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第2話 南山からの便り

安政五年(一八五八年)五月


 安政の江戸の空には、常に二種類の雲が浮かんでいた。 一つは、お天道様が気まぐれに筆を走らせた、白く柔らかな自然の雲。 もう一つは、品川や深川の埋立地に林立する煉瓦造りの煙突群が、大地の底から吸い上げた黒い血を空へと噴き上げたかのような、重く、脂っこい煤煙の雲である。


 嘉永の産業革命以降、お江戸八百八町の風景は、まるで狂った絵師が二つの異なる版木を重ね刷りしたかのような、奇妙な様相を呈していた。


 大川(隅田川)の川面を見れば、猪牙舟ちょきぶねや屋形船といった江戸情緒あふれる木造船の間を縫うように、ポンポンと小気味よい、しかし神経を逆撫でするような排気音を立てて走る蒸気タグボートが我が物顔で往来している。 そのタグボートが引く黒塗りのはしけに山積みされているのは、入安島ニューギニアの熱帯雨林から切り出された巨木であり、南山島ニュージーランドの草原で育った羊の原毛であり、そして何よりも、江戸っ子の胃袋を鷲掴みにしつつある、文明の味が詰まった「ブリキの缶」の山であった。


 神田、鍛冶町。 職人たちが多く住むこの界隈の長屋もまた、昼時ともなれば、かつてとは違う匂いに包まれるようになって久しい。 長屋の共同井戸端から漂う、糠漬けや焼き魚の焦げた匂い。それらに混じって、どこか鼻孔の奥をくすぐるような、バターと牛肉の濃厚で脂っこい香りが、路地の隙間から漂ってくるのだ。それは、古き良き江戸の空気には決して存在しなかった、異質で、強烈な誘惑の香りであった。


「おぅ、とめさんよ。今日もまた、『南』から届いたのかい?」


 大工の熊五郎が、仕事着の股引についたおが屑を払いながら、隣に住む指物師の留吉に声をかけた。  留吉は、長屋の前の縁台にあぐらをかき、異様に角張ったブリキの缶を相手に格闘している最中だった。彼の手にあるのは、南山製の十徳ナイフ(アーミーナイフの原型)。その鋭い刃先で、缶の縁を器用に切り進めている。


「おうよ。弟の次郎の野郎から、定期船の『黒潮丸』に乗っかって届いたんだ。見なよ、このラベルを。牛の絵が描いてあるだろう? 『特選・南山牛』のコンビーフだそうだ」


 ギコ、ギコ、パカッ


 乾いた金属音と共に蓋がめくれ上がると、その瞬間、周囲の空気が一変した。 中から現れたのは、鮮やかな、そしてどこか毒々しいほどに赤い肉の塊である。南山の広大な牧場で放牧され、塩漬けにされて熟成された牛肉の、凝縮された旨味の香り。それは、仏教伝来以来、四つ足(獣肉)を忌避してきた日本人の遺伝子を、暴力的に叩き起こすような匂いであった。


 かつては野蛮人の食い物だと顔をしかめたご隠居連中も、今ではこれは南山の薬肉だなどと屁理屈をつけて、この塩辛い肉を熱い白飯に乗せ、脂が溶け出したところをかき込む快楽に抗えなくなっていた。


「へへっ、景気がいいこって。次郎の野郎、向こうで出世したかね。今頃は椰子の木の下で、昼寝でもしてるんじゃねえか?」


「出世ってほどじゃねぇよ。ただ、向こうは猫の手も借りたいほどの人手不足だ。大工仕事ができるってだけで、こっちの親方の三倍の給金を、それも『南山両』の現ナマでくれるんだとさ。……ほら、これを見な」


 留吉は、懐から大切そうに一枚の厚紙を取り出した。 それは、浮世絵の版画ではない。表面がつるりとした光沢を放つ、白黒の、しかし恐ろしく精緻な絵——写真フォトグラフであった。 そこに写っている光景は、神田の長屋とは別世界だ。 背景には、見たこともない巨大なシダ植物が生い茂るジャングルと、建設中の洋風の木造家屋。その前に、泥だらけの作業着姿で、しかし顔中をくしゃくしゃにして白い歯を見せて笑っている次郎の姿がある。


 そしてその隣には、筋肉の鎧を纏ったような肌の黒い巨漢——現地のパプア人であろう——が、同じように破顔して次郎の肩を抱いている。 身分も、肌の色も違う二人が、同じ太陽の下で、対等に汗を流している。その一枚の紙片から放たれる熱量は、江戸の湿った空気を焼き払うかのようだった。


「へぇ……! こいつが噂の『写真』ってやつかい。魂を抜かれるなんざ嘘っぱちだな、次郎の野郎、こっちにいた時よりいい面構えをしてやがる。目が死んでねえ」


「ああ。手紙によれば、向こうは常夏で、雪も降らなきゃ、薪の心配もいらねぇそうだ。……ただ、蚊と毒虫だけは勘弁だとよ」


 留吉は、コンビーフの半分を、竹の皮に包んで熊五郎に分けてやりながら、煙突の煙に霞む遠い南の空を見上げた。 南山。 それは、この安政の時代の東國庶民にとって、単なる外国や植民地ではなかった。食い詰め者、家督を継げない次男三男、あるいは理不尽な親方と喧嘩した職人。そんな「あぶれ者」たちが、一攫千金を夢見て、あるいは単に明日の飯を食うために海を渡る、巨大な口減らしの場。 だが同時に、そこは「希望」という名の麻薬が手に入る、唯一のフロンティアでもあった。


 向こうに行けば、士農工商なんて関係ない。腕一本あれば、腹一杯の肉が食える。借金取りも追ってこない。 そんな「南山ドリーム」が、酒場の法螺話としてではなく、こうして肉と写真という、圧倒的な質量を持った現実となって定期船で届く。 それが、東國の庶民の精神構造を、根底から、静かに、しかし劇的に変質させていた。 彼らはもう、お上の顔色を伺って縮こまるだけの、従順な民ではない。いざとなれば「ここを捨てて、南へ行けばいい」という、究極の逃げオプションを懐に隠し持った、したたかな民衆に変貌していたのである。


「ありがてぇ。こいつを熱い飯に乗っけて、醤油をちょいと垂らすと……たまらねぇんだよな。脂が飯に染みて、光り輝くんだ」


 熊五郎が、赤身の肉を拝むように受け取ろうとした、その時である。 長屋の前の通りを、異質な空気を纏った数人の侍が通りかかった。 着ている羽織の紋を見れば、彼らが東國の人間でないことはすぐに知れた。薩摩か、あるいは長州か。 彼らの身なりは決して良くはない。袴の裾は擦り切れ、足袋は泥で汚れている。しかし、その体躯から発せられる殺気は、尋常ではなかった。日に焼けた肌と、鋭く、そしてどこか飢えた狼のような眼光。腰に差した刀だけが、異様に手入れされ、冷たい光を放っている。


 彼らは、留吉たちが広げているコンビーフの濃厚な匂いに気づくと、足を止めた。 その視線が、真っ赤な肉の塊に突き刺さる。 一瞬、彼らの喉がゴクリと鳴ったのを、留吉は見逃さなかった。それは、生理的な空腹の反応だった。だが次の瞬間、彼らの表情は、露骨な嫌悪と、どす黒い憎悪へと変わった。そして、地面に溜まった泥水に向かって、ペッと唾を吐き捨てたのである。


「……ッ、ケダモノの臭いがしよる。エドは、人も町も腐っておるわ」


 先頭の男が、吐き捨てるように言った。その薩摩訛りの言葉には、単なる異文化への拒絶以上の、どろりとしたルサンチマンが滲んでいた。 彼ら西國の武士にとって、南山の物資は穢れそのものだ。神州日本を汚す、異国の習慣。そして何より、自分たちが喉から手が出るほど欲しい富を、このような下賤な町人までもが貪っているという事実への、どうしようもない嫉妬。


 彼らの国元では、重税と凶作で農民が土を噛み、下級武士でさえ粥をすすっているというのに、東國では町人が牛肉を食って笑っている。 その理不尽な格差が、彼らの「正義」という名の薪に、嫉妬という油を注ぎ、倒幕という業火を育てていたのだ。


「おい、よせ。目は合わせるな。……揉め事は御免だ」


 熊五郎がカッとなって立ち上がろうとするのを、留吉が目で制し、袖を引いた。 侍たちは憎々しげに二人を、そして赤い肉を睨みつけると、大股で去っていった。その背中からは、「いつかこのふざけた街を、肉の脂ごと焼き払ってやる」という、煮えたぎるような殺気が立ち上っているようだった。


「……怖ぇ目をしてやがったな。ありゃあ、人を斬りたくてウズウズしてる目だ」


「ああ。……最近、ああいうお侍が増えた。西の方じゃ、随分と景気が悪いらしい。……東の煙突が煙を吐けば吐くほど、西の腹が減るって寸法さ」


 留吉は、コンビーフの缶を懐深くにしまった。まるで、大切な護符を隠すように。 平和な長屋の昼下がりに、ふと差した冷たい影。 庶民たちは政治の難しい理屈は分からない。だが肌感覚で知っていた。この繁栄が、何か危ういバランスの上に成り立っていることを。 南からの豊かな熱風と、西からの乾いた殺気。二つの風がぶつかり合い、渦を巻いている場所、それが今の江戸なのだと。


「……次郎の奴に、返事書かなきゃな」


 留吉は、誰に言うともなく呟いた。


「『母ちゃんも俺も達者だ。今はな。……だが、もしこっちで何かが起きたら……空が焼けちまうようなことがあったら、その時は、俺たちもそっちへ呼んでくれ』ってな」


 ボーーーーッ


 郵便船の太い汽笛が、遠く東京湾(江戸湾)から響いてくる。 その重低音は、新しい時代の到来を告げるファンファーレのようでもあり、来るべき破局への警笛のようでもあった。


          ◆


 さて、庶民がコンビーフの脂に舌鼓を打っていたその頃。 江戸城、西の丸。 将軍の私的空間であり、俗世の喧騒から切り離された静寂の場であるこの場所でもまた、一つの「時計」を巡って、静かな、しかし国家の根幹に関わる対話が交わされようとしていた。


第十四代将軍 徳川家茂


 聡明さゆえに、若くして時代の重荷を背負わされたこの英邁な青年は、上段の間で、手の中にある精巧な懐中時計を見つめていた。それは、金無垢のケースに包まれた美しい工芸品だ。蓋の裏には、『Manufactured in Aizu, 1858』の刻印がある。スイスから招聘された時計師と、會津藩のからくり技師が共同で作り上げた、完全国産(ただし、バネや歯車の素材となる特殊鋼は南山製)のクロノメーターである。 秒針が、チク、チク、チクと、正確無比なリズムで時を刻んでいる。その音だけが、広い部屋に冷たく響いていた。


「勝よ……この時計は、正確だな。あまりにも正確すぎる」


 家茂の御前で平伏しているのは、軍艦奉行並、勝海舟である。彼は畳に額をつけながらも、その耳は将軍の声の震えを聞き逃さなかった。


「はっ。日差二秒以内。ロンドンのグリニッジ天文台の基準時計と比べても、遜色ございません。……會津の職人が、南山の硬い鉄を、執念で削り出した歯車でございますゆえ」


「正確すぎるのだ」


 家茂は、寂しげに笑った。その笑顔は、年齢に似合わぬ疲労の色を帯びていた。


「余がこの時計を見るたび、京の帝のお顔が浮かぶのだ。……帝の暮らす京の都は、未だ不定時法の中にある。明け六つに起き、暮れ六つに寝る。季節によって時の長さが伸び縮みする、お天道様と共に生きる、緩やかで、温かい時間だ」


 家茂は立ち上がり、障子を開けた。そこからは、江戸の空を覆う黒い煤煙が見えた。


「だが、余の暮らす江戸は、どうだ。この時計の針に急き立てられるように動いておる。汽車の時刻表、工場の始業の鐘、船の出航時刻……。ここでは、一分一秒が金に換算され、遅れることは罪となる。……余たちは、いつの間にか時間という名の別の神に仕えているのではないか?」


 家茂は聡明であった。聡明すぎたと言ってもいい。  彼は気づいていたのだ。物資や技術の違い以上に、東と西とでは、流れている時間そのものが、決定的に乖離し始めていることに。 定時法で動き分刻みでシステムを回す東國と、自然のリズムと伝統的権威の中で生きる西國。 もはや同じ日本語を話していても、見ている世界、感じている鼓動のリズムが違うのではないか。そのズレはどれほど言葉を尽くしても埋まらないのではないか。


「勝……余は、恐ろしいのだ。この時計の針が進めば進むほど、余と帝との距離が、物理的な距離以上に、永遠に離れていくようでな。……余は、帝の臣でありながら、帝の時間を否定せねば生きていけぬ」


 勝は顔を上げた。 この若き将軍の感性は残酷なまでに本質を突いていた。 産業革命とは時間を資源として管理し、消費する魔法だ。だがその魔法は、古い神々や権威を、非効率な過去のものとして置き去りにしてしまう副作用を持つ。


「上様……時計の針は、戻せません」


 勝は、あえて冷徹な事実を告げた。それが、技術者としての、そして臣下としての誠意だと信じて。


「針を戻せば、日本という船は沈みます。列強という嵐の中で生き残るには、蒸気を焚いて時間を追い越すしかねえのです。……たとえそれが何か大切なものを、置き去りにすることになろうとも。……我々はもう、その列車に乗っちまったのです」


 家茂は、時計をギュッと握りしめた。 その掌の中で、チクタク、チクタクと、無機質な音が響いている。 それは、徳川の世の残り時間を刻むカウントダウンのようでもあり、来るべき分裂への序曲のようでもあった。


「……そうか。戻れぬか。ならば余は、この針が進む先を、……たとえそれが地獄であろうとも、見届けねばならぬな」


 若き将軍の目には、悲壮な決意が宿っていた。彼は、引き裂かれゆく国の痛みを、その一身に受け止める覚悟を決めていた。 だが、歴史の皮肉は、彼にその「先」を見届ける時間を、長くは与えなかったのである。 彼の命の灯火もまた、この激動の時代の風の中で、儚く揺れていた。




最後までお付き合いいただき感謝します。

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