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第10話 天狗党の彷徨 - 錆びた魂と帳簿の神

元治元年(一八六四年)師走


 越前 新保しんぼ


 北陸の冬は、鉛色の空から物理的な重量を持って落ちてくる。

 視界を白一色に塗り潰す猛吹雪の中、ボロ切れを何重にも巻きつけ、幽鬼のように痩せこけた男たちの行列が、膝まで雪に埋まりながら、ただひたすらに西へと進んでいた。


 水戸天狗党


 かつては「尊皇攘夷」の魁として天下にその名を轟かせた彼らだが、今の姿にその面影はない。彼らの「攘夷」とは蒙昧な排外主義ではない。彼らは知っていた。南山の豊かさを、蒸気機関の威力を、そして世界がいかに広いかを。知っているが故に、彼らは絶望しそして怒っていたのだ。


 彼らが憎んだ「」とは、異人のことではない。日本古来の美しい田園風景を汚す工場の黒煙。  先祖伝来の土地を捨て、賃金労働者として都市へ流出する若者たち。


 そして何より南方の資源を独占し、神聖な農作物を足蹴にして、得体の知れぬ金融や相場で巨万の富を貪る、幕府の腐敗した官僚(テクノクラート)たち。それらすべて、日本人の魂を蝕む「物質文明マテリアリズム」そのものを、彼らは「夷狄の毒」と断じ、祓い清めようとしたのである。


 これは、急速すぎる近代化に対する、前時代からの悲痛な異議申し立て( プロテスト )であった。


「……寒い。指が、動かぬ」


 隊列の中ほどで、一人の若者が雪中に倒れ込んだ。その腰には、名刀と謳われた備前長船が差されているが、鞘は凍りつき、もはや抜くことさえ叶わない鉄の棒と化していた。


「立て! ここで倒れれば、雪の仏になるだけぞ!」


 総大将の武田耕雲斎が、六十を超えた老躯を鞭打ち、若者の肩を揺さぶった。彼の立派な髭は凍りつき、白い氷柱となっていた。


「あと少しだ……。京へ着けば、慶喜公が待っておられる。公ならば……水戸の血を引くあのお方ならば、必ずや我らの赤心をわかってくださるはずだ」


 彼らが縋っているのは、論理でも勝算でもない。水戸学が説く「民は国の本なり」という理想を、慶喜公ならば実現してくれるはずだという、情緒的な信仰心だけであった。彼らは信じていた。慶喜公もまた、機械油の臭いがする江戸を嫌い、土の匂いがする日本の心を愛しているはずだと。


 しかし、彼らが目指す京の都では、彼らの運命を決定づける冷徹な会議が開かれていた。


          ◆


二条城 奥の一室


 一橋慶喜の執務室は外の寒気が嘘のように、南山産の無煙炭を燃やす鋳鉄製のストーブで暖められていた。 豪奢な装飾を排した実務的なマホガニーの机の上には、分厚い和綴じの帳簿と、フランスから取り寄せた真鍮製の計算尺、そして万年筆が置かれている。


 慶喜の前に平伏しているのは、一橋家家臣、渋沢栄一


 かつては彼もまた、幕府の専横と農村の疲弊に義憤を覚え、高崎城乗っ取りや横濱の商館焼き討ちを企てたテロリスト予備軍だった。だが、慶喜に見出され、その類稀なる計数能力を買われて側近となり、今では数字という共通言語で主君と結ばれた共犯者となっていた。


「栄一 天狗党の始末、どう弾いた?」


 慶喜は、書類から目を離さずに問うた。その声には同郷のよしみや、血縁の情といった湿度は一切含まれていなかった。あるのは、不採算部門の処理を検討する経営者の乾いた響きのみである。


「はっ。……率直に申し上げます」


 渋沢は手元のメモを見ながら、淡々と報告した。かつての彼なら、同胞への同情に声を詰まらせたかもしれない。だが、慶喜という稀代のリアリストの側に仕えるうちに、彼の精神もまた、冷徹な計算尺へと作り変えられていた。


「彼らを京に入れた場合の経費は、治安維持費、食糧費、そして彼らが振りまく攘夷思想による社会的損失を含め一万両を下りません。現在、京の経済は會津中将様がお敷きになった鉄の秩序と東國交易によって漸く回っております。そこに、『機械を壊せ、東國との縁を切れ』と叫ぶ千人の武装集団が雪崩れ込めば、京の町は再びの大混乱となります」


「うむ。…して、彼らを戦力として雇用した場合の利益は?」


「皆無です」


 渋沢は断言した。


「彼らの装備は旧式の火縄銃と刀のみ。戦術は前近代的。何より致命的なのは、彼らが國體こくたいという精神的価値観イデオロギーだけで動いており、ご公儀の利益に従う規律がないことです。……組織にとって、これほど扱いづらい不具合はありません」


 慶喜は、万年筆を置き、天井を見上げた。


 彼の脳裏には、かつて父・斉昭から吹き込まれた「農本主義」の教えがよぎったかもしれない。だが、それは南山の資源と西欧の金融・貿易システムを知った今の彼にとっては、美しいが役には立たない、博物館の展示品に過ぎなかった。


「…そうか。ならば、損切りするしかあるまい」


「殿…よろしいのですか。彼らは、貴方様を慕って、はるばる関東から歩いてきたのですぞ。彼らの怒りは、元を正せば、幕府が地方を見捨てたことへの…」


 渋沢は、あえて試すように問うた。それは、自分の中に僅かに残る百姓の倅としての部分が言わせた言葉だった。


「栄一 慕ってくれば、何でも受け入れるのが主君か? 違うな」


 慶喜の瞳が、氷のように冷たく光った。


「彼らが慕っているのは、一橋慶喜という人間ではない。自分たちの妄想の中に作り上げた清貧なる救世主という虚像だ。彼らは現実を見ていない。蒸気機関を止めても腹は膨れんのだ。現実を見ない者は、これからの時代、生きてはいけんのだよ」


 慶喜は一枚の書状にサインをした。


 筆運びは流れるように美しく、そして残酷であった。それは、天狗党への追討令であり、実質的な廃棄処分命令書であった。


「栄一 現場へ行け。加賀藩と協力し、彼らに引導を渡してやれ」


「私が、でございますか」


「ああ。お前もかつては、あの連中と同じ熱病に浮かされていた口だろう? 自分の目で見てこい。思想だけで飯が食えるのか。美しい精神だけで、この寒空の下、生き残れるのかをな。これは、お前の卒業試験だ」


 慶喜の言葉は、渋沢の胸に深く突き刺さった。これは、過去の自分自身を殺してこいという命令であった。


          ◆


 数日後。渋沢栄一は、幕府目付として、越前・敦賀の雪原に立っていた。目の前には、加賀藩に投降し、にしん蔵に押し込められた天狗党の面々がいた。


 鰊蔵(にしんぐら)


 本来は肥料にする鰊粕を保管するための、窓もない巨大な倉庫である。 その扉が開かれた瞬間、渋沢は思わずハンカチで鼻を覆った。


 悪臭


 腐った魚の脂の臭いと糞尿と膿、そして八百人の男たちの絶望が発酵したような、地獄の釜の蓋が開いたような強烈な臭気が、冷気と共に漂ってきたのだ。


 その暗闇の中から引きずり出された男たちは、もはや人間ではなかった。手足は凍傷で黒く変色し、衣服は垢と虱にまみれ、目は虚ろに落ち窪んでいる。彼らは、渋沢の姿、南山産のウールで作られた立派なコートを着た幕吏を見ると、縋るように地面に頭を擦り付けた。


「役人殿! 慶喜公は……公は、いつお越しになるのですか?」


「我らは、日の本の心を……土の心を公にお伝えしたい一心で……」


 その姿を見て、渋沢の中にあった攘夷への共感は音を立てて崩れ去った。これが、精神主義の末路か。  彼らは、国を憂いていたはずだ。誰よりも高潔な魂を持っていたはずだ。だが、その魂は物理的な貧困と敗北の前では、鰊粕以下の惨めな肉塊に過ぎなかった。金がなければ、暖も取れない。薬も買えない。そして、誇りさえ守れない。


(……間違っている。何かが、決定的に間違っている)


 渋沢は、雪の上に転がる錆び付いた刀を見つめた。南山の鉄で作られた最新鋭の銃を持つ幕府軍の前で、この錆びた鉄屑に何の意味があったというのか。


(志があっても、資本カネがなければ、人は獣になる。

 …思想があっても、組織システムがなければ、ただの烏合の衆だ)


 渋沢の脳裏に二条城の暖かな執務室で見た慶喜の帳簿が浮かんだ。


 あの冷徹な数字の世界。南山の資源を管理し、利益を生み出し、その金で軍隊を養い、国を回す巨大なシステム。そこには情はないかもしれない。冷酷かもしれない。だが、少なくとも人を飢えさせず、凍えさせず、人間としての尊厳を保たせる力がある。


「武田耕雲斎殿、だな」


 渋沢は、縛り上げられた老将の前に立った。


 耕雲斎は、渋沢の目をじっと見つめ返した。その目には、裏切られたことへの恨みよりも、自分たちの信じてきた美しい日本が、金と煙の文明に飲み込まれていくことへの、深い諦念が漂っていた。


「慶喜公は、来られぬ。…公は、貴殿らを不要と断じられた」


 渋沢の声は震えていたが、その宣告は明確だった。


「……そうか。……不要、か」


 耕雲斎は力なく笑った。その笑顔はどこか子供のように無垢で、それゆえに哀れだった。


「我らは、時を読み違えたようじゃな。我々が守りたかったのは、土と神々と共に生きる日の本の邦じゃった。だが、時代はそれを毒と呼ぶのか」


 処刑が始まった。


 鰊蔵の前の雪原で、次々と首が刎ねられていく。


 三百五十余名。その血が、白い雪をどす黒く染め、鉄錆の臭いを撒き散らす。だが、渋沢はその光景から目を逸らさなかった。彼はこの残酷な光景を、自らの魂に焼き付けていたのだ。


 この雪原で、熱き血潮を持った「志士・渋沢栄一」は死んだ。そして、その死骸の中から生まれたのは、「資本主義の父」となるべき、冷徹で合理的な企業家の卵であった。


「……必要なのは、刀ではない。土への回帰でもない」


 渋沢は、凍える手に息を吹きかけながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「必要なのは、組織カンパニーだ。…人を集め、金を集め、知恵を集めて、利益を生み出す仕組みだ。それがあればこそ、理想も、人の命も、持続させることができる」


 彼は懐から手帳を取り出し、処刑に要した経費と没収した武器のリストを書き込んだ。その筆致は、慶喜のそれに似て、恐ろしいほどに整っていた。


 遠く京の空の下、徳川慶喜は温かいコーヒーを啜りながら、帳簿のページをめくっていたことだろう。  


 「経費削減完了」その一行の裏にある、数百の命の重みと、失われた古き良き日本の残滓を知りながら、彼は眉一つ動かさずに、次のページの次期投資計画へと目を移すのであった。


 天狗党の彷徨。


 それは、日本の産業革命の影で起きた、前時代的イデオロギー(反近代主義)の敗北と、新たな経済人エコノミック・マンの誕生を告げる、あまりにも悲しく、しかし必然的な通過儀礼であった。




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