第14話 横濱グランドホテル - 海岸通り二〇番地の異界
元治元年(一八六四年)晩秋
横濱居留地 海岸通り二〇番地
極東の湿った海風が、完成したばかりの赤煉瓦の建物の窓を遠慮のないノックのように叩いていた。
「ヨコハマ・グランド・ホテル」
そこは、髷と二本差しの武士たちが支配するこの特異な産業国家において、重力や時間の流れが異なる異界であった。
一歩足を踏み入れれば、そこにはパリの裏通りにあるカフェや、ロンドンの会員制クラブと同じ空気が淀んでいる。磨き上げられたクリスタルのシャンデリアが揺れ、ボルドーから運ばれたヴィンテージ・ワインのルビー色がグラスの中で妖しく踊る。そして、最高級のハバナ葉巻の紫煙が、絹のカーテンのように部屋を覆い、世界の運命を決める密談の帳となっていた。ここでは、日本語は通じない。通貨は両ではなく、ポンド、フラン、そしてメキシコ銀貨だ。ここは日本という巨大な経済圏に突き刺さった、西洋列強の欲望という名の黄金の楔であった。
その二階、海を一望できる特別室のバルコニーに、一人の初老の男が立っていた。
レオン・ロッシュ フランス帝国 駐日特命全権公使
白髪交じりの髪をポマードで完璧に撫でつけ、パリの仕立て屋があつらえた上質なフロックコートを隙なく着こなす彼は、琥珀色の液体が入ったクリスタルグラスを傾けながら、眼下に広がる横濱港のパノラマを見下ろしていた。
そこには、異様な活気が渦巻いていた。
南山と本土を結ぶ幕府の黒塗り輸送船団と、それを護衛するフランス海軍の艦艇が林立するマストの森を作っている。最新式の蒸気クレーンが唸りを上げてコンテナを吊り上げ、半裸の沖仲仕たちが蟻のように動き回り、その周囲を洋装に帯刀という奇妙な出で立ちの役人たちが、帳簿を片手に走り回っている。石炭の煤と、羊毛の獣臭、そして潮の香りが混じり合ったその空気は、まさに「資本主義」の体臭そのものであった。
「見ろ、ジュール。美しい眺めだとは思わんか?」
ロッシュは背後に控える若き陸軍将校、ジュール・ブリュネ砲兵大尉に、グラス越しに歪んだ風景を見せながら語りかけた。
「あの蒸気船の吐き出す煤煙、港に山と積まれた綿花と石炭、そしてあの不快なほど騒々しい蒸気クレーンの駆動音。あれこそが、我々がこの極東の島国に見出した価値そのものだ」
ブリュネは、軍人らしい直立不動の姿勢を崩さず、しかしその知的な瞳には、眼下の光景に対する純粋な驚嘆と、ある種の畏敬の念が宿っていた。
「閣下のおっしゃる通りです。しかし、いつ見てもシュールレアリスム(超現実主義)の絵画を見るような気分にさせられます」
ブリュネは港を行き交う武士たちを指差した。
「彼らを見てください。腰には中世の騎士のような二本の刀を差し、髪は奇妙な髷を結っている。外見は封建時代の遺物そのものです。だというのに、彼らは蒸気機関の設計図を正確に読み解き、ロンドンの株式仲買人も舌を巻くような複式簿記で南山との交易を管理している。清国やインドとは訳が違います。彼らは我々に教えられるまでもなく、自力で産業革命の只中にいるのです」
「ふふ、そこだよ。そこが重要なのだ」
ロッシュは満足げに頷き、葉巻の先端を真鍮の灰皿に押し付けた。
「彼らは未開なのではない。異質なのだよ。
一七世紀から南洋へ進出し、独自の通商網を築き上げてきた彼らは、西洋とは異なるルートで近代化に到達した。
徳川幕府という支配層は、驚くほど高度な官僚機構を持っていのだよ。
彼らには読み書きの能力があり、高度な数学への理解があり、そして何より組織への限りない忠誠(滅私奉公)という、資本主義にとって得難い美徳を持ち得ている」
ロッシュは手すりに肘をつき、まるで品定めをするように港を見渡した。
「徳川慶喜という男、そして會津の松平容保。
彼らに会って確信したよ。彼らはもはや、我々がよく知る中世的なアジアの封建領主ではない。彼らは南山という巨大なリソースと、二〇〇年の平和で培った行政機構を融合させ、この国を急速に『近代的な複合企業』へと変貌させつつある」
「コングロマリット、ですか」
「そうだ。『株式会社・徳川幕府』だ。武士道という社訓で統制された、世界最大級の武装商社だよ。
彼らは『計算』ができる。感情ではなく、損益分岐点で動くリアリストだ。だからこそ我々は彼らに投資するのだ」
ロッシュの戦略は、外交官というよりは、冷徹な投資銀行家のそれに近かった。彼は日本を「主権国家」としてではなく、巨大で有望な「投資案件」として見ていた。南山の金山、そして入安島から産出される希少な鉱物。さらに、勤勉で手先の器用な労働力と、すでに整備された物流網。これらを、幕府という既存の強力な管理システムを通じて吸い上げ、安定的にフランス産業界へ供給させる。そのためなら軍事顧問団を派遣し、最新鋭のアームストロング砲を与え、横須賀に東洋一の製鉄所を作ってやることも厭わない。
「慈善事業ではありませんよ、ジュール。これは設備投資だ。…優秀だが資金不足に悩む下請け企業に最新の工作機械をリースし、経営権の一部を握るようなものだ」
ブリュネは、公使の露骨な物言いに苦笑しながらも、その透徹した視点に舌を巻いた。 この老外交官にとって、軍事支援も、技術供与も、すべてはバランスシート上の数字に過ぎないのだ。
「しかし閣下。ライバル企業が黙っていないでしょう」
ブリュネが、あえて懸念を口にした。
「ヴィクトリア女王陛下の忠実な番犬たちです。彼らは、幕府による南山貿易の独占をひどく嫌っています。自由貿易という美しい旗印を掲げて、この閉鎖的な独占市場をこじ開けようと、西國の不満分子、いわゆる『攘夷派』と呼ばれる反幕府勢力に接近しているとの情報があります」
「ああ、その通りだ。皮肉な話だと思わんか? 本来なら西洋文明を拒絶しているはずの『攘夷派』に、世界で最も進んだ自由貿易の国が武器を売るのだからな」
ロッシュは、グラスに残ったワインを一息に飲み干した。その目には、長年の外交戦で培われた、油断ならない光が宿っていた。
「英国は、西國の『飢え』と『反幕府感情』を利用して、徳川の独占体制を破壊する気だ。…だが、我々フランスの既得権益を、そう易々と指をくわえて渡すわけにはいかん。この国のステーキの、一番脂の乗った部位(南山と東國)は、すでに我々の皿の上にあるのだからな」
ロッシュが懐中時計を取り出し、その蓋を開いた瞬間、重厚なマホガニーのドアがノックされた。ボーイが恭しく、しかし緊張した面持ちで告げた。
「閣下。英国公使、ハリー・パークス卿がお見えです」
ロッシュは、ブリュネに向かって片目を閉じてみせた。
「さあ、ショータイムだ、ジュール。極東のチェス盤を挟んで、獰猛なブルドッグとダンスを踊るとしようか」
◆
重厚なマホガニーの扉が開かれると同時に、部屋の空気が一変した。それまでの、ボルドーワインの香りが漂う優雅な外交サロンの空気は霧散し、代わりに、荒々しい北海の潮風と、硝煙、そしてスコッチウイスキーの刺激的な匂いが混じり合ったような、強烈なプレッシャーが流れ込んできたのである。
入ってきた男は、ロッシュとは対照的な、攻撃的なオーラを全身から放射していた。
サー・ハリー・スミス・パークス
三十六歳という若さで、英国駐日公使に抜擢された男。赤みがかった金髪、獲物を探す猛禽類のように鋭い眼光、そして癇癪持ちであることを隠そうともしない忙しない身振り。彼は中国(清)でのアロー戦争において、敵軍に捕らえられ拷問を受けながらも屈しなかったという伝説的な経歴を持つ。
彼は優雅な外交官ではない。大英帝国の国益を最大化するために、どんな汚い手でも使う「武装した交渉人」であった。
「やあ、ロッシュ公使。相変わらず、ここだけはヴェルサイユ宮殿の分室のようだ」
パークスは、ロッシュの差し出した手を力強く、いささか強すぎるほどに握り返すと、勧められた革張りの安楽椅子に遠慮会釈もなくどっかと腰を下ろした。
「それにしても、横濱の空気はパリよりも快適かね? 私はどうも、この湿気とカビの臭いが肌に合わん。ロンドン塔の地下牢を思い出すよ」
パークスは皮肉な笑みを浮かべ、ボーイが盆に乗せてきた酒の種類を一瞥すると、迷わず琥珀色の液体——シングルモルトのスコッチが入ったデキャンタを掴み取った。
「悪くありませんよ、サー・ハリー。ここには『秩序』がある。少なくとも、将軍の鉄の規律が支配する東日本においてはね」
ロッシュは、パークスの無作法を気にする素振りも見せず、優雅にグラスを掲げて乾杯の仕草をした。それは、熟練の闘牛士が、荒ぶる雄牛を前にマントを翻すような、静かな挑発であった。
「秩序、か」
パークスは鼻を鳴らし、スコッチをストレートで煽った。喉を焼くアルコールの刺激に、満足げに顔をしかめる。
「貴国の言う秩序とは、『独占』の、いささか上品な言い換えではないのかね?」
パークスの目が、獲物を狙うハンターの色に変わった。
「単刀直入に言おう、ロッシュ。我々英国は、徳川幕府のやり方に我慢ならんのだ。彼らは南山との貿易ルートを独占し、不当に高い関税障壁を築き、我々英国商人の自由な参入を阻んでいる。
ジャーディン・マセソン商会の連中が泣きついてきているよ。『日本の役人は、まるで訓練された番犬だ。賄賂も通じなければ、脅しも通じない』とな」
パークスは、忌々しそうに葉巻の先を噛み切った。
彼が苛立っているのは、日本が未開だからではない。逆だ。 清国やインドでは、現地の役人は腐敗しており、金や阿片でどうにでもなった。しかし、日本の、特に幕府のテクノクラートたちは違う。彼らは「株式会社・徳川幕府」という組織の利益のために動き、西洋の商法を熟知した上で、英国商人を法的に締め出しているのだ。
「おまけにだ。貴国が裏で糸を引いて、横須賀に東洋一の造船所と製鉄所を作り、幕府軍を強化しているそうじゃないか。
あれは、どういうつもりだ? まるで、日本という巨大な市場を、フランスの私有地にするつもりかのように見えるが」
パークスの指摘は鋭かった。
英国にとって、極東におけるフランスの軍事的プレゼンスの拡大は、インド航路や中国市場への脅威となり得る。
「人聞きが悪いですね、サー・ハリー。我々は、この国の正当な政府からの要請に基づき、近代化の支援をしているだけですよ」
ロッシュは、揺るぎない微笑みで返した。
「徳川政権は、この国を二百年以上も安定して統治してきた実績がある。彼らを支え、秩序ある近代化を促すことこそが、長期的には欧州全体の利益になるはずだ。無責任に不平分子へ武器を密輸し、内戦を煽って火事場泥棒を働こうとしている、どこかの紳士の国とは違ってね」
ロッシュの鋭いカウンターパンチに、パークスの目が細められ、部屋の温度が数度下がったように感じられた。下関戦争の後、英国外交の方針は大きく転換していた。表向きは幕府を支持しつつも、裏では長州や薩摩といった「反幕府勢力」との接触を深めていることは、公然の秘密であった。
「……言葉を慎みたまえ、ロッシュ」
パークスは低い声で唸った。
「我々は『火事場泥棒』ではない。……市場開放の伝道師だ」
彼は立ち上がり、窓の外、活気に満ちた横濱港を指差した。
「パーマストン首相もおっしゃっている。『貿易は平和の母であり、繁栄の父である』とな。徳川の閉鎖的なシステムは、世界の物流を阻害する血栓だ。もし、その血栓を取り除くために、多少の『外科手術(革命)』が必要だとしても、それは歴史の必然というものだ」
それは、アヘン戦争で清国をこじ開けた大英帝国の、冷徹で暴力的なロジックであった。彼らにとっての「正義」とは、王室の権威でも宗教でもない。「自由貿易」という名の、絶対的な経済的利益なのである。
「それに、だ。貴国が支援している幕府という岩盤は、貴方が思っているほど一枚岩ではないかもしれんぞ? グラバーが言っていたよ。『西國の侍たちは飢えている。だが、彼らの目は死んでいない』とな」
パークスは、ニヤリと笑った。それは、キツネ狩りを楽しむ英国紳士の、残酷で愉快な笑顔であった。
「我々は慈善事業家ではない。だが、巨大な岩盤を砕くために、彼らのような使い勝手のいい『爆薬』を利用するのは、ビジネスの常道だと思わんかね?」
「ロッシュ公使。外交辞令は抜きにして、単刀直入に言おう」
パークスは、琥珀色の液体が揺れるグラスを、重々しくテーブルに置いた。カツン、という硬質な音が、部屋の空気を凍らせた。
「この国は、すでに二つに割れているのだよ。物理的にも、経済的にも、そして精神的にもな」
パークスは立ち上がり、テーブルの上に広げられた日本地図に歩み寄った。
彼の手には、いつの間にか葉巻が握られている。彼はその先端で、日本列島の中央、大坂から京、そして関ヶ原のラインを無造作になぞった。
「見たまえ。地図の右側——東日本は、徳川という巨大企業が支配している。彼らは南山のリソースを独占し、貴国の技術支援で工業化を推し進め、アジアでも稀に見る富める管理社会を築き上げつつある。…ここまでは認めよう。貴国の投資は成功だ」
パークスの指が、地図の左側——西日本へと滑る。長州、薩摩、土佐、肥後。
「だが、西は違う。彼らは飢えている」
パークスの声に、低い唸りのような響きが混じった。
「東國の繁栄から締め出され、南山の富を吸い上げられるだけの搾取構造。彼ら西國の雄藩が抱えているのは、単なる政治的な不満ではない。生存本能だ。
彼らは市場を求め、自由を求め、そして何より、自分たちの喉元を締め上げる『幕府という独占資本の打倒』を求めている。
このマグマのようなエネルギーは、もはや誰にも止められんよ」
「だから、大英帝国はその『飢えた狼』たちに餌を与え、首輪を外して、幕府を襲わせるのですか? 相変わらず効率的で野蛮なやり方だ」
ロッシュが静かに、しかし鋭く指摘すると、パークスは心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
「人聞きが悪いな、ムッシュ・ロッシュ。
『ビジネス』と言ってくれたまえ」
パークスは冷然と言い放った。その瞳にはインドや清国をねじ伏せてきた、大英帝国の冷徹な商魂が宿っていた。
「我々が必要としているのは、特定の政権の安定ではない。開かれた市場だ。
徳川の閉鎖的な独占システム(モノポリー)は、世界経済の血流を阻害する血栓だ。南山の金も、資源も、本来なら世界市場で自由に取引されるべきだ」
彼は葉巻の煙を吐き出し、その煙の向こうからロッシュを睨み据えた。
「アダム・スミスも言っているだろう? 『見えざる手』が経済を回すと。もし、西國の狼たちが連合し、あの堅苦しい徳川の城門を破壊して、より開放的な新政府を作るというなら、我々はそれを歓迎する。
たとえその過程で多少の血が流れようとも、それが自由貿易の神髄であり、歴史の必然というものだ」
「なるほど。貴公は、日本を壊すつもりか」
ロッシュは静かに問うた。その声には破壊者に対する軽蔑と、その破壊力の凄まじさを知る者ゆえの警戒が含まれていた。
「壊すのではない。開放するのだよ。
こじ開けてでもな」
パークスは再びバルコニーへと歩み出た。
夕闇が迫る横濱港。
そこには、フランスの三色旗を掲げた軍艦と、ユニオンジャックを掲げた英国軍艦が、互いに砲門を向け合うかのように停泊している。
「ロッシュ公使。互いに大人だ。認めようじゃないか。我々はすでに、この極東の島国を切り分けているのだよ。テーブルの上のステーキのようにね」
パークスの言葉は、残酷な真実を突いていた。
ロッシュは「東(幕府)」に賭けた。安定した統治機構と、南山利権からの確実な配当を求めて。
パークスは「西(雄藩)」に賭けた。市場開放と、政権転覆によって生まれる新たな巨大な商機を求めて。
日本という国は、もはや独立国家ではない。彼ら二人の代理戦争の盤面となりつつあった。
「ステーキ、ですか」
ロッシュは苦笑し、手の中のグラスを軽く揺らした。
「いいでしょう、サー・ハリー。貴公の食欲には敬意を表します。しかし、お忘れなく。このステーキの『東側』は、貴公が清国やインドで食べてきた肉よりも、遥かに筋が硬い。下手にナイフを入れれば、刃の方が折れるかもしれませんよ」
それは、幕府陸軍と會津藩の精強さ、そしてフランスが供与した軍事力の高さを暗に示した警告であった。
「ハッ! ご心配なく。シェフィールドの鋼鉄で作られた英国製のナイフは、決して折れんよ」
パークスは不敵に笑い、帽子を被った。
「精々、貴国の可愛らしい『将軍』が、革命の炎でウェルダンに焼き尽くされないよう、パリの教会で祈っておくことだ」
彼はドアノブに手をかけ、最後に一度だけ振り返った。
「では、失礼する。長崎で、私の友人が待っているのでね。彼らはとても『買い物好き』な男たちだよ」
友人の名は、おそらくトーマス・グラバー、そして坂本龍馬であろう。
パークスは、嵐のような足取りで去っていった。
部屋には、重苦しい沈黙と、スコッチと葉巻の残り香だけが漂っていた。
ブリュネ大尉が硬い表情で口を開いた。
「閣下。英国は本気です。単なる脅しではありません。彼らは西國を組織的に焚きつけ、この国に大規模な内戦を引き起こすつもりです」
「ああ。わかっている」
ロッシュは、空になったグラスをテーブルに置き、深く息を吐いた。
そこには、かつて自分が夢見た「平和的で安定した親仏政権による近代化」という幻影が、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだった。現実はもっと過酷で、もっと血生臭い方向へと、雪崩のように転がり始めている。
「ジュール。急げ。横須賀の製鉄所の稼働を早めろ。そして軍事顧問団の訓練カリキュラムを加速させるのだ」
ロッシュの声には、初めて焦燥の色が混じった。それは外交官の顔ではなく、戦場指揮官の顔であった。
「戦争だ。優雅な外交の季節は終わった。これからは、鉄と血と金がものを言う季節になる。
我々の『会社(幕府)』と、フランスの利益を守るために、最強の番犬を育て上げるのだ。英国の狼どもが手を出せないほどの、鋼鉄の番犬をな」
「ウィ、ムッシュ(御意)。直ちに手配します」
ブリュネは踵を鳴らして敬礼し、軍靴の音を響かせて部屋を出て行った。
残されたロッシュは、再びバルコニーに出た。
横濱の海は、深い夕闇に沈みつつあった。
ガス灯が一つ、また一つと、青白い光と共に灯り始める。その人工的な光は、近代文明の輝きのようでもあり、これから日本全土を焼き尽くす戦火の予兆のようでもあった。
二人のフランス人と、一人のイギリス人。
彼らがこの夜、横濱の一室で交わした短い会話によって、日本の分断は決定的なものとなった。
極東のチェス盤の上で、駒たちが、徳川慶喜も、松平容保も、西郷隆盛も、高杉晋作も、自らの意思とは無関係に、巨大な国際政治の力学によって、破滅的な衝突コースへと動かされようとしていた。
横濱グランドホテルの夜は更けていく。
だが、日本の夜明けは、まだ遥か遠く、分厚い硝煙と、血の雨の向こう側にあった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




