第13話 池田屋事件 - 新撰組と回転式拳銃(リボルバー)
元治元年(一八六四年)六月五日 亥の刻(午後十時)
千年の都・京の夏は、単なる季節ではない。それは物理的な質量を伴った暴力として、都市全体を窒息させにかかる。
三方を山に囲まれた盆地特有の、湿気をたっぷりと孕んだ熱気は、夜の闇が訪れても冷めることを知らない。
鴨川の淀みから立ち上るドブと藻の腐臭。祇園祭の準備に浮足立つ群衆の発酵した汗と体臭。そして、町家の軒先で燃える安物の菜種油と、南山から輸入された高級な鯨油が燃焼する際に放つ、独特の甘ったるい煤の臭い。
それら全てが渾然一体となり、京という巨大な蒸し風呂の中で、人々の理性をじわじわと蒸発させていた。
三条小橋 旅籠「池田屋」
間口の狭い京町家特有の造りを持つこの建物の二階、通りに面していない奥まった部屋では、長州藩士や肥後、土佐から流れてきた過激派浪士たち二十数名が、酒と男臭さを充満させながら、熱病に浮かされたような低い声で謀議を交わしていた。
彼らの中心に座すのは、肥後の宮部鼎蔵。
その目は充血し焦点が定まっていない。過労と焦燥、そして「革命」という麻薬に脳髄まで浸食された者の目だ。
「……風だ。風の強い日を選ぶのだ」
宮部が地図の上に拳を叩きつける。
「御所の風上に火を放ち、京を紅蓮の炎で包む。その混乱に乗じて中川宮を幽閉し、松平容保の首を獲る。そして帝を長州へお連れするのだ」
彼らの計画—「古都放火計画」は、壮大であり、同時にあまりにも稚拙で短絡的だった。
彼らは信じていた。火を放てば、世の中が変わると。炎が全てを浄化し、自分たちの鬱屈した現状を打破してくれると。
だが、彼らは致命的な見落としをしていた。自分たちが密談しているこの旅籠の周囲、三条通から木屋町通に至る街区が、すでに近代的な包囲網によって、呼吸すら許さぬほど完璧に封鎖されていることを。
通りの闇に溶け込むように、一団の男たちが息を潜めていた。
新選組
だが、その姿は、講談や錦絵で描かれるような浅葱色のダンダラ羽織に日本刀という、牧歌的で情緒的なものではない。彼らが纏っているのは、會津藩の軍事顧問団が設計した、市街地近接戦闘(CQB)に特化した実戦装備である。
局長・近藤勇は、旅籠の入り口を見据えながら、愛刀・長曽祢虎徹の鯉口を切った。
その腰の反対側には、革製のホルスターに収まった重厚な鉄の塊—南山工廠でライセンス生産したものを輸入した、S&W(スミス&ウェッソン)モデル2・アーミー、三二口径六連発回転式拳銃が吊るされている。
隊士たちの多くは、一見すると羽織袴の武士だが、その下には強靭な鎖帷子と、急所を保護する革製の防具を装着していた。
彼らの手にあるのは刀だけではない。狭い屋内での取り回しを考慮した短めの打刀、警棒代わりに使用する鉄扇、そして捕縛用の麻縄と手錠。そして国産拳銃のコルト・エドがサイドホルスターに収められていた。
彼らは「サムライ」というよりは、會津藩軍事奉行の指揮下で組織化された、京師市中取締における、高度に訓練された即応遊撃隊であった。
「……會津の応援部隊は?」
近藤が低い声で問うと、副長・土方歳三が冷ややかな声で答えた。
「すでに配置についている。この池田屋を中心に、北は三条通、南は木屋町通まで、會津の歩兵小隊が二重の包囲線を敷いた。鼠一匹、逃がしはしねえよ」
會津藩兵は新選組の突入を支援するため、周囲の道路を完全に封鎖していた。彼らは長槍ではなくエンフィールド銃とスペンサー銃を構え、窓から飛び出してくる者がいれば即座に射殺する態勢を整えている。 これは「討ち入り」ではない。「駆除」だ。 都市という生体に巣食った病原菌を、外科手術のように切除する、冷徹な軍事行動なのだ。
「……時は来た」
近藤が顎で合図を送ると、一番隊組長・沖田総司が無邪気とも取れる薄い笑みを浮かべ、先頭に立った。
「御用改めである!」
近藤の裂帛の気合いと共に、池田屋の格子戸が物理的な衝撃で粉砕された。土足のまま踏み込む黒いブーツの音。
一階にいた番頭が悲鳴を上げる間もなく、隊士たちによって壁際に押し付けられ、猿轡を噛ませられる。
「新選組だ! 刃向かう者は容赦なく斬り捨てる!」
二階への階段
その狭い垂直の通路こそが、生と死を分かつ「地獄の回廊」となる。騒ぎを聞きつけた浪士たちが、二階からドタドタと駆け下りてくる。
「何事だ!」
「新選組かッ!」
抜刀する音。怒号。そして最初の金属音が響く。
先頭を切った沖田総司の剣は速すぎた。
階段の上から振り下ろされた浪士の刃を、最小限の動きで受け流すと同時に、その切っ先は相手の喉仏を正確に貫通していた。鮮血が噴水のように舞い、階段を濡らす。
死体が転がり落ちるのを待たずに、沖田はその背中を踏み台にして、一気に二階へと駆け上がった。それは剣術というよりは、物理法則を無視した軽業に近い。
続いて飛び込んだのは、二番隊組長・永倉新八
彼は野獣のような咆哮を上げ、長刀を振るうスペースのない踊り場で、体当たりを敢行した。
「どけぇッ!」
鉢金で守られた額で、敵の顔面に強烈な頭突きを見舞う。鼻骨が砕ける嫌な音が響き、怯んだ隙に、永倉は脇差を逆手に持ち、相手の脇腹から心臓へと刃を突き上げた。
泥臭い。だが、極めて効率的だ。
彼は知っている。この狭く、暗く、障害物だらけの屋内戦闘においては、道場の綺麗な型など、死出の旅への装束に過ぎないことを。
そして、三番隊組長・斎藤一
彼は、喧騒の只中にありながら、一人だけ静寂の中にいるかのように、二階の廊下を進んでいた。彼の目は敵の顔を見ていない。敵の手元とその背後にある影を見ている。
薄暗い行灯の光の中、奥の部屋から飛び出してきた浪士の一人が、懐に手を入れた。その動作の違和感。刀を抜く動きではない。もっと小さな、何かを取り出す動き。
(……来るか)
斎藤の脳内クロックが加速する。
浪士の手から現れたのは、黒く、鈍く光る鉄の塊、 回転式拳銃。
撃鉄を起こす「カチリ」という金属音が心臓の鼓動よりも大きく響いた瞬間、斎藤は左利きの構えから鞭のように刀を走らせた。
抜刀と斬撃が同時。不可視の刃が銃口が火を噴くよりも早く、浪士の手首を空間ごと断ち切った。
「ぎゃあぁぁっ!」
手首と共に銃が床に落ち、衝撃で暴発する。
ズドン!
乾いた銃声が木造の建物を激しく震わせ、火薬の白煙が充満する。斎藤は表情一つ変えず、悲鳴を上げてのたうち回る男の首を返しの刃で刎ね飛ばした。
彼は血の海に沈んだその銃を、冷ややかな目で見下ろした。拾い上げたその銃身には、皮肉な刻印が刻まれていた。
『NANZAN ARMS FACTORY(南山兵器工廠)』
南山の東國資本の工廠で作られ、西國へ横流しされ、そして今、京の治安を守る者の命を奪おうとした鉄の塊。
斎藤の細い目が、さらに細められた。この戦いは、正義と悪の戦いではない。巨大な経済の歯車が生み出した、鉄と火薬の在庫処分の場なのだ。池田屋の闇の中で、文明の灯火(アーク灯)よりも眩しく、そして冷たい真実が彼の網膜を灼いた。
(おかしい。なぜ、日々の食い扶持にも困る貧乏浪士が、東國の正規軍でさえ配備が始まったばかりの最新モデルを持っている?)
斎藤一の脳裏にこびりついたその疑念は、戦闘終了の合図と共に、確信めいた冷たさへと変わっていった。
◆
戦いは、一時間ほどで終わった。
池田屋の狭い空間は、切り裂かれた肉体が放つ鉄錆のような血の臭いと、腸から漏れ出る汚物の臭気、そして高性能火薬が燃焼した後に残る、鼻を刺すような硝酸の刺激臭によって支配されていた。
「凱旋だ! 逆賊を討ち取ったぞ! これで京の都は安泰だ!」
近藤勇は、返り血で染まった顔を紅潮させ、興奮気味に隊士たちを鼓舞していた。その姿は物語の中の英雄そのものであった。彼は信じているのだ。自分の剣が正義を行い、悪を滅ぼしたのだと。その純粋すぎる武士道への傾倒はある種の痛々しさすら伴っていた。
だが、二番隊組長の永倉新八と、三番隊組長の斎藤一は、その熱狂の輪には加わらなかった。
彼らは、まるで祭りのあとの清掃業者のような醒めた足取りで、中庭へと向かった。そこには捕縛された浪士たちから押収された武器や所持品が、無造作に積み上げられている。
長州藩邸から持ち出されたと思われる「京都市中焼き討ち計画」の地図や血判状。それらの政治的な証拠品の隣に、場違いに新しい数個の木箱が置かれていた。
南山杉で作られた頑丈な梱包用木箱
永倉が愛刀の切っ先でその蓋を乱暴にこじ開けると、中にはクッション材としての乾燥した藁が詰め込まれており、その奥に油紙に包まれた鈍色の金属塊が整然と並んでいた。
コルト・ネイビー、レミントン・ニューモデル、そして南山兵器工廠がライセンス生産したS&Wのコピーモデル。どれもまだ工場の油の匂いが残る、完全な新品である。
「…おいおい、斎藤。こいつは傑作だぜ」
永倉が、手ぬぐいで顔の血を拭いながら、乾いた、そして少しばかり自嘲的な声で言った。彼は箱の中から一丁のリボルバーを取り出し、慣れた手つきでハンマーをハーフコックし、シリンダーを回した。
チリ、チリ、チリ…
精緻な加工が施された部品同士が噛み合う、時計仕掛けのように冷たく、美しい音がした。
「このシリンダーの回転音を聞いてみな。…ガタツキ一つねえ。俺たちが先月、横濱の商館から幹部用として、なけなしの予算で仕入れた奴と同じ型だ。いや、製造番号を見る限り、こっちの方が新しいかもしれん」
「皮肉な話だな」
斎藤は、永倉の手元にある銃を一瞥し、そして視線を木箱の側面へと移した。そこには、焼印によって焦げ茶色の刻印が押されていた。
『E.I.C. - YOKOHAMA(横濱・東インド商会)』
東國の物流を一手に担う、幕府御用達の巨大商社の印である。
「横流し、だな」
斎藤は短く吐き捨てた。その声には、怒りという感情は希薄で、代わりに、腐りきった世の理に対する、諦念に近い冷ややかな響きがあった。
「永倉、お前も噂は聞いているだろう。横濱の倉庫には、南山から届いた武器が山のように積み上がっているが、その在庫管理はザルだと」
「ああ。帳簿上は破損や紛失として処理された銃が、闇ルートで西へ流れる。東國の商人が輸入し、その一部が裏口から抜け出して、我々の敵である西國の過激派の手に渡る」
永倉は、リボルバーの銃口を月に向けて、片目を瞑って狙いをつける真似をした。
「商人は武器を売って儲ける。浪士はその武器で『天誅』を行う。そして俺たち新選組は、その銃で武装した浪士と殺し合いをさせられる。俺たちが浪士を斬れば斬るほど弾薬が消費され、また商人が儲かるって寸法か」
「ハッ! 俺たちは、御公儀の庭を守る忠実な番犬だと思っていたが、どうやら飼い主は一人じゃねえらしいな」
永倉は、忌々しそうに足元の血溜まりに唾を吐いた。 新選組は、京の治安を守るために命を懸けている。彼らは「武士」になりたかった。刀一本で身を立て、忠義を尽くす古き良き時代の武士に。
だが、現実はどうだ。
その「敵」を武装させているのは、他ならぬ自分たちの味方—東國の資本家や、腐敗した幕府の官僚たちかもしれないのだ。
金には色がない。イデオロギーもない。
南山の工場で作られた11ミリ鉛弾は、佐幕派の心臓も、倒幕派の心臓も、物理的には等しく貫通する。そこにあるのは、思想の対立などという高尚なものではなく、武器という商品を効率よく消費させるための、巨大で悪質な「マッチポンプ(自作自演)」の構造だけだ。
「斎藤ちゃんよ。近藤局長は、このことを?」
「知らぬが仏、というやつだろう」
斎藤は、懐から手帳を取り出し、焼印の番号を控えながら答えた。
「あの人は、純粋すぎる。武士道という美しい物語の中で生きている。…我々の敵を、我々の味方が金儲けのために武装させているなどという、この薄汚い資本主義の裏側を見せたら、あの人の精神は壊れるか、発狂しかねん」
「違げえねえ。局長には、せいぜい逆賊の大陰謀を阻止したという美酒に酔っていてもらおうじゃねえか。汚れ仕事は、俺たちが知っていればいい」
永倉は肩をすくめ、リボルバーを木箱に戻すと、乱暴に蓋を閉じた。 バンッ、という乾いた音が終わりの合図のように響いた。
その時、表通りから地響きのような歓声と、規律正しい軍靴の音が聞こえてきた。
「會津中将様のお成りだ!」
「新選組、天晴れなり!」
會津藩の正規軍、および応援部隊が到着し、新選組の勝利を祝っているのだ。無数のアセチレン灯が池田屋の周りを昼間のように照らし出している。その人工的な光は、まばゆく、そして隠しておきたい闇まで暴き出すほどに、残酷なまでに明るかった。
「行くぞ、永倉。祭りは終わりだ。これからは、掃除(隠蔽)の時間だ」
斎藤は、血脂で汚れた愛刀・鬼神丸国重を、静かに鞘に納めた。
カチリ
その鍔鳴りの音は、刀を納める音というよりは、巨大な自動拳銃の撃鉄を起こす音のように、冷たく、無機質に響いた。
◆
元治元年の池田屋事件。
それは、新選組の名を天下に轟かせた栄光の夜であったと、歴史書には記されるだろう。だが、永倉新八と斎藤一という二人のリアリストにとっては、自分たちが巨大な経済戦争という盤上で踊らされている、使い捨ての「捨て駒」に過ぎないことを、嫌というほど思い知らされた、苦い夜明けの始まりでもあった。
彼らの背後で、主を失った池田屋の二階から漏れる古ぼけた行灯の灯りが、風に揺れて消えそうに瞬いていた。それはまるで、近代化という嵐の前で消えゆく、古き良き「武士道」の命運を暗示しているかのように、頼りなく、儚い光であった。




