第二話 駒場野の黒い霧
雨が降りそうだった。
江戸の西郊、駒場野の空は、昨年の品川台場でのあの日と同じように、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。湿った風が吹き抜け、枯れすすきをざわめかせている。
會津藩主 松平容保 数えで二十一歳
床几に腰を下ろした彼の右頬と両手の甲には、薄紅色のアザのような痕が残っている。それは一年前、品川台場で蒸気杭打ち機の暴走を止めた際に負った、名誉ある火傷の痕であった。
「......殿。御無念でございましょう」
家老の田中土佐が、沈痛な面持ちで頭を下げた。 容保は無言で眼下に展開する自軍を見下ろした。そこには、本来あるはずの光景はなかった。
本来ならば、そこには南山植民地からもたらされたゴム底の軍靴を履き、プロイセン式の濃紺の軍服に身を包み、最新鋭のドライゼ撃針銃を担いだ一千の精鋭が整列しているはずだった。
だが、現実にそこにいるのは祖父の代から蔵に眠っていた当世具足に身を固め、錆びを落とした火縄銃と、長い槍を持った、まるで関ヶ原の合戦から時戻りしてきたような古色蒼然たる集団だった。
「無念ではない」
容保は静かに言った。
「怒りだ。これは、明確な政治的謀略だ」
事態は、この数日で立て続けに起こっていた。 今日、老中・阿部正弘や若年寄、そして諸藩の重臣たちを招いて行われるこの「台命(将軍命令)による演習」に向け、 會津藩は万全の準備をしていたはずだった。しかし、それは見事なまでに崩された。
第一に、最新鋭装備を満載して品川に入港予定だった 會津藩御用船「白虎丸」が、浦賀沖で突如として機関故障を起こし漂流した。原因は機関部への異物混入 -明らかなサボタージュだった。
第二に、幕府礼法掛より突如として通達が届いた。
「将軍家御覧の可能性がある演習において、夷狄の衣服たる洋装はまかりならぬ」
これにより予備の洋式装備すら使用を禁じられた。
第三に、演習用に用意していた無煙火薬の貯蔵庫が、昨夜のボヤ騒ぎでスプリンクラー(これも南山技術の國産品だ)が誤作動し、全量水浸しとなった。
第四に、兵部省の一部官僚から「 會津藩の装備調達費に不正流用の疑いあり」との讒言が入り、藩の口座が一時凍結され、代替品の購入すら封じられた。
第五に、これが止めであったが、保守派の有力旗本たちが市中に噂を流した。
「 會津は南蛮にかぶれて武士の魂を忘れた」
これら五つの不運が偶然重なるはずがない。 これは急速に近代化を進める 會津と、それに連なる東國の産業勢力に対する、守旧派による陰湿な「いじめ」であり、公開処刑の場としての演習命令だったのだ。
會津の若造に恥をかかせろ。古臭い鎧を着せて、文明開化の笑いものにしてやれという嘲笑が、風に乗って聞こえてくるようだった。
「土佐。彼らは余を笑いものにしたいらしい」
容保は立ち上がった。火傷の痕が残る手で、先祖伝来の采配を握る。
「ならば見せてやろう。最新の兵器がなくとも、最新の頭脳があれば、戦はどうなるかということを」
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観覧席には、老中首座の阿部正弘をはじめ、きらびやかな衣装を纏った幕閣たちが並んでいた。彼らの多くは、眼下に整列した 會津勢の古めかしい姿を見て、扇子で口元を隠しながら失笑を漏らしている。
対戦相手(仮想敵)を務めるのは、幕府講武所の歩兵隊。彼らは旧式とはいえ、ゲベール銃と洋式操典で訓練された、れっきとした近代歩兵である。
「始め!」
合図の太鼓が鳴り響いた。
常識的に考えれば、勝負になるはずがない。射程、連射速度、機動力、全てにおいて幕府歩兵隊が勝る。彼らは教科書通りに散開線を敷き、一斉射撃の体勢に入った。
「撃てぇ!」
轟音と共に、空砲の煙が上がる。
しかし、その弾丸が届くべき場所に、 會津兵はいなかった。
「なっ!?」
幕府軍の指揮官が狼狽する。
會津兵一千は、開戦と同時に散り散りに分散し、駒場野特有の背の高い枯れすすきや雑木林の中に姿を消していたのだ。
「臆病風に吹かれたか! 追え!」
幕府兵が前進する。だが、それが容保の罠だった。
「放て!」
林の中から、ドーン! という腹に響く重低音と共に、黒煙が噴き上がった。
火縄銃だ。 南山産の無煙火薬ではない、昔ながらの黒色火薬。その大量の煙が、湿った空気のおかげで拡散せず、戦場を濃密な霧のように覆い尽くした。
「煙幕だと!?」
近代戦のセオリーでは、視界を確保するために無煙火薬が好まれる。
だが容保は、逆手に取った。古臭い黒色火薬の煙を利用したのだ。 視界を奪われた幕府歩兵隊は、隊列を維持できずに混乱する。
「掛かれぇぇッ!」
煙の中から、裂帛の気合と共に槍を持った鎧武者たちが飛び出した。
距離は二十メートル以内。この距離ならば、装填に時間のかかる銃よりも、槍と刀が速い。 泥濘んだ地面に足を取られる幕府兵に対し、 會津兵は草鞋のグリップ力を活かして疾走する。ゴム底靴は泥に弱いが、草鞋は泥を噛む。
「密集陣形! 銃剣構え!」
幕府兵が叫ぶが、遅い。
會津兵は、密集する敵に対して正面からぶつからず、煙に紛れて側面や背後から長槍で足を払う。転倒した敵に、別の兵が組み付く。 いわゆる「浸透戦術」の原始的な形であり、同時に戦國以来の「ゲリラ戦」の応用だった。
観覧席の嘲笑は、凍りついたような沈黙に変わっていた。
目の前で繰り広げられているのは、華麗な軍事パレードではない。泥と煙にまみれ、怒号と悲鳴が飛び交う、生々しい殺し合いのシミュレーションだった。
最新の教範しか知らないエリート兵が、泥臭い野戦のプロに蹂躙されている。
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演習終了のラッパが鳴った時、フィールドを制圧していたのは、泥だらけの甲冑を着た 會津兵たちだった。 もちろん、これは演習だ。実戦であれば、遠距離からの砲撃や、持続的な火力支援によって、最終的には装備に勝る近代軍が勝つだろう。 だが、「平野での遭遇戦」という限定的な局面において、装備の劣勢を知恵と闘志で覆した容保の采配は、見る者の肝を冷やすに十分だった。
演習後、泥だらけの直垂姿で本陣に戻った容保を、一人の男が待ち受けていた。 海軍伝習所教頭、勝義邦(海舟)。 彼は相変わらず人を食ったような薄笑いを浮かべながら、懐から手拭いを取り出して容保に放って寄こした。
「見事なもんでしたな、殿様」
「勝か……見ていたのか」
容保は手拭いで顔の泥を拭った。
その下から、興奮で紅潮した顔と、火傷の痕が現れる。
「ええ。御歴々のお顔、見せてやりたかったですよ。時代遅れの案山子だと思ってたら、中身は”質の悪い狼”だったんですからね」
勝はキセルをふかしながら、観覧席の方を顎でしゃくった。
「五つの嫌がらせ。全部計算ずくで、逆手に取ったでしょう? 黒色火薬を煙幕に使い、泥濘を想定して草鞋を残す。……ありゃ、苟日館の教科書には載ってねえ戦法だ」
「……教科書にはない。だが、南山の開拓史にはあった」
容保は遠くを見る目をした。
「入安島の密林で、先遣隊はいかにして近代装備を持つスペイン兵を退けたか。古い記録を読んだのだ。武器が変わろうと、戦うのは人間だ。人間が恐怖し、混乱する理屈は変わらぬ」
「へっ。言うねえ」
勝はニヤリと笑った。
「だが、わかってるでしょうね。これが本物の戦争なら、あんたたちは全滅だ。煙幕が晴れれば、大砲の餌食だ」
「承知している。だからこそ、余は悔しいのだ」
容保は拳を握りしめた。火傷の痕が白く浮き出る。
「今回は奇策で凌いだ。だが、奇策は二度は通じぬ。……余は、余の兵に、二度とあのような惨めな装備で戦わせたくない。彼らには、最高の銃と、最高の靴と、そして最高の『誇り』を与えたいのだ」
その言葉に、勝の目がすっと細められた。
「……あんた、いい面構えになりやがった。品川の雨の日より、ずっといい」
そこへ、老中の阿部正弘が近習を連れて歩み寄ってきた。
「 會津公……見事であった」
阿部の顔には、複雑な色が浮かんでいた。
彼は守旧派の嫌がらせを知りつつ、止められなかった無力さを恥じているようでもあった。
「装備の不備、申し訳なく思う。だが、其の方は証明したな。國を守るのは器械にあらず、人の和と知恵であると」
容保は深く頭を下げた。
「恐れ入り奉ります。……ですが老中様。人の和と知恵を活かすも殺すも、政次第にございます。願わくば、この泥にまみれた兵たちの姿を、お忘れなきよう」
阿部はハッとしたように容保を見つめ、無言で頷いて去っていった。
風が出てきた。雨雲が流れ、雲間から薄日が差してくる。 駒場野の風は、火薬の焦げた匂いと、男たちの熱気、そして来るべき激動の時代の予感を孕んでいた。
「さて、帰りますか」
勝が伸びをした。
「今日は美味い酒が飲めそうだ。……付き合いますかい、殿様?」
「よかろう。ただし、割り勘だぞ。余の口座は凍結されているのでな」
「けっ、強請る相手を間違えましたかね」
二人の笑い声が、駒場野の空に吸い込まれていった。 この四年後、容保は京都守護職として、勝は軍艦奉行として、それぞれ日本の運命を背負う立場となる。その背中合わせの共闘は、この日の泥と煙の中で、静かに、しかし確実に結ばれていたのである。




