端に、瓦礫の陰からこちらを見つめる、一人の奇妙な風体の男が映った。
加納嘉兵衛である。
煤で汚れ、丸眼鏡を曇らせながらも、その男は手に持った手帳に何かを熱心に書き留めている。容保は、その男と一度だけ、京都守護職邸の奥座敷で密かに会談したことがあった。
勝海舟の紹介で現れたその南山の博物学者は、容保に対し、既存の儒教的道徳ではなく冷徹な経済ロジックと文明が、いかにして人を部品に変えるかを、諧謔を交えて説いた。
当時の容保は、その金と計算に染まった男の言葉を不遜に感じたものだが、今、この炎を前にして、嘉兵衛の言葉が呪文のように脳裏に響いていた。
『殿、文明とは、野蛮を効率化したシステムに過ぎません。人を殺すのに、刀で一人ずつ斬るのは野蛮ですが、数式で座標を合わせ、命令一つで百人を消し去るのは、洗練された文明の仕事です』
容保は遠くに立つ嘉兵衛に向けて、わずかに顎を引いた。 嘉兵衛もまた眼鏡を拭い、この惨状の責任者である若き藩主に対し、敬意とそして深い同情を込めた目礼を返した。
容保は、この、世の終わりを観察し続ける男に、不思議な好感を抱いていた。周囲の家臣たちが忠義や義で塗り固めた言葉を吐く中で、嘉兵衛だけが、この凄惨な現実をありのままに提示してくれるからだ。
「……土佐」
容保は、傍らに控える田中土佐に、再び声をかけた。
「はっ」
「……終わったのだ。武士が心で刀を振るい、情けで世を治める時代は、この業火の中で灰になった。明日から始まるのは、鉄と油と計算尺が支配する、冷たく乾いた『近代』だ。そこには、もはや我々のような、不器用な番犬の居場所はないのかもしれん」
「殿、何を仰います。會津の義は不滅にございます」
土佐の忠実な言葉を、容保は寂しげな微笑で受け流した。 彼はステッキを握る手に力を込めた。
たとえ時代が変わり、民に憎まれ、歴史に大虐殺者として名が刻まれようとも、誰かがこの秩序という名の重い十字架を背負わねばならない。
感情に流されて御所を焼く革命家にも、金勘定だけで国を売る若い幕府官僚たちにも、この「秩序」の重みは耐えられまい。
今の自分に残されたものは、ボロボロになりながらも立ち続ける肉体と、磨り減った精神。そして南山からもたらされた、この冷たく重いステッキ(理性)だけだ。
「行くぞ。まだ仕事は山積みだ。土佐、直ちに炊き出しの指揮を執れ。會津の陣屋にある南山の備蓄米、五千俵をすべて放出し、京の民へ配れ。…一粒も残すな。
それと、家を失った者たちのために、西本願寺と協力して仮設の宿舎を設営せよ。…とく急げ」
容保は、よろめきそうになる足を日新館の訓練を思い出すように強く踏ん張り、灰の積もる道を一歩踏み出した。 その背中に、燃え落ちる都の熱風が、残酷なファンファーレのように吹き付けていた。
彼の影は、炎の光によって長く、黒く、瓦礫の道に伸びていた。それは、これから始まる長い内戦の夜と、その果てに待つ予測不能な未来を予感させる、孤独で巨大な守護者の姿であった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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