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第11話 南洋航路の船乗りたち - 鐡のシーマンシップ

元治二年(一八六五年)二月


 北緯二四度、東経一四二度。絶海の孤島、小笠原諸島・父島の北西海域は、この季節、世界で最も過酷で、最も美しい「地獄」へと変貌する。


 北太平洋から吹き付ける冬の季節風は、何千マイルもの助走をつけて海面を叩きつけ、鉛色をした巨大なうねりを形成していた。波頭は風に引きちぎられ、白い飛沫となって水平線を煙らせている。空と海の境界は曖昧になり、世界はただ、圧倒的な質量を持った水と風の暴力によって支配されていた。


 その混沌とした灰色の世界に、唯一、幾何学的な秩序を保ち、自然の猛威に抗い続ける黒い点があった。幕府海軍所属、南山航路定期輸送艦「太平丸たいへいまる」である。


 排水量二千五百トン。全長八十五メートル。その船体は一見すると優美でこそあるが、ごく一般的なクリッパー船のように見える。だが、内実は当時の造船造機技術の粋を集めた新鋭艦であった。オランダ・ドルトレヒトのギプス造船所で建造されたこの艦は、頑強な鉄骨のフレームに、腐食に強いチーク材の外板を張り、さらにその上から銅板で被覆した鉄骨木皮コンポジット構造を採用している。


 そして、その心臓部には英国で製造され、先年拡張されたばかりの南山の北嶺第三船渠で換装されたばかりの最新鋭機関、高圧と低圧の二つのシリンダーで蒸気を無駄なく使い切る二段膨張式コンパウンド蒸気機関が据え付けられていた。


 吹き荒れる暴風の中、艦橋ブリッジの露台に仁王立ちする男がいた。中浜万次郎、通称ジョン万次郎。南山奉行所付属・主席航海士の肩書きを持つ彼は、オイルスキンのコートを叩く雨音も、マストを揺らす風の咆哮も意に介さず、ただ足裏から伝わってくる甲板の微細な振動に全神経を集中させていた。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……


 それは、単なる機械音ではない。船体中央部の機関室で唸りを上げる、出力八百馬力の蒸気ピストンが、船尾にある直径四メートルの青銅製スクリュー・プロペラを毎分六十回転で回し、何万トンもの海水を後方へと押しやっている鼓動である。


 波にプロペラが浮き上がりそうになる瞬間の軽薄な回転音と、再び水中に没して水流を噛む時の重厚な抵抗感。そのリズムの揺らぎこそが、船の状態を雄弁に語る言葉であった。


「機関長。プロペラの滑り(スリップ)が出ているな。回転数(ピッチ)を落とせ。空回りは石炭の無駄遣いだ」


 万次郎が真鍮製の伝声管に向かって叫ぶと、管の向こうから、蒸気の噴出音に混じって上州訛りの


「aye aye sir!」


という野太い返事が戻ってきた。万次郎は満足げに頷き、マホガニーの台に固定された経線儀(クロノメーター)と海図を見比べた。


 十四歳で漁に出て遭難し、アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に救助され、暫しのアメリカでの生活ののち帰国した彼を待っていたのは、英雄としての凱旋であった。当時の老中は、言葉もおぼつかぬ異国で多数の友を作り、時の執政府に帰国の手間までとらせた、この奇跡的な生還者を「天与の外交官」と見なした。


 莫大な資金を与えて再び米国フェアヘイヴンへ留学させ、そこで彼は、正規の航海術、造船学、そして測量技術を修め、マサチューセッツの紳士たちと対等に渡り合う「キャプテン・ジョン・ムネ」として帰還したのである。


 今や彼は帯刀こそ許されているものの「侍」という前時代的な階級には属していない。


 六分儀セクスタントで星を睨み、球面三角法で現在地を割り出し、流体力学と気象学を駆使して鐵の塊を意のままに操る。海という冷厳な物理法則の世界で生きる「船長キャプテン」それは、この国の新しいエリートの姿であった。


     ◆


「見事な操船ですな、中浜殿。この荒天で、これほど船体が安定しているとは」


 背後から風切音に負けない、よく通る知的なバリトンボイスが響いた。万次郎が振り返ると、そこに立っていたのは、上質なウールのフロックコートの襟を立て、海風に総髪をなびかせている男であった。


 幕府海軍奉行並 榎本武揚


オランダへの長期留学から帰国し、国際法と海軍戦術を完璧にマスターした彼は、現在、南山航路の視察と、重要物資輸送船団の護衛任務の総指揮官として、この『太平丸』に乗艦していた。幕府きってのテクノクラートであり、万次郎とはまた異なる意味で「海の男」である。


「おや、榎本先生。ブリッジへ上がられるとは酔狂な。キャビンでブランデーでも煽っていた方が、船酔いには効くでごわすよ?」


 万次郎が、わざと土佐訛りと英語訛りの混じった独特の口調で笑いかけると、榎本はニヤリと口の端を吊り上げ、肩をすくめた。


「御冗談を。私はオランダ留学中、北海の大荒れの中で、カッテンディーケ艦長からスパルタ式に操艦を叩き込まれましたからな。これくらいの揺れは、ゆりかごのようなものです」


 榎本は手すりを掴み、水平線を見据えた。その瞳には、荒れ狂う海への恐怖ではなく、それを制御しようとする科学者のごとき冷静な光が宿っている。


「それにしても、この『太平丸』の復原性と機関の粘りは素晴らしい。やはり、南山のワイカト炭のおかげですか?」


「イエス。その通りで」


 万次郎は、船体中央の煙突から吐き出される黒煙を見上げた。その煙は、濃密でありながら、不思議と不純物の少ない、力強い色をしていた。


「通常の日本炭、九州や常磐の石炭じゃ、こうはいきません。あいつらは煙ばかり出てカロリーが低い。おまけに硫黄分が多いから、ボイラーの火床に燃えカス(クリンカー)がこびりついて、釜焚き員たちは四六時中、灼熱の中で鉄棒を突っ込んで掃除をしなきゃならん。……まさに地獄でごわすよ」


 万次郎は、まるで愛馬の毛並みを語るように続けた。


「だが、ワイカト炭鉱から産出される瀝青炭は違う。油分をたっぷり含んでいて、火力が強く、燃焼効率が良い。一度火がつけば、まるで怒れるドラゴンのように蒸気を吐き出し続ける。……この良質な血液(燃料)こそが、幕府海軍の足を支える要なんでさあ」


 榎本は深く頷いた。彼の脳裏には、近代国家という巨大な機械仕掛けのシステムが描かれていた。


 船が動く。それは単に目的地へ移動することではない。石炭という化学エネルギーを蒸気機関という熱機関で運動エネルギーに変換し、物流という経済活動へ昇華させるプロセスだ。南山の石炭がなければ、この最新鋭艦を始め南山航路の快速船たちは、只のどこにでもある船となり、日本の産業経済は窒息するとまでは言わないが、効率は確実にダウンするだろう。


「中浜殿。我々は今、単に海を渡っているのではない。国家の生命線の上を走っているのですな」


「ええ。お侍たちは刀を命だとよく言いますが、我々船乗りにとっちゃ、この黒い石炭こそが命の源。こいつを切らしたら、どんな名将でも海の上じゃ干物になるだけでごわすからな」


 二人の男は、轟音を立てて砕ける波を見下ろしながら、無言で笑みを交わした。そこには身分の差を超えた、技術と海を知る者同士だけが共有できる、硬質で、油の匂いのする連帯感があった。


「時に、榎本先生。この船の腹の中に、一体何が詰め込まれているか、正確にご存知ですか?」


 万次郎は舵輪を握る操舵手の肩を軽く叩き、進路の微修正を指示してから、悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけた。榎本は強風に煽られてバタバタと音を立てる海図台の上の書類、積荷目録(マニフェスト)を、文鎮代わりの真鍮製コンパスで押さえつけながら、その羅列された項目に目を落とした。


「ええ、把握していますよ。ざっと読み上げましょうか」


 榎本は、まるで学会で論文を読み上げるかのような、落ち着き払った声で答えた。


「第一船倉には、南山・ワイカト平原の牧羊地で刈り取られたばかりの、最高級メリノ種羊毛(ウール)の圧縮ベールが五百トン。第二船倉および冷蔵室には塩漬牛肉(コーンビーフ)の樽と、北嶺の缶詰工場から出荷された牛肉大和煮缶が三千箱。……そして」


 榎本は、声を少しだけ低くした。


「喫水線下の特別防護船倉には、入安島の金山で精錬され、幕府の刻印を打たれたばかりの金塊インゴットと、火薬の主原料となる、鳥の糞が化石化した高純度の硝石(グアノ)が満載されています」


左様(exactly)……その通りでごわす」


 万次郎は満足げに頷き、火のついていないパイプを取り出して口にくわえた。


「つまり、先生。この薄汚れた黒い鉄の船一隻で、江戸の防衛隊や新選組が着るための冬服五万着と、一個師団が一ヶ月食いつなげるだけの高カロリーな糧食、そして……うるさい攘夷派(xenophobia)の連中を千回吹き飛ばしてもお釣りが来るだけの、爆薬の素を運んでいるわけでごわすよ」


 万次郎は、視線を水平線の彼方、見えざる本土の方角へと向けた。


「世間の連中、特に、千代田のお城の偉いさんや、講釈師たちは、大砲の口径や軍艦の排水量こそが海軍力だと思っておる。……巨砲を積んだ大艦が正義とな。だがオイに言わせりゃ、それは海を知らねえ素人の寝言だ」


 彼は、波頭を砕いて進む自艦の航跡を指差した。白く泡立つその跡は、荒れる海の上に描かれた一本の直線のようだった。


「本当の力ってのは、点じゃねえ。……このドス黒く、気まぐれで、食うか食われるかの海の上を、休まず、遅れず、沈まずに往復し続けるラインそのものにあるんでさあ」


 榎本は深く頷いた。その知的な瞳の奥で抽象的な概念が具体的な映像へと結像していく。彼の脳裏に、先日視察した横須賀製鐵所の光景が鮮烈に蘇った。


 高炉の唸り。飛び散る火花。南山から届いた鐵鉱石と石炭が灼熱の溶鉱炉で溶かされ、ドロドロの湯となり、やがて冷え固まって強靭なアームストロング砲の砲身となり、スペンサー銃の精緻な機関部となる。


 その武器が會津藩兵や新選組の手に渡り、京の治安を維持し、徳川の威信を物理的に支えている。


 南山の羊毛がなければ、兵士は凍える。南山の牛肉がなければ兵士は飢える。そして南山の金がなければ、幕府という巨大な官僚機構は、給料不払いで即日停止するだろう。


「なるほど。この航跡は、単なる船の通り道ではない。御公儀という巨大な有機体を維持するための、酸素と栄養を送り続ける大動脈というわけですか」


「ロジスティクス(兵站)、ですね」


 榎本が、オランダ語混じりの専門用語を呟くと、万次郎はニヤリと笑い、顔中に刻まれた皺を深くした。


「その通り。……だからこそ、俺たちは『サムライ』じゃねえ。『シーマン(船乗り)』なんだ」


 万次郎の声には、武士階級への劣等感ではなく、それを凌駕するプロフェッショナルの矜持が満ちていた。


「サムライは刀で敵を斬ることを名誉とする。精神論スピリットで死ぬことを美学とする。だが、シーマンは違う。俺たちは数字と技術で、海という圧倒的な大自然をねじ伏せる。六分儀で星を読み、ボイラーの圧力を計算し、風を読んで最短距離を走る。そこに美学なんざねえ。あるのは帰港できる(生きる)出来ないか(死ぬ)、二つに一つだ」


 万次郎は、手すりをバンと叩いた。


「最近、内地じゃ攘夷だなんだと、やかましく騒いでいるらしいが、俺からすりゃ、ちゃんちゃらおかしい。へそで茶が沸くってやつだ」


 万次郎の言葉には、強烈な皮肉と隠しきれない軽蔑が込められていた。天狗党や長州の攘夷論者たちは、産業文明を穢れとし、土と神々に根差した精神性への回帰を叫んでいる。彼らにとって、この黒煙を吐き、海を汚して進む鉄の船こそが、日本古来の美しき國體こくたいを侵食する「夷狄の毒」そのものに見えるだろう。


 だが、万次郎たち船乗りにとって、敵は異国でもなければ思想でもない。敵はもっと根源的で冷酷な「自然」だ。予測不能な嵐、突如として牙を剥く暗礁、そして船員を腐らせていく壊血病。


 それら理不尽な死の脅威から身を守ってくれるのは、尊皇の志でもなければ、大和魂でもない。正確に時を刻む英国製のクロノメーターであり、水圧に耐えるオランダ製の頑丈な鉄のリベットであり、そしてボイラーを赤熱させる高カロリーの石炭だ。


 彼らにとって、テクノロジーとは穢れなどである訳がない。人というひ弱な生物が、神の悪意のような自然の猛威に立ち向かうために纏う、聖なる鎧であった。


「彼ら攘夷派の連中は、貿易船を沈め、黒煙を止めれば、日本が清くなると本気で信じているのでしょうな」


 榎本は、水平線の彼方、雲が低く垂れ込める北の空を睨んだ。そこには、理屈の通じない情念の嵐が吹き荒れている。


「だが、もし海からの流れが止まれば、どうなるか。日の本は死にますよ。江戸のガス灯は消え、工場は沈黙し、銭相場は崩壊し、民は飢えて共食いを始めるでしょうね。彼らは、自分たちが呼吸している空気(経済)が、どこから供給されているのかを知らない。親のすねを齧りながら、親の説教が気に食わぬと暴れる子供と同じだ」


「違げえねえ」


 万次郎は、愉快そうに鼻を鳴らした。


 彼は知っている。攘夷を叫ぶ志士たちが着ている着物の木綿も、彼らが食べている米の肥料も、元を辿ればこの海を通って運ばれてきたものだということを。


「だからこそ、俺たちが運ぶんでごわしょう? 榎本先生」


 万次郎は、再び前方を見据えた。巨大な波が艦首に砕け、白い飛沫がブリッジまで飛んでくる。彼はそれを避けることすらせず、潮の味を噛み締めた。


「文句を垂れる駄々っ子の口にも、無理やりにでも南山の牛肉と砂糖をねじ込んで、生かしてやるためにね。それが、俺たち大人の仕事ってもんでさあ」


 榎本は苦笑しそして万次郎の隣に並んで立った。


 この鉄の船は、感謝されることもなく、理解されることもなく、ただ黙々と日本の血管として鼓動を続ける。その孤独な使命感こそが、今の二人を結びつける、何よりも強固なアンカーであった。


    ◆


 その時、マストの上の見張り台(クロウズ・ネスト)から、風切音を引き裂くような鋭い報告が響き渡った。


「艦首右舷、十一時の方向! 水平線に黒煙! 船影あり! 蒸気船です!」


 万次郎は、反射的に首から下げたツァイス製の双眼鏡を構えた。


 荒れ狂う灰色の波の彼方、雨雲の切れ間から差し込む一条の光の中に、その船は幻のように浮かび上がった。 巨大な白い船体。船体中央部で海水を激しく掻き回す、古典的だが力強い外輪(パドル・ホイール)。そして二本の煙突から吐き出されるアメリカ炭特有の茶褐色の煙。メインマストには強風に煽られながらも誇らしげに星条旗が翻っている。


 太平洋郵船会社所属、郵便蒸気船「ゴールデン・エイジ号」


 サンフランシスコと横浜、そして香港を結ぶ、太平洋の女王である。


「……ほう。まさかこんな時化しけの中で、あの御婦人(オールド・レディ)とすれ違うとはな」


 万次郎は口元を緩めた。最新鋭のスクリュー船である太平丸に比べれば、外輪船は旧式だ。だが、その威容には、大洋を切り拓いてきた先駆者だけが持つ、独特の風格があった。


「……挨拶しろ。信号員、国際信号旗準備! 『貴船の安航を祈る(U・W)』だ!」


 万次郎が短く指示を飛ばすと、ブリッジ脇に控えていた信号員たちが弾かれたように動き出した。  彼らは色鮮やかな信号旗——赤と白の市松模様の「U」旗と、青白赤の「W」旗——を素早く選び出し、掲揚索ハリヤードに結びつけると、スルスルとマスト高く引き上げた。


 海上の強風を受け、旗がバタバタと音を立ててはためく。それは、言葉の通じない二つの国が、海という共通の敵の前で交わす、最も簡潔で美しい挨拶であった。


 数秒後。「ゴールデン・エイジ号」のマストにも、同じ旗が掲げられる。返礼だ。


 さらに相手船の船長と思しき人影が、ブリッジから帽子を振っているのが双眼鏡越しに見えた。


 この広大無辺な太平洋という砂漠において、彼らは敵でもなければ、競合他社ですらない。同じ「死」と隣り合わせの荒野を行く、数少ない旅の仲間キャラバンなのだ。


「……見ろ、榎本先生。あれが世界だ」


 万次郎は、白い飛沫を上げてすれ違う、巨大な外輪船を指差した。


「あっちの船にはヤンキーが乗っている。こっちの船にはチョンマゲ崩れが乗っている。だがな、一度海に出りゃ、俺たちは皆、自然という共通の神様の下にいる信徒なんだ」


 万次郎の言葉は、哲学者の講義よりも重く、そして実感的だった。


「この海の上じゃ、家柄も、身分も、攘夷も佐幕もねえ。あるのは、良い船乗り(グッド・シーマン)か、悪い船乗り(バッド・シーマン)か。波を読めるか、読めないか。それだけが、生と死を分ける唯一の法だ」


 榎本は、万次郎の横顔を見つめた。強烈な紫外線に焼かれた浅黒い肌、潮風がナイフのように刻み込んだ深い皺、そして水平線の向こうにある未来を見通すような、理知的に光る瞳。この男は、日本の武士階級が平和な江戸の二百年で失ってしまった、「リアリズム」と「フロンティア・スピリット」の化身だ。  


 そして、榎本は戦慄した。彼のような男が、一人ではないという事実に。


 榎本の視線が、甲板デッキへと落ちる。そこには、嵐の中で忙しく働く水夫たちの姿があった。  彼らは、まだ髷を結っている者もいれば、西洋風に短く刈り込んだ者もいる。出身を聞けば、没落した御家人の次男坊、食い詰めた漁師、あるいは南山への憧れだけで飛び出してきた百姓の倅と、様々だろう。  おかにいれば、彼らの間には「士農工商」という越えられない壁が聳え立ち、言葉を交わすことさえ憚られたはずだ。


 だが、この揺れる甲板の上では、出自など紙切れほどの価値もない。


 濡れたロープを素早く結べる指先を持っているか。高圧蒸気が唸るボイラーの計器の針のわずかな振れから異常を読み取れるか。 揺れる船上で六分儀セクスタントを操り、星の位置を正確に捉えられるか。


 その「能力スキル」だけが、彼らの価値を決め、序列を作る。無能な元武士よりも、有能な元漁師が指揮を執る。それは身分制度という古いカビに覆われた日本本土には存在しない、残酷だが極めて公平で清潔な「実力主義の共和国」であった。


「中浜殿。貴殿らが南山から運んでいるのは、物資や金塊だけではないようですな」


 榎本は、複雑な思いを込めて呟いた。


「ほう? 金と肉以外に、オイらが何を積んでいると?」


「新しい日の本の種子タネですよ」



 榎本は、甲板で働く若者たちを見下ろした。油と煤にまみれた顔で、白い歯を見せて笑い合い、テキパキと動く彼らの姿。そこには、東國の管理されたテクノクラートとも、西國の怨念に燃える志士とも違う、カラッとした明るさと強さがあった。


「彼らがおかに上がり、故郷へ帰った時、日本は変わるでしょう。彼らはもう庄屋に頭を下げるだけの百姓には戻れない。土にしがみつき、血統と格式だけで威張り散らす古い武士たちには、彼らの立てる自由な足音は、地獄から響く魔物の足音に聞こえるかもしれませんがね」


 それは、幕府という封建体制の根幹を揺るがしかねない、危険な種子だ。


だが、榎本自身もまた、その種子の芽吹きを止めようとは思わなかった。なぜなら彼自身もまたオランダの風に吹かれ、古い殻を脱ぎ捨てた新しい日本人の一人であったからだ。


 万次郎は、榎本の言葉を聞くと、パイプを咥えたまま、腹の底から愉快そうに大笑いした。


「ガハハハッ! 違げえねえ! 魔物の足音か、こいつは傑作だ! ならば、その魔物どもを派手に凱旋させてやろうじゃねえか!」


 万次郎は、伝声管にかぶりつき、機関室へ怒鳴った。


「機関長! 全速(フル・アヘッド)だ! 蒸気圧を上げろ! 安全弁が飛んだら喰らわすが、ギリギリまで上げろ!江戸の連中が、俺たちの土産を首を長くして待ってるぞ!」


 万次郎が天井から下がるワイヤーを引くと、巨大な真鍮製の汽笛が、咆哮を上げた。


ボーーーーーォォォッ!!


 その低く、太く、腹の底を震わせる轟音は、冬の冷たい空気を震わせ、海鳥たちを驚かせた。


 それは、海という自由な世界を知った男たちが、陸の窮屈な政治家たちへ送る、誇り高き勝利宣言のように響き渡った。


 太平丸は、煙突から黒々とした煙を棚引かせ、舳先で波を切り裂きながら、東洋の水平線へと突進していく。その船倉には、物資だけでなく、日本の未来を不可逆的に変えてしまうであろう、圧倒的な質量の「事実」と「人間」が満載されていた。


 彼らこそが、新たな世界を支える真の英雄であり、同時に旧体制の葬儀人となる、鐵の船乗りたち(アイアン・シーメン)であった。




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