第5話 世界地図のバタフライ
文久三年(一八六三年)五月
橫濱の海は一九世紀の世界において最も騒々しく、最も複雑で、そして最も「金」と「鉄」の匂いが混じり合う場所であった。
常識的に考えれば、開港からわずか数年の極東の港町など、泥濘んだ道と粗末な桟橋があるだけの、うらぶれた寒村に過ぎなかったであろう。だが、橫濱は違う。埋め立てられた居留地には、ロンドンのリージェント通りを模した赤煉瓦の商館やホテルが建ち並び、ガス灯が整備された大通りを、南山産のゴムタイヤを履いた馬車がひっきりなしに行き交っている。そして港内には、マストの森と言うよりも「煙突の林」が出現していた。
ユニオンジャック(英国)、トリコロール(フランス)、星条旗(米国)、アンドレイ旗 (ロシア)、列強の国旗に混じって、一際多くそして堂々と翻っているのが、徳川の「丸に三つ葉葵」と、南山総督府の「波に千鳥」の旗印であった。
英国公使館の通訳生、アーネスト・サトウ(二十歳)は、グランドホテルのテラスから、その光景を眩しげに見下ろしていた。彼の手には、ロンドンからインド洋経由の高速船で届いたばかりの『タイムズ』紙がある。インクの匂いがまだ新しいその紙面は、世界中で同時に進行している複数の戦争と、その影で蠢く「ある国」の存在を伝えていた。
「……信じられませんな。北米のゲティスバーグ、清国の上海、そしてメキシコのプエブラ……地球上のあらゆる戦場で、ジャポネの影がちらついている」
サトウが独りごちると、向かいの席で琥珀色の紅茶、もちろんセイロン産ではなく、南山・入安島の高地で栽培された最高級茶葉を優雅に啜っていた上司、代理公使のジョン・ニール中佐が、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「ああ、その通りだ。リンカーン大統領は演説で神に感謝し、清国の李鴻章は天に感謝し、フランスのナポレオン三世は自らの運命に感謝しているそうだが……本来なら全員が江戸の将軍に感謝状を送るべきだろうよ」
ニールは、銀のスプーンでカップを軽く叩いた。チン、という澄んだ音が、港の喧騒に吸い込まれていく。
「北軍の兵士が履いているブーツの底は南山のゴムだ。清国の『常勝軍』を率いるゴードン少佐が長江で蒸気船を走らせている石炭は、南山の北嶺島にあるワイカト炭鉱産だ。そして、メキシコに出兵したフランス軍が、現地の疫病に耐えているのは、會津の製薬工場から送られたキニーネのおかげだ」
バタフライエフェクト。北京で蝶が羽ばたけば、ニューヨークで嵐が起きるというカオス理論の喩えだが、この世界ではそれが物理的な、しかも重量を伴った現実となっていた。
一七八七年のジョン・ハンター条約によって、豪州と南洋の権益を英国と分け合った日本は、この一九世紀中葉において、世界最大の戦略物資供給国家へと変貌を遂げていたのである。
「我々大英帝国は、世界の工場を自負しているが……日本はさしずめ、『世界の補給廠』といったところか」
「補給廠、ですか……上手い言い回しですが、笑えませんな」
サトウは手帳を開き、書き留めた。日本の南山進出によって供給された安価で高品質な資源が、太平洋を越え、インド洋を越え、世界のパワーバランスを微妙に、しかし確実に狂わせている。
南軍(南部連合)は、綿花を人質に英仏の介入を期待したが、世界市場にはすでに南山産の良質な綿花が溢れていたため、その外交カードは無効化された。結果、大英帝国は中立を保ち、北軍は日本の硝石で作った火薬で南軍を圧倒している。清国では、太平天国の乱が泥沼化しているが、上海を守る列強の租界軍は、日本から安定供給される石炭と食料のおかげで、籠城戦を耐え抜いている。
「おかげで、ここ橫濱はゴールドラッシュだ。……見ろ、サトウ。あの船を」
ニールが指差した先には、喫水線を深く沈めた巨大な外輪船が、桟橋に着岸しようとしていた。船体には、幕府御用船を示す旗と共に、鮮やかな「井」の字——彦根藩の旗印が見える。
「井伊家の御用船、『金亀丸』ですね。……積荷は、綿花と硝石でしょうか」
「いや、戻り船だ。積んでいるのは、世界中から吸い上げた対価……最新の工作機械、プロイセンの軍事教本、そして大量の『メキシコ銀貨』と『ポンド金貨』だ」
サトウは息を呑んだ。あの大老・井伊直弼は桜田門外で斃れたが、彼の残した彦根藩の商業ネットワーク—「赤鬼の遺産」—は死んでいなかった。それどころか、亡き主君の汚名を雪ぐかのように、彦根の官僚たちは狂ったように交易に邁進していた。彼らは、南山の資源を世界中の戦場に売りさばき、その代金で最先端のテクノロジーを買い漁り、日本へ持ち帰っているのだ。
「日本人は、我々が思っていたような『未開の羊』ではありませんでしたな。……彼らは、羊の皮を被った狼だ。それも、算盤と世界地図を持った狼です」
その時、テラスの入り口が開き、一人の日本人が現れた。仕立ての良いチャコールグレーのフロックコートに、髷を落とした総髪姿。鋭い眼光と、どこか神経質そうな薄い唇。手にはステッキではなく、巻かれた書類束を持っている。
幕府外国奉行 柴田剛中
文久遣欧使節として渡欧し、英仏とタフな交渉を繰り広げてきた、幕府きっての外交のエースである。
「おや、これはニール閣下。それにサトウ通訳官……優雅なティータイムですな。南山の紅茶はお口に合いますか?」
柴田は、オックスフォード仕込みの流暢なクイーンズ・イングリッシュで挨拶し、許可も求めずに空いている席に座った。その態度は、植民地人が宗主国の人間に接する卑屈さなど微塵もなく、対等な、いや、債権者が債務者に接するような傲然たるビジネスパートナーのそれであった。
「柴田様。……また、随分と稼がれたようですな。彦根の船が、腹一杯にドルとポンドを食って戻ってきましたよ」
ニールが皮肉を言うと、柴田は涼しい顔で肩をすくめた。
「人聞きの悪い。あれは正当な商行為です。……リンカーン大統領からも、ゴードン将軍からも、感謝状を頂いておりますよ。『文明と正義を守るために、日本の資源が必要だ』とね。我々は、世界の自由と平等のために協力しているのですよ」
「よく言う。……その『自由』のための硝石で、何万人の若者が吹き飛んだことか」
「戦争とは、需要と供給です。閣下、我々は武器を売っているわけではない。素材を売っているだけです。それをどう使うかは、買い手の道徳の問題でしょう?」
柴田は、給仕を呼んでブランデーを注文した。真昼間から酒を煽るほど、彼の神経もまた張り詰めているのだ。
「それに閣下。……我々が世界中で稼がねばならぬのには、理由がある。……北の熊が、冬眠から覚めたようですからな」
その言葉に、ニールの表情が引き締まった。
ロシア帝国
クリミア戦争での敗北後、彼らは南下政策の矛先を極東へと向けていた。ムラヴィヨフ総督による沿海州の獲得、そして樺太への及食。彼らは不凍港を求めて、飢えた獣のように日本海を睨んでいる。日本にとって、そしてその友好国である英国にとっても、ロシアの南下は共通の悪夢であった。
「ロシア艦隊が、対馬周辺に出没しているとの情報があります。……ポサドニック号事件の二の舞は御免ですな」
「ご安心を。……會津中将(容保)が、蝦夷地で『歓迎』の準備を整えております。北の大地には、南山から運んだ最新のアームストロング砲台と、寒冷地仕様のスペンサー銃を持った精鋭が待機している。……熊が手を伸ばせば、その爪ごと吹き飛ばすでしょう」
柴田は、グラスを傾けながら、ふと声を潜めた。
「……だが、我々が真に憂慮しているのは、外敵ではない。……内なる敵です」
「西の方、長州や薩摩のことですな」
ニールが頷く。サトウもペンを止めた。ここからが本題だ。
「彼らは、上海経由で、貴国の商人グラバーや、プロイセンの商人から、武器を買い漁っているようですな……エンフィールド銃に、中古の蒸気船……幕府としては、非常に、極めて憂慮しております」
ニールは表情を硬くした。英国の公式な外交方針は「幕府支持」だが、現場の商人たちは違う。ジャーディン・マセソン商会をはじめとする英国商社は、幕府の貿易独占を崩し、より自由な市場を求めて、反幕府勢力(西國諸藩)に接近していた。彼らにとって、内戦はビジネスチャンスなのだ。
「我々は関知しておりませんな……商人の自由な活動を制限することは、自由貿易の原則に反します」
「結構……ならば、こちらも『自由』にさせていただきます」
柴田は、持っていた書類束を解き、一枚の羊皮紙をテーブルの上に滑らせた。そこには、葵の御紋と共に、鮮烈なタイトルが記されていた。『南山航路保安令』および『領海内における武装船舶取締法』
「今後、南山および日本近海において、幕府の許可なき武器の輸送船は、国籍を問わず『海賊船』とみなし、幕府海軍が臨検・拿捕いたします。……場合によっては、撃沈も辞しません」
「なっ……! 正気か! それは国際法違反だ! 万国公法に照らしても……」
ニールが立ち上がる。だが、柴田は動じない。冷徹な能吏の仮面の下から、かつての武士の殺気が滲み出る。
「国際法? ……閣下、ここは欧州ではない。アジアの海にはアジアの法がある。我が国は、貴国と対等な条約を結んだ独立国です。自国の安全を脅かす密輸船を取り締まる権利がある。それに、我が海軍の主力艦『開陽』と『回天』は、貴国の造船所で作られた最新鋭艦だ。その性能は、誰よりも貴国がご存知でしょう?」
恫喝。
紛れもない、軍事力と経済力を背景にした外交的恫喝である。東洋の島国が大英帝国に対して、海軍力を行使すると宣言しているのだ。だが、サトウは理解していた。これはハッタリではない。幕府は本気だ。そして、それを実行するだけの力、南山の石炭で動き、南山の金で雇われた外国人顧問が指揮する強力な艦隊を持っている。
「……柴田様。貴国は、内戦を始めるおつもりですか? 西の反乱分子を潰すために、国際社会を敵に回すと?」
サトウが静かに問うと、柴田はニヤリと笑った。
「サトウさん。内戦は、もう始まっているのですよ。アメリカでも、中国でも、そして日本でも。
世界中が火薬庫だ。我々だけが平和でいられるはずがない」
柴田は立ち上がり、帽子を被った。
「東の鉄が勝つか、西の情念が勝つか。貴国も賭ける馬を間違えないことですな。負け馬に乗れば、一七八七年以来の友好関係も、南山の利権も、せっかくの投資がすべて焦げ付きますよ」
柴田が去った後、テラスには重苦しい、しかしどこか興奮を含んだ沈黙が残った。港からは、荷揚げ用の蒸気クレーンの唸り声と、人足たちの活気ある掛け声が聞こえてくる。その声は、かつての牧歌的な日本のそれではない。欲望と鉄と蒸気、そして外交という名の欺瞞が混じり合った、近代国家の産声であった。
「……サトウ」
ニールが、疲労の色を濃くした声で言った。
「本国に打電しろ。…『日本の内戦は不可避である。幕府は強大であり、世界経済のサプライチェーンそのものを人質に取っている。…我々は、慎重の上にも慎重に振る舞わねばならない。日本の蝶が羽ばたけば、ロンドンの株式市場が崩壊しかねないのだから』とな」
「イエス・サー」
サトウは、ペンを走らせながら、ふと、世界地図を思い浮かべた。北米大陸で流れる血。上海で上がる火の手。シベリアの凍土を進むロシア兵。そして、日本列島で高まる緊張。すべてが繋がっている。日本という国が放った「南山」という蝶の羽ばたきが、太平洋を越え、ユーラシアを越え、世界中に嵐を呼び、その嵐がまた、増幅されて日本へと跳ね返ってきているのだ。
(……この国は、もう誰にも止められない。自らの重みで砕けるか、それとも世界を飲み込む怪物になるか)
サトウは、黒煙を上げる橫濱の空を見上げた。その空の向こう西の方角、長州の下関には黒船よりも恐ろしい「攘夷」という名の、非合理で熱狂的な嵐が、どす黒い雲となって渦巻いているのが見えるようであった。
文久三年五月。長州藩による下関海峡封鎖と、外国船無差別砲撃事件まで、あとわずかな時間が残されているのみであった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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