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第8話 薩英戦争 - 生麦の銃声と賠償金

文久三年(一八六三年)五月九日


 ゴールドという金属は、不思議な性質を持っている。それは鉄よりも柔らかく武器にはならない。だが、時として鉄の大砲よりも雄弁に語り、鉛の弾丸よりも深く人の心を穿つことがある。


 この日、橫濱の英国公使館の中庭には、その「金」の魔力が物理的な重量を伴って積み上げられていた。


 数日前、江戸城から運び出された木箱の山。その数、百十箱。中身はすべてメキシコドル銀貨と、南山・入安島の金山から精錬されたばかりの純金の延べインゴットである。


 総額、十一万ポンド(約四十四万ドル)


 それは前年九月に生麦村で起きた、薩摩藩士による英国人殺傷事件、いわゆる「生麦事件」に対し、徳川幕府が英国に支払う賠償金の全額であった。


 公使館のテラスでは、英国代理公使ジョン・ニールと、幕府外国奉行・小笠原長行が対峙していた。ニールの表情は、勝利者のそれではない。むしろ目の前で繰り広げられる光景に、狐につままれたような困惑の色を浮かべていた。


「…小笠原殿。確認だが、これが全額か?」


 ニールが、山積みされた木箱を指差して問うた。


 英国政府が突きつけた賠償金要求は、法外なものであった。日本の国家予算を揺るがし幕府を破産に追い込むことで、さらなる利権を引き出す算段があったからだ。だが、幕府の対応は英国の予想を斜め上に裏切った。


「左様。十一万ポンド、耳を揃えてお支払いいたします」


 小笠原は、扇子をパチリと鳴らし涼しい顔で答えた。彼の背後には勘定奉行の配下たちが、山形製の高性能計量器を使って淡々と金銀の重量を検品している。その手際は銀行の窓口業務のように事務的で、屈辱感など微塵も感じさせない。


「値切りも、分割払いもなしか?」


「必要ございません。我々にとって、信用は何よりも重い。

不慮の事故で貴国民が亡くなられた事は遺憾ですが、その代償を支払う能力が我々にあることを、世界に示す良い機会でもあります」


 小笠原は懐から一枚の書状を取り出した。それは南山総督府から届いたばかりの、金塊の船荷(ビル・オブ)証券(・レイティング)であった。


「実のところ、この金は江戸の蔵から出したものではありません。

南山の入安金山で先月採掘され、精錬所から直送されたものです。

いわば幕府にとっては『あぶく銭』…いえ、余剰利益キャピタル・ゲインのようなものでしてな」


 ニールは絶句した。英国が大艦隊を派遣し戦争をチラつかせて脅し取ろうとした大金が、この東洋のサムライの国にとっては「余剰利益」に過ぎないというのか。


 これは賠償金の支払いではない。


「金ならある。文句があるなら金で頬を叩いてやるから、さっさと黙れ」


という圧倒的な経済強者による示威行為デモンストレーションであった。


「…恐ろしい国だ。貴国は無限の財布を持っているのか」


「無限ではありませんが、底は深いですな」


 小笠原は、不敵に微笑んだ。


      ◆


 生麦事件。それは薩摩の田舎侍が「大名行列を横切った」という理由で、馬上の英国人を無礼討ちにした悲劇的かつ前近代的な事件であった。文明国から見れば、野蛮極まりないテロリズム。


 だが、幕府(東國)はこの事件を奇妙な形で利用した。「薩摩の野蛮さ」と「幕府の文明度(支払い能力)」を対比させ、列強に対して「話が通じるのは徳川だけだ」と印象付けるプロパガンダに変えたのである。


「さて、ニール閣下。我々は義務を果たしました。次は貴国の番です」


 小笠原の声が、低く、冷たくなった。


「犯人を隠匿し、引き渡しを拒む薩摩藩への制裁。

期待しておりますぞ。我が海軍も後方支援ロジスティクスの準備は万端です」


 金は払う。だから、薩摩を焼け。幕府は英国の軍事力を傭兵のように使い、目の上のたんこぶである薩摩を叩かせようとしているのだ。


 ニールは、背筋に寒いものが走るのを感じた。目の前の男たちは侍の格好をしているが、その中身はロンドンのシティにいる冷徹な銀行家よりもタチが悪い。


          ◆


 その頃、公使館の門外、人混みの中に、編笠を深く被った一人の男がいた。


長州藩士 久坂玄瑞


 彼は下関での攘夷決行を前に、情勢視察のために横濱へ潜入していたのだが、目の前の光景に激しい目眩を覚えていた。


 次々と運び込まれる木箱。その隙間から漏れ見える、黄金の輝き。それは長州藩の年間予算がゴミ屑に見えるほどの、莫大な富の奔流であった。


(…なんだ、あれは)


 久坂の喉が、からからに乾いた。彼は知っていた。長州がなけなしの金をはたいて中古の銃を買い、農民から鍋釜を供出させて大砲を作っている苦境を。薩摩も同様だ。彼らは貧しい。だからこそ、プライドを守るために異人を斬った。だが、幕府はどうだ。人を殺した代償を南山から掘り出した金塊で、まるで茶屋の勘定を払うかのように処理している。


「…あれが南山の力か」


 久坂の隣で、同じく様子を窺っていた薩摩藩士 大久保一蔵(利通)が、うめくように呟いた。大久保の顔色は死人のように蒼白だった。


 薩摩藩は幕府からの犯人引き渡し命令を拒否し続けている。だが、それは勇気からではない。引くに引けない意地と、そして何より賠償金を払える金がないという、惨めな台所事情ゆえであった。もし薩摩がこの額を請求されれば、藩は即座に破産する。だからこそ彼らは「攘夷」という精神論に逃げ込み、戦って死ぬという破滅的な選択肢にしがみつくしかなかったのだ。


「大久保殿。幕府は、貴藩を売りましたな」


 久坂が囁くと、大久保はギリリと歯ぎしりをした。


「売られたのではない。見捨てられたのだ。…『貧乏人は勝手に死ね』とな」


 大久保の目には涙が滲んでいた。それは悔し涙であり、圧倒的な持てる者へのルサンチマンであった。東國の連中は、金で命を買える。金で外交を動かせる。だが、我々西國には命しかない。土と汗にまみれ、誇りだけを支えに生きてきた我々の命が、彼らの金塊の前ではあまりに軽い。


「…見ておれ」


 大久保は、血を吐くように言った。


「英国艦隊が鹿児島さ来っとなら来っがよか。金はなくち、鉄はなくち、薩摩隼人の意地だっは、金塊じゃ買えんっちゅうこつを思いしらせっやる。灰になろうち、ただじゃ死なんど!」


 それは負け犬の遠吠えにも聞こえた。だが、久坂は感じ取っていた。この圧倒的な絶望こそが、西國の人間を「化け物」に変えるのだと。どす黒いエネルギーが、ここ横浜の華やかな表通りから排除された路地裏で、静かに、しかし臨界点に向かって高まりつつあった。


       ◆


 賠償金の支払いが完了したその夜。横浜港の沖合、暗い海面にその巨体を横たえる幕府海軍の旗艦『開陽』 オランダのドックで建造され、英国の最新技術で改修されたこの装甲コルベットの艦長室で、軍艦奉行並・勝海舟は、英国東インド・中国艦隊司令官オーガスタス・レオポルド・キューパー提督と向かい合っていた。


 マホガニーのテーブルの上には、南山・北嶺島の我射場渓谷で醸造された極上の赤ワインと、一冊の精密な海図が広げられている。それは鹿児島湾(錦江湾)の詳細な水深図であった。


「では、提督。鹿児島への『遠征』。ご武運をお祈りします」


 勝が流暢な英語で言いながらグラスを掲げると、その琥珀色の瞳の奥に、冷ややかな、しかしどこか自嘲めいた光が揺らめいた。


 キューパーは即座にはグラスを手に取らなかった。 白髪の混じった髭を撫でながら、目の前の小柄な東洋人を、まるで新種の深海生物でも見るかのような目で凝視した。


「勝殿。私は長い軍歴の中で、数多の戦争を見てきた。インドで、中国で。だが、これほど奇妙で、そしてこれほど『不愉快な』戦争は初めてだ」


 提督の声には隠しきれない困惑と、ある種の嫌悪感が混じっていた。


「自国の領土が、外国の艦隊によって攻撃されようとしているのだぞ? しかも、そのための水先案内人と石炭を、中央政府である貴殿らが提供し、あまつさえ『もっとやれ』とけしかける。これは国家としての自殺行為(suicide)ではないのか?」


「自殺? ……違いますな」


 勝は、ワインをゆっくりと揺らした。クリスタルグラスの中で渦巻くルビー色の液体は、これから薩摩の地で流れるであろう同胞の血の色に似て、不吉な粘度を帯びていた。


「あれは外科手術(surgery)ですよ。提督」


「外科手術だと?」


「ええ。薩摩という国は、日本という身体に巣食った、巨大な腫瘍なのです。彼らは『攘夷』という熱病に冒され、自分たちが世界の中心だと錯覚している。このまま放置すれば、その熱病は全身に転移し、日本は壊死するでしょう」


 勝は、海図上の桜島を指先でトントンと叩いた。


「患部を切除し、膿を出し切らねば、国は生き残れない。だが悲しいかな、我々幕府の手にはその手術を行えるだけの鋭利なメスがない。だから貴国のメスをお借りするのです」


 勝の言葉は、論理的には完璧であった。だが、その論理の冷徹さが、逆にキューパーを戦慄させた。この男は自国民がアームストロング砲で挽肉にされる光景を想像しながら、それを治療と呼んでいるのだ。


「治療費、生麦の賠償金十一万ポンドは耳を揃えて前払いしました。ですから提督、手加減は無用ですぜ。中途半端な慈悲は、患者のためになりません。骨が見えるまで焼いてやってください」


「君たちは、悪魔か?」


 キューパーは呻くように言った。彼は気づいたのだ。自分たち大英帝国艦隊がこの東洋の島国において、主導権を握っているわけではないことを。


 彼らは砲艦外交を行っているつもりだった。だが実際には、徳川幕府という巨大なコングロマリットの傭兵として、あるいは社内抗争の道具として、金で雇われ、利用されているに過ぎないのではないか。


「悪魔? 買い被りですな」


 勝は、顔を歪めてニヤリと笑った。


その笑顔は、能面のように張り付いていたが、その奥底には、血を吐くような葛藤が渦巻いていた。


「私はただの、経済人(economist)ですよ。感情よりも貸借対照表(バランスシート)を信じるだけのね」


 嘘だ、と勝は心の中で叫んでいた。平気なわけがない。薩摩には友がいる。西郷隆盛、大久保利通。彼らがどれほど純粋に国を憂い、どれほど真剣に生きているか、勝は誰よりも知っている。


 彼らは敵だが尊敬すべき「侍」だ。だが、だからこそ、彼らは死なねばならない。


 「侍」のままでは、これからの時代、南山の資源と金融資本が支配する冷酷な一九世紀を生き抜くことはできないからだ。


(許せ、西郷。お前さんたちは、一度死んで、生まれ変わらなきゃならねえんだ。俺たちが用意した、この残酷な手術台の上でな)


 勝は、あえて悪役(マキャベリスト)の仮面を被った。彼らが「攘夷」という迷妄から覚め、近代化の本当の痛みを知り、そして幕府(東國)と同じ「リアリズム」の土俵に這い上がってくるためには、圧倒的な暴力による蹂躙が必要だった。


 言葉では通じない。痛みだけが、彼らを目覚めさせる。そのためなら、故郷の土が焼かれることも、無垢な民が死ぬことも辞さない。それが勝海舟や小栗忠順、そして松平容保が共有する狂気じみた合理性であり、呪われた愛国心であった。


「わかった。仕事は遂行しよう」


 キューパーは、ようやくグラスを手に取った。彼は悟ったのだ。目の前の男は国を売っているのではない。国を買うために魂を悪魔に売り渡したのだと。


 そして、そのような男たちが舵を取るこの国は、いずれ大英帝国にとって、清国のような獲物ではなく、恐るべき「競合相手ライバル」になるであろうと。


「乾杯しましょう、提督。残酷で、美しい文明のために」


 チン、と硬質な音が響いた。それは、二ヶ月後に鹿児島で鳴り響くことになる、破滅と再生の鐘の音の前奏曲であった。


          ◆


 二ヶ月後の八月


 英国艦隊七隻は、鹿児島湾へ向けて出撃する。


 薩英戦争。  


 暴風雨の中で行われたその砲撃戦は、薩摩藩にとっての過酷な「鉄の洗礼」となった。城下町は焼かれ、集成館は破壊され、多くの命が失われた。だが、その灰の中から薩摩は不死鳥のように蘇ることになる。


 彼らは悟ったのだ。攘夷は不可能であると。そして、勝つためにはイギリスと手を組み、彼らの技術と武器を取り入れ幕府を倒すしかないと。


 歴史の皮肉と言うべきか。薩摩を近代化させ、倒幕の最強兵団へと変貌させるきっかけとなったこの戦争の戦費、石炭代、砲弾代、水兵の給料のすべてが、幕府が支払った「生麦事件の賠償金(南山の金塊)」によって賄われていたことを、硝煙の中で戦った薩摩の兵士たちは知る由もなかった。


 生麦の銃声は、一人の英国人の死を招いた。


 だが、その銃声に対する賠償金という回答は、日本という国の背骨を軋ませ、東と西の亀裂を、もはや言葉や妥協では修復不可能な深淵へと広げてしまったのである。


 金貨のチャリン、という音は、弔いの鐘の音よりも高く、冷たく、歴史の空に響き渡っていた。その音を聞きながら、勝海舟は一人、艦長室で飲み干したワインの苦味を噛み締めていた。


「生きろよ、西郷。地獄で会おうぜ」





最後までお付き合いいただき感謝します。

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