第15話 東と西、食卓の断絶 - 牛鍋と祭りの社会学 - 其の二
【寄稿】『文明と胃袋』東西の食生活に見る国家の断層
筆者:博物学者・南山究理院 地学文理室 参与(研究員) 加納嘉兵衛
宛先:『東洋経済新報』編集部
初出掲載:『東洋経済新報』元治元年(一八六四年)九月号
三、毒と出汁の迷宮 — 大坂、食い倒れる都市の生存本能
箱根の山は雲に隠れ、私は東國の舌が痺れるような甘い醤油の味を記憶に残したまま、横濱港から定期蒸気船「浪華丸」に乗り込んだ。
太平洋の波濤を越え、紀伊半島を迂回して大坂湾へと滑り込む二泊三日の船旅。
安治川の河口に降り立った私を包み込んだのは、江戸のような甘い脂の匂いでも、規律正しい時計の音でもなかった。それは、昆布と鰹節が煮出される湿った湯気と、絶え間なく飛び交う大声の「値切り」の合唱であった。
大坂。天下の台所。私は荷物を船宿に放り込むや否や、空腹という最大級の羅針盤に従って、道頓堀の雑踏へと繰り出した。そこで目にした光景は、東國のそれとは生態系そのものが異なる「食の戦場」であった。
東國では、南山から輸入された牛肉や砂糖が、工場で加工され、均一な品質で労働者に配給されていた。
だが、ここ大坂では事情が違う。 幕府の貿易独占により、西國では正規ルートの南山産品—特に砂糖や良質な精肉—は高騰し、庶民の口には入りにくくなっている。
ならば、大坂の民は飢えているのか?
否。彼らは「無いなら無いで、工夫して食う」という、凄まじい食への執念を発揮していたのだ。
私が足の向くままに入ったのは、路地裏にある一軒の屋台。『てっちり』と書かれた赤提灯が、海風に揺れている。
フグ料理だ。
江戸では「当たれば死ぬ」として武士には禁忌とされ、あまり馴染みのない魚だが、ここでは大鍋を囲んで老若男女が群がっている。
「へい、らっしゃい! お客さん、よそから来なすったな? ……なら、肝は少し炙って塩で食いなさるか?」
ねじり鉢巻の店主が、包丁一本で手際よくフグを捌いていく。その手つきは、外科医の手術のように正確で、かつ舞踊のように美しい。猛毒のある部位を紙一重の精度で切り落とし、透き通るような身を皿に並べる。私は、出された「てっちり」を恐る恐る口に運んだ。
「……ッ!」
衝撃が走った。
甘くない。江戸の牛鍋のような、脳を麻痺させる暴力的な糖分の甘さは皆無だ。代わりに口の中を満たしたのは、昆布の深い滋味と、それを引き締める橙酢の鮮烈な酸味。そして、プリプリとした淡白な魚肉の奥から滲み出る、繊細かつ力強い生命の味だ。隣に座っていた商人が、私の驚いた顔を見てニヤリと笑った。
「どや、ええ味でっしゃろ。江戸の人は牛肉やら砂糖やらで肥えてはるらしいけど、あんな脂っこいもんばかり食うてたら、舌が馬鹿になりまっせ」
「なるほど。しかし、フグとは大胆ですな。毒が怖くありませんか?」
「ハハハ! 毒があるから美味いんやないか。お上の決めたお決まり通りに生きて、安全な缶詰食うてるだけが人生やおまへん。こうやって、職人の腕前を信じて、命懸けで美味いもん食う。これが大坂の『粋』っちゅうもんでっせ」
彼の言葉には、東國への強烈な皮肉と、反骨精神が込められていた。東國が「物量とシステム」で食うなら、西國は「技術と度胸」で食う。この屋台の熱気は、単なる食欲ではない。幕府という巨大な管理社会に対する、庶民レベルでの抵抗なのだ。
店を出て、腹ごなしに通りを歩いていると、今度は今までに嗅いだことのない、鼻腔を強く刺激する香ばしい匂いが漂ってきた。香辛料と酸味が混じり合い、鉄板の上で焦げる匂い。
屋台の前には人だかりができている。店主が焼いているのは、小麦粉を水で溶き、そこに刻んだネギや、スジ肉(精肉した後のクズ肉だ)、そして安価なコンニャクを混ぜたものであった。
人々はそれを「一銭焼き」と呼んで食べている。 小麦粉という安価な炭水化物を、知恵と、ある「黒い液体」で御馳走に変える魔法だ。
私は一枚買い求め、その黒い液体について店主に尋ねた。
「これは醤油ではないようだが、何だね?」
「ああ、こいつは『ソース』って言うんや。南山の向こう、イギリスやらの船が積んでくる調味料の真似事やな」
店主は、一升瓶に入ったドロリとした液体を誇らしげに見せた。ここには、興味深い経済の流れがある。
南山植民地を経由してくる英国船には、彼らが愛用する「ウスターソース」が積まれている。野菜や果実を煮込み、多種多様な香辛料と酢を混ぜて熟成させた、保存性の高い調味料だ。
本来、醤油と味噌の文化を持つ日本人には馴染みのない味である。事実、豊かな東國では「酸っぱくて薬臭い」と敬遠され、ほとんど流通しなかった。
だが、ここ大坂では違った。食糧難と物価高騰に喘ぐ西國では、新鮮な魚や良質な肉は手に入らない。手に入るのは、臭みのあるスジ肉やモツ、そして小麦粉だけだ。
この「ソース」に含まれるクローブやナツメグといった香辛料は、くず肉の臭みを消すのに最適であり、強烈な酸味と塩気は、砂糖なしでも十分に満足感を与えてくれる。
そこに目をつけた大坂の薬種問屋が、南山から安価に輸入される香辛料と、本来なら捨ててしまう野菜クズや酢を使って、見よう見まねで「和製ソース」の工業生産を始めたのである。いわば、これは欠乏から生まれた発明品であり、東國が捨てた味を拾い上げ、独自の食文化へと昇華させた「敗者復活の味」なのだ。
私は熱々の一銭焼きを頬張った。
「……はふ、はふ。……面白い」
決して上品な味ではない。だが、鼻に抜ける香辛料の刺激と、鉄板で焦げたソースの香りは、不思議と血をたぎらせるような高揚感をもたらす。
鳳梨何より、ここでは「定価」が存在しないかのように、客と店主の会話が弾んでいる。
「おっちゃん、これちょっと焦げてるやん。まけてーな」
「アホ言え、この焦げが美味いんやないか。しゃあないな、ネギ多めにしといたるわ」
江戸の牛鍋屋にあった「沈黙と時計」は、ここにはない。 あるのは、終わりなき「会話と交渉」だ。彼らは食事の時間さえも、コミュニケーションという娯楽に変えている。時間は金(Time is money)ではない。時間は人間関係(Time is relationship)なのだ。
私は、鉄板の上で踊る削り節を見つめながら、手帳に走り書きをした。
【西國の食卓は、貧しさを笑い飛ばす喜劇の舞台である】
東國の民は管理された豊かさの中で、飼い慣らされた家畜のように穏やかに肥えていく。 西國の民は、欠乏と混乱の中で、互いに肌を擦り合わせ、知恵を絞り、毒さえも食らい、異国の味さえも貪欲に取り込んで、野獣のように逞しく生き延びている。
学究的な視点で分析するならば、東國は「動物園」であり、西國は「ジャングル」と言えるかもしれない。 動物園の檻の中は安全で、餌も時間通りに出てくる。だが、ジャングルの獣たちは、常に腹を空かせ、傷つくリスクを負いながらも、自らの牙で獲物を狩る喜びに満ちている。
私は、口の端についたソースを拭いながら、不思議な高揚感を覚えた。 洗練された江戸の牛鍋も素晴らしかった。あの甘美な陶酔は忘れがたい。
だが、この雑多で、騒々しく、少し危険な香辛料の匂いがする大坂の夜も、また別種の魅力に溢れている。 人間としての「生命力」が刺激されるのは、間違いなくこちらの方だ。
「……さて、次はどこへ行こうか」
私の胃袋は、まだ未知なる刺激を求めている。 この街には、私がまだ知らない「生存の味がする料理」が、路地裏の闇の中に無数に潜んでいるに違いないのだから。
私は群衆の波に身を任せ、極彩色の色ガラスの提灯の海へと、深く潜っていった。 西の空には星が瞬いている。東國のガス灯にかき消されて見えなかった星々が、ここでは痛いほどに綺麗だった。
其の三に続く




