第16話 禁門の変(前編) - 物理法則による精神の蹂躙
前段:『餓狼の行軍』 持たざる者たちの武装嘆願
元治元年(一八六四年)六月下旬 長州・山口
政治というものが、利害の調整機能であると定義するならば、この時期の長州藩はもはや政治的実体としての機能を喪失していた。
それは巨大な圧力釜であった。
昨年の下関戦争での惨めな敗北。八月十八日の政変による京からの追放。そして、幕府による執拗な経済封鎖と政治関与ルートの遮断。
出口を塞がれ、熱せられ続けた長州藩の蒸気圧は、物理法則の命ずるまま、最も脆い部分を吹き飛ばして外部へ噴出しようとしていた。その爆発の引き金を引いたのは、京からもたらされた一通の凶報であった。
六月五日、三条小橋・池田屋にて、新選組による御用改めあり。
吉田稔磨、闘死。宮部鼎蔵、自刃。その他、有為な志士多数が捕縛、あるいは斬殺さる。この「池田屋事件」の報は、山口の政庁に集まっていた長州人たちの脳髄を、悲しみではなく激怒によって沸騰させた。
彼らにとって、それは単なる同志の死ではない。東國の走狗である新選組が、西國の数少ない希望の芽を暴力によって摘み取ったという宣戦布告に他ならなかったからだ。
「もはや、猶予はならぬ! 君側の奸を除き、帝の御心を正すには、我らが兵を率いて京へ上るしかない!」
会議の席上、来島又兵衛は血走った目で絶叫した。
彼は、古き良き猪武者の典型であり、複雑怪奇な政治方程式を突撃という二文字で解こうとする単純化の天才であった。
「しかし、兵を率いての上洛は、幕府への反逆とみなされる恐れがある。慎重を期すべきでは」
慎重派の周布政之助が、消え入りそうな声で理性的な反論を試みたが、それは熱狂という名の暴風の前には、蝋燭の炎ほどの抵抗力も持たなかった。
「慎重だと? 慎重に座して死ぬのを待つのが、武士の道か! 東の豚どもは、南山の牛肉を食らい、我々が飢えている間に肥え太っているのだぞ!」
その言葉が、座の空気を決定づけた。そう、これは忠義の話ではない。生存競争の話なのだ。資源と富を独占する幕府(東國)に対し、搾取されるだけに貶められた歴史ある国々(西國)が突きつける、乾坤一擲の異議申し立て。彼らは藩主の冤罪を晴らすための嘆願という建前を一応は用意したが、その背嚢には嘆願書よりも遥かに多くの火薬と弾丸が詰め込まれていた。
かくして、長州藩は進発を決議した。家老・福原越後、国司信濃、そして益田右衛門介の三家老を指揮官とし、来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉といった過激派が参謀として脇を固める。総勢、二〇〇〇名とも三〇〇〇名とも言われる大軍勢である。
その行軍の光景は異様であった。彼らが身につけているのは、會津兵のような近代的な軍服ではない。色褪せた木綿の着物や、先祖伝来の古びた甲冑である。手にする武器も、ゲベール銃やミニエー銃が混在し、中には槍や薙刀を担ぐ者もいる。装備においては、彼らは幕府軍に比べるべくもなく貧弱であった。だが、その眼光の鋭さと、全身から発する殺気においては、彼らは世界最強の軍隊であったかもしれない。なぜなら彼らは、失うものが何もない「無敵の人」の集団だったからだ。
「目指すは京、天王山!」
瀬戸内海を渡り、大坂を経て淀川を遡る。その巨大な殺意の塊は、まるで吸い寄せられるように日本の心臓部へと向かっていった。
彼らは知らない。
その心臓部には、南山の冷徹な理性をインストールした「會津」という名の鋼鉄の防壁が、万全の態勢で待ち構えていることを。
これは嘆願という名の侵略であり、忠義という名のテロリズムであり、そして何より、近代化に乗り遅れた者たちが、システムそのものを破壊しようとする、悲しくも壮絶な「自爆攻撃(suicide attack)」の始まりであった
◆
元治元年(一八六四年)七月十九日 早朝
その日の朝、京の盆地は、腐熟した果実が自重で破裂する直前のような、粘着質な湿気と不吉な静寂に支配されていた。御所を守る九つの門。その内郭には、會津藩兵を中心とする幕府守護職軍と、薩摩藩兵、そして新選組が、蟻の這い出る隙間もないほど緻密な「火線」を構築していた。
この戦いの構図を古典的な「勤皇対佐幕」という政治的文脈だけで読み解くことは不可能である。軍事学的に見れば、これは「工業化された正規軍」対「前近代的な武装蜂起軍」の非対称戦争であり、社会学的に見れば「満たされた管理社会」対「飢えたアナーキズム」の衝突であった。
守る會津藩兵の主力は、フランス陸軍から派遣されたブリュネ大尉の指導により、欧州標準の戦列歩兵戦術を叩き込まれている。彼らが着用しているのは、伝統的な鎧兜ではなく、機動性を重視した紺色の洋式軍服と、革製の弾薬盒。 その手にあるのは、會津の兵器工廠でライセンス生産されたスペンサー七連発騎兵銃や、英国から輸入されたエンフィールド・ライフル、あるいはS&Wやコルトの拳銃である。彼らは、個人の武勇よりも「射撃規律」を重んじ、指揮官のホイッスル一つで弾幕を形成する、巨大な殺戮機械の部品となっていた。
一方、攻める長州藩を中心とした西國連合軍。彼らは「尊皇攘夷」を叫び、帝を「玉」として奪還すべく進軍してきた。だが、その実態は、飢餓と搾取に耐えかねた武装した暴徒に近い。
主力装備は、ナポレオン戦争時代の遺物である前装式のゲベール銃や、火縄銃、そして槍と日本刀。彼らの胃袋は空っぽだが、脳髄は「革命」という名の熱病で沸騰している。 貿易によって肥え太った東國(幕府)を殺し、その富を奪い、世直しをする。
その純粋で、それゆえに危険なエネルギーが、蛤御門の前で、幕府という巨大なシステムと正面衝突しようとしていた。
◆
同日 午前六時・蛤御門守備隊 會津藩陣地
「湿気させるな。火薬の状態を確認しておけ」
土嚢を積み上げた遮蔽物の裏で、會津藩の銃士隊長・山川大蔵が、部下たちに低く指示を飛ばした。
彼の部下の一人、まだ元服して間もない少年兵は、緊張で渇いた喉を潤すために、水筒の水を啜り、英国海軍仕様の堅パン(ハードタック)を齧っていた。會津の米で作った糒のブロックではない。長期保存のために二度焼きされ、歯が折れるほど硬くなった小麦の塊だ。これを、輸入された安価なブラジル産のコーヒー汁(練乳と砂糖をたっぷりと入れたもの)に浸して柔らかくし、胃に流し込む。
これが、近代兵士の燃料だ。 彼らの背嚢には、他にもフランス軍直伝の固形スープや、奥州産の乾燥野菜が詰め込まれている。 補給線も万全だ。彼らは空腹を気にすることなく、目の前の敵を殺すことだけに集中できる。
「敵影確認! 長州勢、烏丸通を北上中!」
伝令の声と同時に、地響きのような喚声が聞こえてきた。
「天誅!」
「帝を魔物の手から救い出せ!」
怒涛のように押し寄せる長州軍。その先頭を行くのは、来島又兵衛率いる決死隊だ。彼らは死を恐れていない。いや、死ぬことによってのみ、この地獄から解放されると信じているかのような、悲壮な突撃である。
「距離八〇〇。アームストロング砲、照準合わせ(ターゲッティング)!」
砲兵指揮官の声が後ろから響く。
御所の塀の内側に据えられたのは、會津と佐賀藩の技術陣の協力によってコピーされた、最新鋭の後装式ライフル砲「アームストロング砲」の六ポンド野砲だ。砲兵たちが、洗練された手つきで尾栓を開き、椎の実型の砲弾と装薬を装填する。全ては計算通り。弾道学という名の冷徹な物理法則が、戦場を支配する。
「撃てッ(ファイア)!」
ズドォォォン!!
空気が裂けるような轟音と共に、砲口から閃光が走る。発射された榴弾は、独特の風切り音を残して長州軍の頭上へと吸い込まれそして、密集隊形の真ん中で炸裂した。
ドガァァァン!!
土砂と、人体と、意志の破片が吹き飛ぶ。
着弾地点には、赤い霧が舞い上がった。
これまでの丸い砲弾が「転がって足を砕くボウリングの玉」だとすれば、このライフル砲弾は「空中で弾け飛ぶ鋼鉄の悪魔」だ。爆風と破片は、侍たちの鎧兜を紙のように引き裂き、名のある剣客も、無名の農兵も、等しく肉塊へと変えていく。
「怯むな! 敵は小勢だ、押し包め!」
硝煙の中から、血まみれの長州兵たちが飛び出してくる。彼らは仲間の屍を乗り越え、叫びながら突撃する。
距離が縮まる。二〇〇メートル、一〇〇メートル。旧来の戦なら、ここからが槍と刀の出番だ。だが、ここは近代戦の実験場である。
山川は叫ぶ。
「歩兵隊、一斉射撃! …撃て!」
タタタタタタッ!
スペンサー銃の乾いた発射音が、連続して響き渡る。レバーアクション機構を持つこのライフルは、熟練兵ならば一分間に一五発以上の弾丸を送り出すことができる。それは弾幕というよりは、鉛の壁であった。
突撃してきた長州兵たちが、見えない巨大な手で薙ぎ払われるように、次々と折り重なって倒れていく。抜刀し、あと数メートルまで迫った浪士の眉間を、正確無比なライフル弾が撃ち抜く。刀が空を切り、男は前のめりに倒れ込んだ。その手には、まだ士気を高めるために戦闘前に配給された握り飯の包み紙が握りしめられていた。
そこには、武士同士の魂のぶつかり合いも、名乗りの美学もない。あるのは質量×速度による一方的な蹂躙と、圧倒的な物量差による生命の焼却のみであった。
◆
同日 正午過ぎ
京の都心部は、この世のものとは思えぬ轟音と鉛色の硝煙によって、その優美な輪郭を無残に塗り潰されていた。蛤御門周辺での戦闘は、もはや合戦の体を成していなかった。それは、近代的な工業機械による虐殺あるいは駆除清掃作業に近い様相を呈していたからだ。
戦況をマクロな視点で俯瞰しよう。
攻撃側である長州藩を中心とした「西國連合軍(浪士隊を含む)」は、総勢約三千名。
彼らの戦略目標は、御所への強行突入による帝の確保(拉致)と、それによる「朝廷の権威」という政治的レバレッジの奪取にあった。これは物質的な劣勢を精神的な権威で覆そうとする、典型的な弱者の捨て身の戦術である。
彼らの主力装備は、旧式のゲベール銃や火縄銃、そして槍と日本刀。彼らの最大の武器は「飢餓と恨みと嫉妬の絶望による歪んだ高い士気」と「尊皇と攘夷という名の宗教的熱狂」であった。
対する防御側、幕府守護職・會津藩および薩摩藩、新選組ら「東國連合軍」は、総勢約三万名以上。しかし、決定的な差は兵数ではなく質と兵站にある。
御所を守る九門には、主としてフランスからもたらされた最新の軍事ドクトリンと北米の内戦の戦訓に基づき、アームストロング砲とスペンサー銃による「十字砲火」の網が敷かれていた。さらに彼らの背後には、淀川を経由して大坂湾の輸送船団から絶え間なく供給される弾薬と食糧の山があった。
結果は火を見るより明らかであった。
来島又兵衛率いる長州の決死隊は、勇猛果敢に突撃した。彼らは死を恐れず、銃弾の雨の中を駆け抜けようとした。だが、物理学は精神論を冷酷に拒絶した。
人体という有機物が、毎秒数百メートルで飛翔する鉛の塊と衝突した際、どのような損壊を引き起こすか。その実験が数千回繰り返されただけだ。
長州軍は、御所の塀に指一本触れることすら許されず、門前で死体の山を築くだけの肉壁と化したのである。
◆
同日 午後二時 鷹司邸・奥座敷
戦場の一角、公家・鷹司輔熙の邸宅。
かつては雅な歌会が催された広間も、今は血と脂の臭いが充満する野戦病院、いや、死体安置所と化していた。
久坂玄瑞は、左太ももを銃弾にえぐられ、血まみれになって床に膝をついていた。彼の周りには、共に夢を語り合った同志たちの亡骸が累々と横たわっている。
久坂の双眸は、まだ理性の光を失ってはいなかった。彼は優秀な医者であり、松下村塾きっての秀才であった。だからこそ彼はこの瞬間に至っても、己の敗北を冷静に、残酷なまでに正確に分析していた。
(……公家どもは、我らを見捨てたか)
彼は、嘆願のために鷹司邸に入ったが、屋敷の主はすでに逃亡し、帝への取次ぎを拒絶されていた。
無理もない。今の大方の公家にとって、長州は「貧乏神」でしかないのだ。東國からもたらされる莫大な献金、外国や南山の珍しい文物流入、そして何より「食える」という現実。
公家たちは、そして恐らくは帝ご自身も、古臭い精神論よりも豊かで安全な東國を選んだ。それは、為政者として極めて合理的な判断だ。だが、その合理性が、久坂にはたまらなく憎かった。
「…玄瑞、もう駄目だ…逃げろ」
瀕死の戦友が、うわ言のように呟く。久坂は、その手を取り脈を見た。もう助からない。彼の脳裏に、故郷の萩で待つ妻、文の顔が浮かんだ。
質素だが温かい家庭。本来なら自分はそこで町医者として、貧しい人々の脈を取り、薬を調合して一生を終えるはずだった。それがどうだ。なぜ自分は今、こうして京の都で、同胞の死体の上に座り、人を殺す算段をしているのか。
それは西國が飢えていたからだ。
貿易の利益独占による経済格差。肥料不足による凶作。インフレによる生活苦。もし幕府がもう少し富を分配していれば。もし、この国が二つに割れていなければ。自分は賊軍の将ではなく、ただの愛妻家の医者でいられたはずなのに。
「勝てぬな。精神だけでは、鉄と金には勝てぬ」
久坂は、自嘲気味に笑った。その笑みには狂気と諦念、そして世界への深い絶望が混じり合っていた。彼らが信じた攘夷精神は、アームストロング砲の一撃で物理的に粉砕された。彼らが頼みにした正義は、圧倒的な資本力の前では、哀れな負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
窓の外を見る。
會津の旗、薩摩の旗が、整然と隊列を組んで迫ってくる。その背後には、彼らを支援する貿易商人や西洋列強の冷ややかな視線が見え隠れする。
「だが、ただでは死なん。
我らをここまで追い詰めた、その豊かさという奴に、一太刀浴びせてやる」
久坂の瞳に暗い炎が宿った。
それは理性が弾け飛んだ瞬間の、静かなる狂気であった。勝てないなら、負け方を決める。 東國が維持するこの京の街を全て灰燼に帰すことで、歴史に怨嗟という名の爪痕を残すのだ。
これはテロリズムではない。彼に残された、唯一の弔い合戦であった。
「皆の者、腹を切れ! そして、魂を炎に変えて、この腐った都を浄化せよ!」
久坂は腹を切れる者に腹を切らせ、切る力も無い者の介錯を施し、自らも腹を切り、最期の力を振り絞り、屋敷の備蓄庫から運び出させた火薬樽に、松明を投げ込んだ。
ドォォォォォン!!
鷹司邸の中心部で爆発が起き、キノコ雲のような黒煙が噴き上がった。 その衝撃波は周囲の建物をなぎ倒し、無数の火の粉となって、折からの北西の風に乗り、京の市街地へと拡散していった。
世に言う「ドンドン焼け(鉄砲焼け)」の始まりである。
火は、乾燥しきった木と紙でできた古都を、またたく間に紅蓮の地獄へと変えた。だが、ここで歴史の皮肉が牙を剥いた。この火災を史上稀に見る大惨事へと拡大させた「燃料」である。
京の裕福な商家や問屋の蔵には、東國から輸入された大量の物資が備蓄されていた。
油問屋のみならず、灯り取り用に商家に備蓄されていた安価で燃えやすい精製鯨油。呉服問屋に山積みされていた、最新の紡績工場で織るための乾燥した南山綿花。そして、幕府軍のために運び込まれていた大量の硝石。本来、人々の生活を豊かにし、夜を照らすはずだった文明の利器たちが、皮肉にも最強の「焼夷剤」となり、火災旋風を巻き起こしたのである。
炎は生き物のように通りを走り、寺社を舐め尽くし、町家を飲み込んだ。
「熱い! 助けてくれ!」
逃げ惑う人々。焼け出された数千、数万の市民たち。彼らの家を焼いているのは、長州の放った火種だが、それをここまで大きく育てたのは、彼らが謳歌していた「東國からもたらされた豊かさ」そのものであった。
油が燃える黒い煙が真夏の空を覆い尽くしていく。その下で久坂玄瑞の肉体は炭化し、灰となって風に舞った。彼は最後に何を思っただろうか。
故郷の妻か、それとも燃え落ちる都の美しさか。
ただ一つ確かなことは、彼の放った呪いは、物理的な炎となって、東國の完全勝利というシナリオに、消えない火傷を負わせたということであった。
◆
同日 午後四時 東山・清水寺境内
その男は、地獄の釜の蓋が開いた光景を、天上界のような静けさ漂う清水の舞台から見下ろしていた。
南山生まれの博物学者、加納嘉兵衛である。
彼のここまでの道程は、まさに抱腹絶倒…いや、九死に一生の喜劇であった。
摂津の寒村を出た後、彼は淀川を上る定期船に乗り込み、優雅に京入りして旅の疲れを癒やす算段であった。しかし、伏見に着いた途端に目にしたのは、砲兵隊の移動と厳戒態勢。「これはまずい」と直感した彼は、正規の街道を避け、狐に化かされるような獣道を藪漕ぎし、泥と汗にまみれながら、ようやくこの東山の高台へと逃げ込んだ矢先であった。
彼の自慢の英国製ツイードのベストは藪で破れ、煤で汚れ、トレードマークの金縁の丸眼鏡には、眼下の都から舞い上がってきた黒い油煙がベットリとこびりついている。
嘉兵衛は眼鏡を外して懐紙で拭いながら、愛用のスキットルに残った最後のウィスキーを口に含んだ。アルコールの刺激が、麻痺しかけた脳を無理やり覚醒させる。
(……なんてザマだ。酷いにも程がある)
彼は、感情を極力排し、あくまで博物学者としての視点で、眼下に広がる現象を分析しようと試みた。だが、その惨状は、いかなる学術用語を用いても記述しきれるものではなかった。
京の町が、燃えているのではない。溶けているのだ。
長州藩邸から放たれた火は、折からの北西風に煽られ、巨大な龍となって市街地を舐め尽くしている。問題は、その「燃料」だ。本来、木と紙の家屋なら、火は赤く燃える。だが、今の京を包んでいる炎は、毒々しいほどに明るく、そして黒い煙を伴っている。
東國が誇る豊かさの象徴たちが、ここでは最悪の「焼夷剤」へと変貌していた。鯨油を含んだ炎は、水を掛けても消えるどころか、火のついた油となって水面を走り、川向こうの家屋へと延焼していく。
数百年守られてきた老舗の暖簾が、狩野派の襖絵が、千利休の茶杓が、南山の油によって瞬く間に炭化し、歴史の彼方へと消失していく。
逃げ惑う人々の悲鳴は、爆ぜる建物の轟音にかき消され、ただ熱風だけが、かつて都だった場所を吹き抜けていく。
これは「戦争」ではない。「焼却処分」だ。中世という時代が、近代という名の高温焼却炉の中で、断末魔を上げながら物理的に分解されていくプロセスだ。
「……おい、あんた。そんなとこに立っとると、火の粉で着物が燃えっど」
不意に背後から地響きのような、しかし不思議と温かみのある声が掛かった。嘉兵衛がゆっくりと振り返ると、そこには一人の巨人が立っていた。
巨岩のような体躯。薄汚れた大島紬の着流しに、大小をぞんざいに差した大柄な男。きちんと見れば大柄でこそあるが普通の人間である。しかし醸し出すそのオーラが彼を巨人と見誤らせた。
目は、猛禽類のように鋭いが、同時に全てを許容するような、底知れぬ愛嬌を湛えている。
西郷吉之助(隆盛)薩摩藩の軍賦役であり、この戦いの実質的な指揮官の一人であるはずの男が、供回りも連れず、まるで近所の銭湯へ行くような手ぶらの風情で、戦場の只中を歩いてきたのだ。
彼の肩には、燃えカスのような灰が雪のように積もっている。
「ご忠告、痛み入ります。ですが、ここが一番よく見える特等席ですので」
嘉兵衛が、英国仕込みの皮肉を込めて答えると、西郷は太い眉をピクリと動かし、ニカっと白い歯を見せて笑った。
「そげな煤けた顔で、よう言いますな。…変わりもんじゃ」
西郷は、遠慮会釈もなく嘉兵衛の隣——清水の舞台の欄干——に、どっかと腰を下ろした。ミシミシと、古びた床板が悲鳴を上げる。二人の男は並んで腰掛け、互いに紹介しあってから暫く眼下の紅蓮地獄を見下ろした。熱風が吹き上げ、二人の髪を揺らす。
「……で、どんげ見えもすか、先生。こん火事は」
西郷が、太い指で炎の海を指差して問うた。
嘉兵衛は、眼鏡を掛け直し、冷静に答えた。
「文明の断末魔、あるいは産声。どちらにせよ、あまりに高くつく焚き火ですな。あの黒い煙をごらんなさい。あれは南山の鯨油だ。幕府が民のために運び込んだ油が、民を焼いている。なんという皮肉でしょう」
「アイロニー、か。……違げえねえ」
西郷は腹を抱えて笑ったが、その目は笑っていなかった。彼の瞳には、燃え盛る御所と、逃げ惑う民の姿が赤く焼き付いていた。
「長州は負けもした。アームストロング砲の前じゃ、赤子んごて手も足も出んかった。 じゃっどん、先生。こん火事で、公儀(東國)も大火傷を負いもした。」
西郷の声が、一段低くなった。それは政治家としての冷徹な計算と、破壊者としての直感が入り混じった声だった。
「民ぁ見もした。南山の銭で買うた安心も、洋式の兵隊も、いざっちゅう時にゃ都ひとっ守いならん。 いや、守るどころか、そん豊かさが仇となっ、我が身を焼き殺るすち。 今日、こん瞬間、徳川の威光は灰になっしもした。」
嘉兵衛は、ハッとして横にいる巨漢を見上げた。この男は、戦火の向こうに、もっと遠い未来——徳川というシステムが崩壊した後の荒野を見ているのか。それとも、以前横浜でパークスと語り合っていたという「破壊の先にある創造」を幻視しているのか。
「先生。あんたのそん手帳さ、書き留めっおきやんせ」
西郷は立ち上がり、巨大な背中を嘉兵衛に向けた。
「『鐵つぁ錆ぶっが、恨みゃ錆びん』ち。 西國ん飢えと、今日ん火傷は、必ずや太か渦となっ、東さ逆流しっ来もすぞ」
西郷はそう言い残すと、一礼もせず、黒煙の漂う山道へと消えていった。まるで、最初からそこに存在しなかった幻影のように。
残された嘉兵衛は、再び炎を見つめた。摂津の寒村で啜った、あの塩気のない雑炊の味。江戸の牛鍋屋で嗅いだ、甘ったるい醤油と脂の匂い。その二つが、この京の都という胃袋の中で混ざり合い、強烈な拒絶反応を起こして、血と炎として嘔吐された。それが、この「禁門の変」の正体なのかもしれない。
東國のシステムは勝った。だが、西國の情念は死んでいない。むしろ、この業火の中で焼きなまされ、より鋭利な凶器へと変質したのだ。
嘉兵衛は、手帳を開く気にもなれず、スキットルを逆さにして最後の一滴を喉に流し込んだ。灰が、牡丹雪のように静かに降り積もっていく。彼の理知的な瞳に、深い憂鬱の影が落ちていた。その影は、これからこの国を覆うであろう、長い長い内戦の夜の始まりを告げていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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