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第一話 泥と鐵の国

1/16.全面改稿

雨が降っていた。


 江戸湾の、鉛を溶かしたような鈍色の海面を、冷たい雨粒が無数に叩いている。その雨は、品川沖に築かれたばかりの第二台場、その真新しい花崗岩の胸壁パラペットから突き出した、巨大な(てつ)の筒、最新鋭の百五十ポンド・ペクサン砲の冷厳な砲身をも濡らしていた。


 この砲身は、南山・北嶺島の炭田から運ばれた無煙炭を燃料とし、會津藩領内の高炉で精錬された鋼鉄によって鋳造されたものである。鈍い光を放つその砲口は、江戸の安寧を脅かす未知の敵ではなく、太平洋の彼方にあるはずの見えざる脅威を睨み据えているようだった。


 嘉永六年(一八五三年)。


 會津藩主 松平容保 数えで二十歳


 彼は、容赦なく降り注ぐ雨に濡れるのも厭わず、南山産ゴムでコーティングされた英国マッキントッシュ社製の防水マントを羽織り、その砲台の上に仁王立ちしていた。雨脚は強く、横殴りの風が彼の端正な頬を打ち据える。背後で慌てて和傘を差しだそうとする家老の田中土佐や、心配顔の近習たちを、彼は無言の手振りで制した。


「見よ、土佐。これがリヴァイアサンの牙だ」


 容保は若々しく、そして己の理想に酔うかのように少しばかり高揚した声で言った。彼が指す先には、會津藩が幕府より命じられ、巨額の藩費を投じて構築した最新鋭の要塞砲群が、雨煙の中に整然と並んでいる。南山植民地からもたらされた良質な天然ゴムをパッキンに用いた油圧駐退機、薩摩藩が自慢する旧式反射炉ではなく、江戸の関口製造所で最新の工法を用いて鋳造された強靭な施条砲。


 それは一五九八年の南進開始以来、二百五十年かけて南洋に航路を拓き、スペインやオランダといった列強と伍して交易を行ってきた海洋帝国・徳川日本の、技術と武威の結晶であった。


「この砲があれば、たとえナポレオン三世のフランス艦隊や、ヴィクトリア女王のロイヤル・ネイビーがアジアの海で覇を競おうとも、江戸の民の安寧と、彼らが持つべき『天賦人権ナチュラル・ライツ』は揺るがぬ。余は、余の民が、他国の経済戦争の犠牲となることを断じて許さぬ。……それが、『社会契約コントラ・ソシアル』に基づく君主の責務だからだ」


「はあ……しゃかい、けいやく、でございますか」


 田中土佐は、困り果てたような顔で眉間のしわを深くした。若殿はまた、あの日新館を改組して創設した苟日館こうじつかんの、頭の回転だけは速い学者先生たちから仕入れた、難しい異国の言葉を使っている。  先代の容敬公が英才教育を施した結果、この若き主君は、儒学よりもルソーやロックの思想を好む、極めて扱いづらい開明派に育ってしまった。


「そうだ。余は啓蒙君主エンライテンド・デスポッツであるからな。民の自由と財産を守るための力を行使するに、躊躇いはない」


 容保が胸を張り、雨に濡れたマントを翻したその時だった。  砲台の資材置き場、雨ざらしになった南山産鐵木の山の陰から、低い、しかし雨音を切り裂いてよく通る、野太い男の声がした。


「……啓蒙君主、とは大きく出ましたな。……ですが殿様、その契約の対価、ちと民の財布には高くつきすぎやしませんか」


「誰だ」


 容保が鋭く振り返る。


 そこにいたのは、武士というよりは職人のような出で立ちの男だった。作業着のような厚手の木綿の着流しに、油と煤で黒ずんだ革羽織を無造作に引っかけた一人の男。三十路に入ったばかりだろうか。雨に濡れた髷は乱れ、後れ毛が額に張り付いているが、その眼光には底知れぬ理知と、世の中を斜めに見る皮肉な色が混在している。その節くれだった手には、何やら複雑な線が引かれた図面と、象牙で作られた英国製の計算尺が握られていた。


「控えよ! こちらをどなたと心得る! 會津中将様であらせられるぞ!」


 近習が色めき立って叫ぶが、男は悪びれる様子もなく、むしろその怒声を柳に風と受け流すように、流れるような所作で一礼した。その礼儀正しさは洗練されているが、どこか人を食ったような、底意地の悪さを纏っている。


「こりゃ失礼。……幕府海防掛かいぼうがかりの、勝義邦でございます。この砲台の基礎杭の、軟弱地盤における沈下率を検分に来たのですが、あまりに高尚な講釈が聞こえたもので、つい口を挟んでしまいました」


 勝義邦 - 勝海舟。  容保はその名を聞いて、片眉を上げた。


「其の方が、勝か。噂は聞いている。貧乏旗本の出でありながら、その才覚を見込まれて英国のオックスフォードへ国費留学し、あろうことかかの地で労働者たちのチャーチスト運動にも関わって放校になりかけたという、幕府きっての異端児と」


「異端児とは心外ですな。私はただ、『数字エコノミー』が読めるだけですよ」


 勝は、ペクサン砲の冷たい砲身を、まるで愛しい女の肌でも撫でるように、しかし冷ややかに叩いた。カン、と硬質な音が雨の中に響く。


「この百五十ポンド砲一門の鋳造費と設置費で、神田の裏長屋の連中なら何年遊んで暮らせるか、苟日館の先生方は教えてくれましたかね? 昨今の南山開発熱で、南洋からの鐵鉱石は高騰している。あんた方がこの立派な要塞を作るおかげで、市中の釘の値段が三割上がった。大工は道具が買えず、庶民は雨漏りする家を直せない。……殿様がおっしゃる『安寧』のために、今日の飯を食いっぱぐれている民がいるのが、『現実リアル』ですぜ」


 言葉遣いは丁寧だが、その内容は鋭利な刃物のように容保の理想論を切り裂いた。


「痛いところを突く。だが、国防なくして経済の安定はない。外圧に屈すれば、国富そのものが奪われるのだ」


「順序が逆でしょう。民の暮らしが回ってこその国防ですぜ。土台が腐った家に、こんな立派な大砲載せたらどうなります? 重みで潰れるだけでしょう」


 勝が冷ややかに言い放った、その瞬間だった。


 雨煙の向こう、積み上げられた材木の陰から、殺気を孕んだ数名の男たちが飛び出した。全員が頬かむりをし、手には抜身の刀や、粗悪だが殺傷力のある短筒を持っている。彼らの目は血走り、異様な熱気を帯びていた。


「幕府の走狗め! 神州を鐵と煤で汚す悪鬼、天誅!」


 攘夷ではない。彼らは「農本主義」を掲げ、急速な工業化とインフレ、そして重税に反対する過激派の浪士たちだった。工場の煤煙と物価高騰に苦しむ層の不満が、歪んだ形で暴発した「ええじゃないか」的前衛であった。


「殿!」


 田中土佐らが反応するより早く、動いたのは勝だった。  彼は手に持っていた高価な計算尺を素早く懐にしまうと、泥濘ぬかるみをものともせず、一番前の刺客の懐に飛び込んだ。


「ぐあっ!」


 勝の革靴が、男の鳩尾に的確な前蹴りを叩き込む。男はくの字に折れ曲がり、泥水の中に崩れ落ちた。  怯んだ隙に、勝は懐から取り出した短いステッキ――鉛を仕込んだ護身用ブラックジャック――で、二人目の男の手首の関節を、解剖学的に正確な角度で強打した。ゴグッ、と骨が砕ける嫌な音がして、刀が水溜まりに落ちる。


「おい殿様! 突っ立ってんじゃありませんよ! 下がんなさい!」


 勝の怒声に、容保はハッとして腰の兼光に手をかけた。だが、抜く間もなかった。  勝の動きは、道場の剣術ではない。ロンドンの下町イーストエンドの喧嘩で身につけたであろう、泥臭く、しかし極めて合理的な実戦護身術バーティツだった。泥にまみれながら相手の重心を崩し、最小限の動きで関節を極め、無力化していく。  遅れて近習たちが駆けつけ、残りの刺客たちを取り押さえる頃には、勝の足元にはすでに三人の男が転がっていた。


 騒ぎが収まった後、泥だらけになった勝は、懐から手巾ハンカチを出して顔の汚れを拭いながら、深いため息をついた。


「……ったく。啓蒙君主なんて大層な看板掲げるから、時代に取り残された亡霊どもに狙われるんですよ」


 容保は呆然としていた。襲撃の恐怖よりも、目の前の男の鮮やかな暴力と、自分を庇ったその薄汚れた背中に、圧倒されていた。


「其の方……なぜ、余を助けた。余のやり方が気に入らぬのではなかったのか」


「勘違いなさんな。ここで會津の殿様に死なれちゃ、来年度の台場増築予算の執行が止まって、現場の鳶や職人が路頭に迷う。……私は計算高い男でね」


 勝はニヤリと笑った。その笑顔は、雨上がりの空のように皮肉で、しかしどこか晴れやかだった。


「それに、死ぬにはまだ早い。あんた、まだこの雨の『本当の冷たさ』を知らねえでしょう。……民が流す涙の冷たさをな」


 - - - - - - - - - - - - - - - - - -


「これより、市中見廻りを行う」


 容保がそう言い出したのは、勝の背中が資材置き場の向こうへ消えようとした、その直後のことであった。  それは思いつきの遊興ではない。先ほどの勝の言葉――「あんた、まだこの雨の本当の冷たさを知らねえでしょう」――という棘が、若き君主の心臓に深く突き刺さり、抜けないままであったからだ。


「なっ……正気でございますか、殿!」


 家老の田中土佐が、素っ頓狂な声を上げて青ざめた。無理もない。ここは会津若松城下ではない。不逞浪士が徘徊し、鉄火場のような活気と危険が同居する江戸の湾岸工事現場である。しかも、つい先ほど暗殺未遂があったばかりなのだ。


「ならぬならぬと申すな、土佐。余は自分の目で確かめねばならぬのだ。余の理想が、民の肌にどう触れているのかを」


「しかし護衛もなしに……!」


「あの勝が案内するのだ、安全だ」


 容保は平然と言い放ち、呆気にとられる家臣団を煙に巻いた。彼は資材運搬用の荷車に積まれていた予備の合羽と、人足頭が脱ぎ捨てていた手拭いを借り受け、躊躇なく自らの絹の着物の上から羽織った。泥がつこうが構わぬ。この瞬間、彼は「会津中将」という鎧を脱ぎ捨て、ただの「知りたいと願う若者」になろうとしていた。


「……おいおい、冗談でしょう、殿様」


 呼び止められた勝義邦は、天を仰いで深いため息をついた。その表情には、敬意よりも「とんだ貧乏くじを引いた」という露骨な迷惑顔が張り付いている。


「勘弁してくださいよ。こっちは基礎工事の進捗管理と、資材の発注書の書き直しで目が回るほど忙しいんだ。お殿様のお守りしてる暇はねえんですよ。……それに、あんたみたいな上品な顔立ちの人間が、こんな薄汚い格好しても目立つだけだ」


「ぶつぶつ言うな、勝。其の方が言ったのだぞ、『現実』を見ろと。余はその現実を見に行くのだ。……案内料は弾む。南山・明望で採れた最上級のコーヒー豆はどうだ?」


 容保が悪戯っぽく提案すると、勝は片眉をピクリと動かした。珈琲好きのこの男にとって、それは悪くない取引だったらしい。


「……チッ。高いですよ、私の時給は。それに、何かあっても私は私の身を守るだけで精一杯ですからね」


 勝は渋々ながらも承諾し、泥濘ぬかるみの道を先行し始めた。容保はその背中を追って、品川の宿場町へと降りていった。


 勝に連れられて歩く雨の品川宿は、容保が普段、駕籠の窓や屋敷の奥から見ていた「整然とした江戸」とは、まるで別の惑星のように異なっていた。  そこは、熱気と悪臭、そして生きるためのエネルギーが混沌と渦巻く「現場フロントライン」であった。  舗装されていない道は、降り続く雨と往来する荷馬車のわだちによって深田のような泥濘と化しており、そこには馬糞の酸っぱい臭いと、南山から運ばれてきた低品質の石炭が燃える際の、鼻をつく硫黄臭が混じり合って充満していた。


 行き交う人足たちは、皆一様に南洋産のゴム引き雨合羽を着ている。だが、それは容保が着ているような英国製の高級品ではない。劣化してひび割れ、継ぎはぎだらけになった「産業廃棄物スレスレ」の代物だ。彼らはその粗悪なゴムの臭いを撒き散らしながら、泥に足を取られぬよう大股で歩いている。


 軒を連ねる商店の店先には、南山航路からもたらされた色鮮やかな果物や、錆びついたラベルの貼られた鮭や牛肉の缶詰が並んでいる。一見すれば豊かな物資の流通に見える。だが、容保の鋭い目は見逃さなかった。店主が書き換えている値札の数字が、先月幕閣から報告を受けた相場よりも遥かに跳ね上がっていることを。 「一缶一朱」だった牛肉の缶詰が、「一朱二分」に書き換えられている。インフレーションの波は、容保が考えるよりも遥かに速く、庶民の財布を侵食していた。


「見なせえ、殿様。あれが、あんたの言う帝国の繁栄の足元だ」


 勝が顎でしゃくった先には、葭簀よしず張りの粗末な煮込み屋があった。そこでは、雨で工事が中断になった砲台建設の日雇い労働者や、鳶職人たちが、昼間から安い濁り酒を煽り、雨宿りをしていた。  容保と勝は、店の隅の板場に腰を下ろした。誰も泥だらけの若者が大名であるとは気づかない。彼らの会話が、雨音に混じって容保の耳に飛び込んできた。


『あ~あ、やってらんねえよ。お偉いさんは大砲だ、蒸気船だって騒ぐがよ、俺たちの賃金はちっとも上がりゃしねえ』


 一人が安酒を机に叩きつけて毒づく。


『へっ、上がるどころか、新しい機械が来るたびに俺たちの仕事が減っちまうじゃねえか。先月、杭打ち機が導入されてから、俺の組の連中は三人クビになったぜ。……おまけに物価は上がる一方だ。米も、味噌も、南山の連中が買い占めちまうから高くて手が出ねえ』


『全くだ。お侍様はいいよな。南山羊毛ウールの立派な洋服着て、西洋料理食って、暖かい部屋で国の行く末だなんて能書き垂れてりゃいいんだからよ。……俺たちがその洋服の代金を、この泥の中で稼いでやってるってことすら知らねえんだろうぜ』


 その言葉は、先ほどの刺客の刃よりも鋭く、深く、容保の胸を抉った。容保は言葉を失い、膝の上で拳を握りしめた。彼らが憎悪を込めて語る「お侍様」の中に、間違いなく自分も含まれている。自分が信じ、推進してきた「富国強兵」や「産業化」。その輝かしい理想の光は、彼らの胃袋を満たすどころか、その影で彼らを圧迫し、生活を脅かしている。自分の正義は、ここでは加害者の論理でしかなかった。


「…どうです。悔しいですかい?」


 勝が、容保にだけ聞こえる低い声で尋ねた。容保が顔を上げると、勝はニヤリと笑っていたが、その瞳の奥には嘲りではなく、微かな共感と、若き指導者への期待のような色が揺らめいていた。


「ああ、悔しい」


 容保は唇を噛み、血の味がするほど強く食いしばった。


「余は…余は、彼らのために良かれと思って。古い因習を打破し、近代化を進めることこそが、結果として彼らを豊かにし、幸福にすると信じて。だが、現実はどうだ。余は彼らを救うつもりが、苦しめているだけなのか」


「方向は間違っちゃいませんよ。石器時代に戻りたい奴なんていやしねえ」


 勝は手酌で茶を啜り、淡々と言った。


「だが、速度スピードが速すぎる。機関車のボイラーを焚きすぎて、車輪が空回りしてるようなもんだ。歪みが出てるんだよ、社会の継ぎ目にな。政治ってのは、高尚な理念を語ることじゃなくて、その歪みをハンマーで叩いて直す、泥臭い修繕屋の仕事でしょうが」


 容保がその言葉を噛み締めようとした、その時だった。


 海の方角から、大気を震わせるような、腹の底に響く重低音が響いた。


 ゴゴゴゴゴォッ――! 


 それは雷鳴ではない。もっと人工的で、不吉な鐵の悲鳴だった。直後、悲鳴に近い半鐘の音が、雨の品川宿に乱打される。


 カンカンカンカンカンッ!


「大変だ! 第三区画の杭打ち機(パイルドライバー)が!」


 店に飛び込んできた人足が顔面蒼白で叫んだ。降り続く異例の豪雨による地盤の液状化で、建設中の第三台場の埋立地が緩み、そこに据え付けられたばかりの英国製・最新式蒸気(スチーム)杭打ち機(パイルドライバー)が、その自重に耐えきれずに傾いたのだ。


「いけねえ!」


 勝の目つきが変わった。先ほどまでの冷笑的な、あるいは皮肉屋の態度は霧散し、瞬時にして極めて有能な技術者の、鋭利な刃物のような顔になる。


「あの地盤はまだ養生中だ! ……おい、ボイラーの火は落としたのか!? 傾いて安全弁がロックされたまま内圧が上がれば、蒸気圧でボイラーごと吹き飛ぶぞ! 品川宿の半分が消し飛ぶ騒ぎになる!」


 - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 現場は、近代化という名の怪物が嘔吐した、地獄の様相を呈していた。高さ十メートルはある巨大な鐵の櫓、英国ナスミス社製・直動式蒸気杭打ち機が、液状化した泥の海の中で、断末魔のような金属音を上げながら不気味に傾いでいる。ひしゃげた接続配管からは、限界を超えた高圧の蒸気が、怒り狂った白蛇のようにシュウシュウと噴出し、視界を白濁させていた。その熱気は、冷たい雨を瞬時に気化させ、周囲をサウナのような蒸し風呂に変えている。


「逃げろ! 櫓が倒れるぞ!」


「駄目だ、足場が沈む! 足が抜けねえ!」


 恐怖に駆られた人足たちが、泥に足を取られながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。彼らにとって、この文明の利器はもはや、生活を豊かにする機械ではなく、崇り神のような災厄の化身でしかなかった。


 その混乱の渦中、勝義邦は一人、逆流する人の波をかき分け、噴き出す蒸気の中へと飛び込んでいった。


「馬鹿野郎ども! 逃げるな! 安全弁セーフティ・バルブを開けなきゃ、全員消し炭だ!」


 勝の怒号が轟く。彼は物理学を知っている。傾いたボイラーの中で水位が変動し、空焚き状態になった炉壁が赤熱していることを。そして、そこに水が触れれば水蒸気爆発が起き、この品川宿の一角がクレーターに変わることを、正確な熱力学の数式として理解していた。


 だが、一人では無理だった。自重で傾いた機材の重みにより、配管のジョイント部分が歪み、メインバルブの軸が噛み込んで固着している。泥と油、そして皮膚を焼き焦がすような熱気の中で、勝は必死に鋳鐵製のバルブ・ハンドルにしがみついたが、冷徹な物理法則に従う鐵の塊は、人間の筋力如きではビクともしない。


「くそっ、誰か! 南山鋼ナンザン・スチールのテコを持ってきやがれ! おい、聞いてんのか!」


 勝が血を吐くように叫ぶ。


 だが、誰も近寄ろうとしない。人足たちは遠巻きに、恐怖に引きつった顔で震えているだけだ。ボイラーの圧力計マノメーターの針は、すでに赤色の危険域デンジャー・ゾーンを振り切り、リベットの隙間から蒸気が漏れ始め、ボイラー全体が生き物のように脈動し、不気味な唸りを上げている。限界まで、あと数十秒。勝は歯を食いしばり、火傷も厭わず、再び灼熱のハンドルに手をかけた。


(ここで俺が死ねば、誰が日本の基礎工事をやるんだ。畜生ッ!)


 その時だった。蒸気で霞む視界の中、白く、細く、しかし力強い手が、ハンドルの反対側をガシリと掴んだ。


「余がやる!」


「!?」


 勝が驚愕に目を見開く。そこには、最高級の南山羊毛の着流しの裾を無惨にも泥水に浸し、端正な顔を煤と油で真っ黒にした、會津中将・松平容保がいた。泥だらけの顔の中で、その双眸だけが、狂気じみた理性の光を放っている。


「殿様!? 正気ですか! ここは地獄の一丁目ですよ! 爆発したら會津二十三万石の御当主が、ただの肉片になっちまいますよ!」


「黙れ、勝! ……民を見捨てて、何が啓蒙君主か! 何が社会契約か!」


 容保は叫んだ。その声は、広間の上座から発せられる命令ではなく、魂の底からの咆哮だった。


「其の方が言ったのだろう! 歪みを直すのが政治家の仕事だと! これが歪みならば、余が直す! 余の手で!」


 容保の顔は、もはや高貴な大名の面影もなく、ただ必死に現在いまという危機に抗う、一人の若者のそれだった。しかしその瞳だけは、先ほど安全な砲台の上で理想を語っていた時よりも遥かに強く、澄み渡っていた。彼は理解したのだ。教科書の中の「統治」と、目の前の「現実」の重みの違いを。そして、その重みを支えることこそが君主の責務であることを。


「……へっ、言うじゃありませんかねぇ!」


 勝の口元が、ニヤリと歪んだ。  


 腹は括った。この若造は、ただの飾り物じゃない。芯までハガネが入ってやがる。


「いいでしょう! 付き合いますよ、あんたのその高尚な理想(アイデア)に! ……おい若いの! 腰を落とせ! 俺の合図に合わせて、死ぬ気で回すぞ! 一、二、三ッ!」


 二人の男が、身分の差も、立場の違いも超えて、渾身の力を込める。


 シューーーッ!


 配管の隙間から漏れた高熱の蒸気が、容保の柔らかな頬を焼き、油の浮いた泥水が口に入る。ハンドルに食い込んだ容保の手の皮が剥け、鮮血が滲み、白いハンドルを赤く染める。


 激痛が走る。だが、彼は手を離さなかった。彼の脳裏に焼き付いていたのは、先ほど煮込み屋で見た労働者たちの、諦めと怒りの混じった顔だった。そして、彼らを救えると過信していた、自分の無力さへの激しい憤りだった。


(ここで逃げれば、余は一生、自分を許せない。……回れッ!)


 グギ、ギ……ガコォン!


 鈍く、しかし決定的な金属音がして、固着していたバルブが回った。その瞬間、猛烈な勢いで蓄積されていた蒸気が空へと解放される。  


 ブシューーーッ!!


 轟音と共に白煙が噴き上がり、今にも破裂しそうだった杭打ち機の振動が、波が引くように止まっていく。圧力計の針が、ゆっくりと安全圏へと下がっていく。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 二人はその場に、糸が切れた泥人形のようにへたり込んだ。周囲の作業員たちが、何が起きたのか理解できず、呆然とした顔で遠巻きに見ている。ただ、静寂だけが、雨上がりの品川宿に戻ってきた。


 勝は、肺の奥まで煤にまみれた荒い息を吐きながら、隣で大の字になっている容保を見た。高級な着物は見る影もなく汚れ、顔は油まみれ。手からは血が滴っている。だが、その顔は、生きている実感に満ちていた。


「あんた、本当に大馬鹿だねえ。御三家・御家門の大譜代、天下の會津藩侯様が、こんな薄汚い人足現場で蒸し焼きになって死にかけたなんて、御公儀の記録にゃあ逆立ちしても残せませんよ」


「…全く以て不敬であるぞ、勝」


 容保も肩で息をしながら、血と泥にまみれ、皮が剥けてヒリヒリと痛む自分の掌を、まるで勲章でも見るかのように見つめた。そして、空に向かって清々しい顔で笑った。


「だが、悪くない。これが、其の方の言う『Real』の重さか。ずしりと、クるな」


「違げえねえ」


 勝はニヤリと笑い、懐からクシャクシャになった紙巻き煙草を取り出した。南山・入安島産の葉を使った、香りの強い安煙草だ。雨に濡れて火はつかないが、彼はそれを口に咥え、うまそうに空気を吸い込んだ。


「殿様。いや、エゲレス式に名前ファーストネームで呼ばせてもらいまさァ。容保さまよ。あんたさまとなら、作れるかもしれねえな」


 勝は、立ち上がりかけた容保に手を差し伸べた。その手は、ゴツゴツとしていて、油の臭いがした。


「面白れえ国が。綺麗事だけじゃねえ、泥と鐵と、血の通った国が」


 容保はその手を取り、力強く握り返した。その握力は、もはや温室育ちの殿様のものではない。鐵の冷たさと、熱さを知った男の手だった。


「余もだ。勝。其の方の数々の無礼、これからは許してやる。だから、余を支えろ。…これからの余には、民のために泥をかぶり、その上でそろばんを弾ける、計算高い男が必要だ」


 雨はいつの間にか上がり、西の空には雲の切れ間から強烈な夕日が差し込んでいた。その茜色の光が、二人の泥だらけの顔と、江戸湾に屹立する要塞、そしてその向こうに無限に広がる太平洋を、黄金色に照らし出していた。


 これが、後に南山共和国の「国父」として並び称されることになる二人の、最初の共闘であった。  品川の風は、油と潮、そして微かに、まだ誰も知らない新しい時代の匂いがした。





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