第6話 下関戦争 - 馬関の狂熱あるいは鐡の洗礼
文久三年(一八六三年)四月 長州・萩
その年の春、長州藩の城下町・萩を包む大気は、熟れすぎた果実が腐敗し、内側から発酵して破裂する直前のような、甘く、そして致死的な熱気を帯びていた。
日本海から吹き付ける湿った風は、路地裏にたむろする失業した下級武士や、重税に耐えかねて田畑を捨てた農民たちの洗われていない着物の臭いと、焦げ付いたような殺気を運んでくる。
彼らの眼窩は深く落ち窪み、その奥には明日への希望ではなく、この閉塞した現状を打破してくれる「劇的な破滅」を渇望する飢えた獣の光が宿っていた。
この日本列島において経済的な格差は、もはや修復不可能な東西の断絶として顕在化していた。
東國:幕府と會津・仙台・山形を中心とする関東・東北・東海の連合体は、南山や入安を始めとする植民地の独占をテコに、巨大な産業資本主義の実験場と化していた。
彼らが享受しているのは、単なる牛肉や時計といった表面的な豊かさではない。南山からパイプラインのように供給される資本と、海外からリアルタイムで導入される最新の技術体系そのものである。
横須賀や横濱のドックには、公費や海外からの投資によって建設された最新鋭の造船施設が稼働し、そこで建造された蒸気船がアジアの海運を支配しつつある。幕府の蔵には関税収入と為替差益が唸りを上げて積み上がり、その金がさらなる投資を生むという、悪魔的に幸福な循環サイクルが完成していた。
対照的に、西國:長州、薩摩をはじめとする西日本諸藩は、その繁栄の燃料として搾取されるだけの存在へと転落していた。
誤解してはならない。長州藩も薩摩藩同様に決して技術的に無知蒙昧な田舎者ではなかった。 事実、萩の郊外や恵美須ヶ鼻には藩の先覚者たちが血の滲むような努力で建設した反射炉や造船所が存在し、硝子製造所や製鉄所も稼働していた。彼らには、東國に劣らぬ近代化への意志と基礎技術のキャッチアップがあったのだ。だが、彼らには致命的に欠けているものがあった。素材と市場である。
高品位な鉄鉱石、安定した火力を生む無煙炭、そして精密機械を動かすための潤滑油。これら南山産や国外産の必須資源や物資は、すべて幕府が独占的に管理し、西國への供給を厳しく制限していた。
結果、長州の工場は燃料不足で火を落とした高炉のように冷え切り、技術者たちは手持ち無沙汰に錆びゆく機械を磨くしかなかった。
彼らは自らの手で作り出した産物(蝋、紙、米)を、幕府が指定する不当に安いレートで買い叩かれ、逆に東國製の高価な工業製品を買わされるという、国内植民地の屈辱に喘いでいたのである。
「攘夷」- その言葉が、熱病のように藩内に蔓延したのは、必然であった。彼らにとっての攘夷とは、単なる「異人嫌い」ではない。自分たちの産業を窒息させ、富を吸い上げる幕府という仲介業者と、その背後にいる南山という黒幕(完全な誤解ではあるが)に対する、生存本能に基づいた経済封鎖解除の要求であり、同時にそれらを動かす体系そのもののに対する破壊衝動であった。
しかし、ここに悲劇的な逆説が存在した。 彼らがその「憎き夷狄」を打ち払うために必要とする大砲やライフル、そして蒸気船を手に入れるためには、彼らが否定しようとしている経済活動に、より深く依存し、より多くの富を敵に支払わねばならないという自己矛盾である。
「夷狄を殺すための鉄砲を買う金で、夷狄が肥え太る」
この逃れようのない地獄の輪舞曲が、長州の若者たちの精神を論理的な思考から、破滅的な狂気へと追いやっていた。
◆
松下村塾跡・奥座敷
その狂気の中心に、一人の男がいた。
長州藩尊攘派の若き指導者、久坂玄瑞である。彼は同志たちの前で叫ぶアジテーターとしての顔とは裏腹に、今は静寂の中で文机にかっていた。手には筆を持ち、妻・文への手紙をしたためている。その筆致は驚くほど繊細で、文面には妻の健康を気遣う、心優しき夫の情愛が溢れていた。
彼は本来、優秀な医師であった。人の命を救い、病苦を取り除くことを天職とする、理知的なヒューマニストである。だからこそ彼には見えてしまっていたのだ。「西國」という名の患者が、末期的な癌に冒されている事実が。
(……患部は深い。東國という腫瘍が、国全体の栄養を独り占めし、西國という四肢を壊死させようとしている。……もはや、投薬では間に合わぬ)
久坂は筆を置き、傍らにあった医学書を閉じた。彼の医師としての倫理観が、過激な結論を導き出していた。すなわち「外科手術」である。たとえ手術中に患者が出血多量で死ぬ危険があったとしても、このまま座して腐り落ちるよりはマシだ。患部を焼き切り毒を排除する。そのためには執刀医自身が返り血を浴びる鬼にならねばならない。
彼は立ち上がり奥座敷の襖を開けた。そこには眼を血走らせ、飢えた狼のような形相をした同志たちが待ち構えていた。久坂の表情から夫としての優しさも、医師としての慈愛も、一瞬にして消え失せた。残ったのは蒼白な炎を宿した、革命家テロリストの仮面だけであった。
「……待たせたな」
久坂は、床の間に置かれた、ある「物体」を手に取った。
それは、密貿易で手に入れた南山製の「パイナップルの缶詰」であった。 鮮やかなラベル、精巧なブリキの輝き。中には極上の砂糖水に浸された南国の果実が眠っている。 それは文明の勝利の結晶であり、同時に長州が決して手に入れられない「豊かさ」の象徴でもあった。
ガァンッ!!
久坂は、その缶詰を、全霊の憎しみを込めて土間に叩きつけた。 ブリキがひしゃげ、甘い汁と共に黄金色の果肉が無惨に飛び散る。
「見よ! これが東の豚どもが貪っている『餌』だ!」
久坂の声が、狭い室内に雷鳴のように響き渡る。
「彼奴らはこの甘い毒と引き換えに魂を売ったのだ!
東國の技術、東國の資本、東國の独善!
それらが我々の手足を縛り、喉を締め上げている!
我々の造船所には鉄がなく、我々の子供には米がない。
なぜだ!? 我々が劣っているからか? 断じて違う!
この国の仕組みそのものが、我々を殺すように巧まれているからだ!」
同志たちの喉が鳴る音が聞こえるようだった。彼らの鬱屈した情念に、久坂の言葉が火をつけていく。
「もはや、議論の時は過ぎた。
公儀は、この毒に侵され、脳の髄まで腐っている。
腐り切って役立たずの頭に代わり、我々が手足となって動くしかない!
毒を焼き払え! この腐りきった日本という患者を救うために、
我々が尊攘の炎という刃を入れるのだ!」
「応ッ!」
「やったりましょう、久坂先生!」
「死ぬなら今だ!」
集まった若者たちが呼応する。
彼らは知っていた。長州の軍事力では列強にも、そして金にあかせて武装した幕府軍にも勝てないことを。
だが、もはや勝算などどうでもよかった。彼らが求めているのは、勝利ではない。この窒息しそうな閉塞感を、物理的な破壊音と共に粉砕すること。世界に向けて、
「俺たちはここにいる、俺たちは怒っている」
という証明を刻みつけること。
それは、行き場のない子供が癇癪を起こして家を焼くような、純粋で、それゆえに止めることのできない破滅への衝動であった。久坂は熱狂する同志たちを見渡しながら、心の中で冷徹な医師の自分に別れを告げた。
(文、すまない。……私は、日本という国と心中する)
こうして、理知的な医師は狂信的な指導者となり、技術立国を目指した長州藩は、自らの技術を自爆のために使うテロ国家へと変貌した。
◆
文久三年五月十日
朝廷から無理やり引き出した「攘夷決行」の詔勅を錦の御旗に、長州は自ら破滅へのトリガーを引くことになる。それは、飢えた狼が、自らを囲う文明に牙を突き立て、その硬さに歯を砕かれるための、悲しき遠吠えの始まりであった。
◆
文久三年(一八六三年)五月十日 馬関海峡
その日、本州の最西端と九州の最北端が、まるで許されぬ恋人同士のように身を寄せ合う関門海峡、通称、馬関海峡の潮の流れは普段よりも早く、そして鉛を溶かし込んだように重く淀んでいるように見えた。この狭隘な水道は、古来、壇ノ浦の源平合戦しかり、日本の歴史の地殻変動が起きる際には、必ずと言っていいほど大量の血と鉄を要求する魔所である。
亀山八幡宮の境内に急造された砲台。
その指揮官席に立つ久坂玄瑞は、眼下の海峡を我が物顔で通過しようとする一隻の商船を、医師が末期の癌患者を見つめるような、悲哀と決意の入り混じった瞳で見下ろしていた。
アメリカ商船ペムブローク号。星条旗を掲げ、南山から横濱へ向かう途中、潮待ちのために錨を下ろしているその船の喫水線は、たっぷりと深く沈み込んでいた。 積荷は明白だ。南山のプランテーションで作られた砂糖、ゴム、そして東國の工場へ運ばれる鐵や銅や鉱石たちであろう。
久坂の眼には、その船が単なる民間輸送船には見えなかった。それは、日本という母体の血液(富)を吸い上げ、それを東國という肥満体の腹へと運ぶ巨大な寄生虫に見えた。
(このままでは、日本は壊死する。東國だけが肥え太り、西國は栄養失調で腐り落ちる)
「庚申丸、癸亥丸、配置につきました」
伝令の報告に、久坂はゆっくりと駿府製の安物の懐中時計を確認し頷いた。
長州藩海軍。といっても、その実態は商船に旧式の大砲を無理やり縛り付けただけの、急造の武装商船団である。だが、彼らの士気だけは沸点を超えていた。
「始めようか。これが、死にゆく患者への最初の手術だ」
久坂は、低く、しかし腹の底から絞り出すような声で命じた。
「撃てッ! あの不浄な船を、海の藻屑とせよ!
帝の海を汚し、我らの富を盗む夷狄と、それに媚びる東國の豚どもに、神州の怒りを思い知らせてやるのだ!」
ドォォォォォン!!
亀山砲台の旧式青銅砲が鈍い音と共に火を噴いた。 同時に海上の『庚申丸』と『癸亥丸』からも、豆鉄砲のような砲撃が開始された。それは近代海戦の常識セオリーからすれば、あまりに無謀で滑稽なほどに稚拙な攻撃であった。
無通告の砲撃。
国際法もへったくれもない純然たるテロリズム。
砲弾の一発が、まぐれ当たりでペムブローク号の帆柱をへし折り、甲板に大穴を開けた。不意を突かれたアメリカ船は反撃もままならず、黒煙を上げながら逃走を図る。長州兵たちはその無様な背中を見て、狂ったように歓声を上げた。
「やったぞ! 夷狄が逃げていく!」
「攘夷だ! これぞ攘夷精神の勝利だ!」
久坂は、歓喜する兵士たちの背中を見ながら、口元だけで冷たく笑った。彼らは「勝った」と思っている。だが、久坂にとってこれは勝利ではない。「賽を投げた」に過ぎないのだ。 これで幕府は狼狽し、世界は長州を敵と認識する。退路は断たれた。もう後戻りはできない。
一度流れた血は、さらなる血を呼び寄せる。馬関海峡は、熱病に浮かされたような狂騒の舞台となった。
五月二十三日
フランスの通報艦キャンシャン号が、何も知らずに海峡へ進入してきた。
長州軍は、獲物を待ち構える蜘蛛のように、息を潜めて待った。船が海峡の最も狭い場所、逃げ場のない「死の回廊」に入った瞬間、久坂の指揮する各砲台が一斉に火を噴いた。
不意打ち。十字砲火。
キャンシャン号は操舵不能に陥りかけながらも、必死の操船で脱出したが、その船体には無数の弾痕が刻まれた。
「見たか! フランスの軍艦も恐るるに足らず!」
長州の自信は、慢心へと変わり、そして信仰に近い確信へと肥大化していった。
五月二十六日
運命の歯車が決定的な音を立てて噛み合った。オランダ東洋艦隊所属のコルベット艦メデューサ号の来航である。久坂は、望遠鏡の中に映るその船影を見て一瞬息を呑んだ。マストにはオランダ国旗。だが、艦橋には見覚えのある紋章が見える。
「三つ葉葵」
この船には、オランダ外交代表ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック及び幕府の役人たちが水先案内人として乗艦していたのだ。これを撃てば長州は世界だけでなく、幕府に対しても明確な「反逆」の狼煙を上げることになる。
(好都合だ)
久坂の中の「扇動者」が囁いた。
(ここで躊躇えば、攘夷は単なる外国人排斥運動に終わる。だが、幕府ごと撃てば、これは『倒幕』への聖戦となる)
「構わん。撃て」
久坂の命令は冷徹だった。砲台が轟き、さらに海上の『癸亥丸』が信じがたい行動に出た。蒸気機関を持つ近代軍艦メデューサ号に対し、帆走の武装商船である癸亥丸がまるで巨象に挑む狂犬のように、至近距離まで肉薄し砲戦を挑んだのである。
ドガァァァン!!
メデューサ号の船体が揺れる。長州の放った砲弾が、船体に大きな被害を与えた。だが、癸亥丸もまた、メデューサ号の正確な反撃を受け、甲板は血の海と化した。それでも長州兵たちは退かなかった。彼らは密輸したライフルを甲板で構え、軍艦の乗組員を狙撃し続けた。その姿は勇猛というよりは、もはや死に場所を求める亡者のようであった。
結局、メデューサ号は一七発の被弾を受け、多数の死傷者を出しながらも周防灘へと逃走した。海峡には黒い煙と勝利の雄叫びが残された。
久坂は、逃げていくオランダ船を見送りながら、胸ポケットの懐中時計を取り出した。秒針は正確に時を刻んでいる。だが、長州の時間はここですべて止まった。
アメリカ、フランス、そしてオランダ。世界の海軍国を敵に回し、さらに幕府との手切れも決定した。 完全なる孤立。これこそが、久坂が望んだ「毒抜きの舞台」であった。
「さあ、来るぞ。東國の豊かさを支える『鉄の怪物』たちが。
我々の情熱が勝つか、彼らの物理法則が勝つか。神のみぞ知る実験だ」
彼は、硝煙に汚れた白衣の袖で口元を拭った。そこには、喀血による赤い血が滲んでいたが、彼はそれを気にする風もなく、ただ水平線の彼方を睨み続けていた。その彼方には南山の石炭を腹一杯に詰め込んだ、圧倒的な報復の艦隊が集結しつつあることを、彼は予見していた。そして、それこそが彼の待ち望んだ死神であることも。
◆
文久三年(一八六三年)六月
情熱は、物理法則を曲げることはできない。
精神は、炸薬の化学反応を止めることはできない。
長州藩が馬関海峡で演じた一ヶ月足らずの勝利の美酒は、世界帝国という名の冷徹な教師が振り下ろした巨大な鉄の定規によって、瞬く間に鉄錆と血の味へと変わることになった。
報復は、人間的な慈悲や躊躇を一切排し、ただ因果律のみに従う自動機械のように、迅速かつ圧倒的な質量をもって行われた。
まず現れたのは、アメリカ軍艦ワイオミング号である。
六月一日
単艦で海峡に侵入したこの黒船は、長州の砲台が放つ弾丸など意に介さず、正確無比な操船で長州海軍の停泊地へと肉薄した。そして、事務的に、あるいは害虫駆除のような手際で、十一インチ・ダールグレン砲を放った。
ドォォォン!!
先日までの英雄、庚申丸、癸亥丸、壬戌丸。
長州の虎の子の艦隊はものの数十分で木端微塵に粉砕され、燃え盛る木屑となって海面を漂った。船員たちは海に投げ出され、ある者は破片に貫かれ、ある者は流出した重油が燃え広がる火の海の中で、断末魔の叫びを上げながら炭化していった。
だが、これは単なる前奏曲に過ぎなかった。
真の地獄は、フランス国旗を掲げてやってきた。
六月五日
フランス提督ジャレス率いる軍艦セミラミス号およびタンクレード号来襲。
その日、下関の空は残酷なまでに澄み渡り、雲一つない快晴であった。初夏の陽光が関門海峡の波頭をキラキラと輝かせていた。だが、その美しい青空は瞬く間に、長州人が子々孫々に至るまで生涯忘れることのできない鉄の豪雨によって、どす黒く塗り潰された。
フランス艦隊は、長州の旧式青銅砲の射程外の安全圏に停泊すると、感情の欠片もない数学的な正確さで砲門を開いた。彼らが使用したのは、最新のパイクス砲と着弾と同時に炸裂する榴弾である。 長州兵たちが導火線に火をつけて神に祈る間に、フランスの砲弾は計算された放物線を描き、ヒュルルルという死の口笛を奏でながら、亀山八幡宮や前田の砲台を直撃した。
ズガンッ!! ギャアアアアッ!
轟音と共に世界が赤い霧に包まれた。炸薬の爆風で人体が千切れ飛び、長州が誇った大砲が、まるで飴細工のように無惨にひしゃげる。
「我々は神州の……!」
と叫ぼうとした守備隊長の言葉は、彼の頭部がスイカのように破裂したことで永遠に失われた。彼らが信じていた維新精神という精神の鎧は、ニトロ化合物の化学エネルギーの前には、薄紙一枚の役にも立たなかったのである。
さらに、この地獄絵図には歴史の悪意とも言うべき最大の皮肉が隠されていた。海峡に浮かぶフランス艦隊の煙突から絶え間なく吐き出されている黒煙。その臭いは日本の炭とは違う、独特の硫黄臭を含んでいた。そのボイラーで燃やされているのは、他ならぬ南山・北嶺島ワイカト炭鉱から産出された最高級の無煙炭であったのだ。
幕府が独占し列強への支払いや東國の工場のために供給していた産業の血液。長州が喉から手が出るほど欲し、しかし幕府によって供給を断たれていたその黒いダイヤが、敵であるフランス艦隊の動力源となり、長州の国土を焼き払っている。
いわば、長州は徳川の植民地の富によって、顔面を殴りつけられているようなものであった。 南山の石炭が焚かれ、その熱が蒸気機関を回し、その動力が船を操り、そして砲弾を運ぶ。この一連のエネルギー変換プロセスの末端で、長州の侍たちが物理的に粉砕されていく。
そして惨劇は陸上へと移行した。砲撃によって沈黙した前田砲台に向け、フランス軍は陸戦隊二五〇名を上陸させた。彼らは純白のゲートルを巻き、最新のミニエー銃を構え、泥濘の海岸を一糸乱れぬ隊列で進軍してきた。その姿は、人間というよりはプログラムされた殺戮人形のようであった。
対する長州側は、奇兵隊の前身ともいえる有志隊や武士たちが迎撃に向かった。彼らは勇敢だった。あまりに勇敢すぎた。
「夷狄め! 神州の土は踏ませぬ! 死ねぇぇぇッ!」
降り注ぐ雨の中、泥に足を取られながらも、長州武士たちは先祖伝来の鎧に身を包み、日本刀を振りかざして突撃した。
距離、百メートル。フランス指揮官のサーベルが振り下ろされる。
「Feu(撃て)!」
パン、パン、パン、パン!
乾いた、しかし密度の高い連続した破裂音が響き渡る。前列の武士たちが、まるで見えない巨大なハンマーで殴られたかのように後方へ弾き飛ばされた。
ミニエー弾の回転する鉛の塊は、鎧の薄い鉄板を紙のように貫通し、骨を砕き、肉を抉り、背中から拳大の穴を開けて飛び出した。内臓を撒き散らして倒れる者、顎を吹き飛ばされて喉を鳴らす者。剣術の達人も、死ぬ気で磨いた抜刀術も、敵に触れることさえできずに泥の中に沈む。
接近戦になれば勝機はある。そう信じて死体の山を越え、数名の武士がフランス兵に肉薄した。だが、そこで待っていたのは、冷徹な銃剣の壁だった。銃口に装着された長い刃が、正確にサムライの喉元を、心臓を突き刺す。刀を振り上げる有機的な動作よりも、銃を突き出す機械的な動作の方が速い。これもまた冷酷な物理法則であった。
フランス兵たちは、砲台を占拠すると、残された弾薬を海へ投棄し、大砲に「我、ここを征服せり」という屈辱的な文字を刻み込んだ。さらに、彼らは近隣の民家や神社に火を放った。古い社が炎上し、その火の粉が雨混じりの空に舞い上がる。それは長州の精神的支柱が、近代火力の前に崩れ去る象徴的な光景であった。
◆
京・洛中 長州藩邸
その頃、遠く離れた京の都で、久坂玄瑞は早馬による悲報を受け取っていた。彼は医師としての習性で、報告書の文字面から、肉が焼け骨が砕ける音をありありと聴いた。
「…半分死んだか」
久坂の声は震えていたが、その表情は奇妙に明るかった。同志たちが死んだ。故郷が焼かれた。だが、これで「毒」は回った。この敗戦によって、長州藩内の日和見主義者たちは一掃され、藩論は「対幕府・対世界」の全面戦争へと統一されるだろう。彼は、自らの手をじっと見つめた。そこには見えない血がべっとりと付着している気がした。
「死んでいった者たちよ、許せとは言わぬ。だが、君たちの血は、必ずや『倒幕』という大輪の花を咲かせる肥料となる」
彼は即座に筆を取り、次の指令を書き始めた。負けてなお、屈してはならない。傷口を広げてでも、世界を混沌へ引きずり込むのだ。
◆
再び、下関
燃え盛る街を、少し離れた丘の上から見下ろしている男がいた。彼は、膝の上に三味線を抱え眼下の地獄絵図を肴に歌を口ずさんでいた。
「……三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい♪……か
へっ、鴉どころか、自分たちが殺されちまったな」
彼の目は燃えてはいなかった。そこにあるのは外科医が腐乱死体を検分するような、冷徹で醒めたリアリズムだけであった。彼は理解したのだ。精神論では鉄には勝てない。刀では銃には勝てない。
東國(幕府)が独占する経済と物量に対抗するには、我々自身がその体系を盗み出し、悪魔に魂を売ってでも怪物になる以外に道はないと。
「武士だの、身分だのと言ってる場合じゃねえ」
彼は懐から、油紙に包まれた一冊の書物を取り出した。 それは、長崎の密貿易ルートを通じて手に入れた、禁断の書。『徳川幕府・南山植民地軍コロニアル・ガード歩兵操典』の写しであった。敵の、それも植民地軍のマニュアルを使って、自分たちの軍隊を作る。侍としてのプライドがあれば吐き気を催すような屈辱だ。だが、高杉は笑った。
「面白れぇ…身分も、家柄も、武士の誇りなんざも捨てっちまって、勝つためだけの、機能的な暴力装置か…」
この瞬間、彼の脳裏には、後に「奇兵隊」と呼ばれることになる、近代日本最強の一角にあった軍事マシーンの設計図が描かれていた。だが、その完成には、もう少しの時間と、さらなる絶望が必要であった。
◆
下関の悲劇的な敗北にも関わらず、長州藩は狂気じみた粘り腰を見せた。彼らは海峡封鎖を解くどころか、幕府の船である「朝暘丸」を砲撃し拿捕するという暴挙(朝暘丸事件)に出たのである。
「夷狄も、それに組する幕府も、等しく敵である」
その孤立無援の狂気は、やがて八月十八日の政変による京からの追放、そして禁門の変という破局へと繋がっていく。傷ついた狼は、降伏を選ばなかった。
代わりに、自らの血の匂いでさらに興奮し、世界すべてを敵に回す道を選んだのである。 その道の果てに、一年後、四国連合艦隊という真の絶望が待ち受けているとも知らずに。
◆
一方、京の都
下関での壊滅的な敗報は、早馬によって翌日の夕刻には、金戒光明寺の會津本陣にもたらされた。
執務室の窓から、燃えるような西の夕焼けを見つめていた松平容保は、家老・田中土佐から差し出された報告書を一読すると、表情一つ変えずにそれを机の上に置いた。その顔には驚きも、同情もなかった。あるのは、物理実験の結果を確認した科学者のような冷めきった納得だけであった。
「……長州が、焼かれたか」
容保はコーヒー豆を挽いた苦い液体を、ゆっくりと口に含んだ。
「自業自得ですな」
田中土佐が、鼻で笑うように言った。彼の顔には、田舎侍が都会の喧嘩に手を出して痛い目を見たことへの、サディスティックな嘲笑が浮かんでいた。明らかな嫌悪感が見えている。
「身の程知らずにも程がある。列強の艦隊が、どれほどの火力か知らぬわけでもありますまいに。手痛いお灸を据えられて、これで少しは西の野良犬どももおとなしくなりましょう」
「いや……逆だ、土佐」
容保はカップをソーサーに戻した。カチャリ、という硬質な音が部屋の空気に響いた。彼の瞳には土佐のような常識人には見えない未来の闇が映っていた。
「彼らは、絶望を知ったのだ。そして、自分たちが信じていた神州不滅の神話が、神話は神話でしかなく、南山の石炭で動く大砲の前には無力であることを悟った。
絶望した人間は、二つの道を選ぶ。土下座して死ぬか、それとも理性を捨てて『化け物』になるかだ」
容保は立ち上がり、壁に掛けられた愛用のスペンサー銃を手に取った。その冷たい銃身を撫でながら彼は続けた。
「長州は死なぬぞ。あの土地の人間は執念深い。奴らは、化け物になって甦るぞ。
東國が『金』と『技術』で軍を作ったのに対し、やつらは『怨念』と『数』で対抗してくる。
侍の誇りすら捨てて、ただ殺すためだけの集団となってな」
容保の脳裏に具体的な男の顔が浮かんだわけではない。だが、彼は論理的帰結として、敵が取りうる最悪の選択肢を正確に予見していた。
これまでの長州は単なる跳ねっ返りだった。正規軍同士の戦いなら、會津の敵ではない。
だが、これからは違う。 彼らは近代戦の恐ろしさを、身を焼かれることで学んだのだ。 東國と同じ土俵 - 火力と組織の土俵 - になりふり構わず上がってくる。
しかも、東國が持っていない、そして持ち得ない武器「失うもののない者の狂気」を携えて。
「……警備を厳重にせよ。浪士組の近藤と土方にも伝えろ。
『これからの京は、思想犯を取り締まる場ではない。武装浪士との市街戦になる』とな」
土佐は、主君の言葉の重みに、思わず背筋を正した。窓の外では西の空が、まるで血を流しているかのように赤く染まっていた。
その赤色は下関の炎の色であり、やがて京の町を焼き尽くすことになる「禁門の変」の予兆でもあった。
文久三年の夏。
下関の砲声は止んだが、それは平和の訪れではなかった。日本という巨大な圧力釜の安全弁が吹き飛び、制御不能な内戦へと突入するための、開始のゴングだったのである。
會津の虎は、檻の中で静かに牙を研ぐ。
西から迫りくる餓狼の群れを、迎え撃つために。
長文に最後までお付き合いいただき感謝します。
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