第1話 安政の黒い煙
安政五年(一八五八年)
この年、二百年にわたり南洋の波濤を越えて繁栄を謳歌してきた「海洋帝国日本」の歴史は、静かに、しかし不可逆的な音を立てて二つに裂けようとしていた。
京の都では、大老井伊直弼による過酷な政治犯の冷たい嵐が吹き荒れ、水戸学や国学から転じた国粋的な反西洋文明・反工業化社会を主張する過激な尊皇攘夷を叫ぶ志士たちが次々と縛についたり、あるいは北の流刑地・蝦夷や樺太へ送られたりしていた頃。
江戸から南へ十数里、相模國は橫須賀の空は、どんよりと曇っていた。 といっても、これは梅雨の名残の雨雲ではない。 海沿いに突き出た巨大な煙突群-それは英国のマンチェスターや、あるいは南山・明望の工業地帯にも引けを取らない規模であった-から、絶え間なく吐き出される煤煙が、相模灘の青い空をどす黒い灰色に塗り潰していたからである。 その煙の黒さたるや、葛飾北斎が『富嶽三十六景』に描き残した富士の白雪を、一瞬にして墨絵に変えてしまうほど。土地の古老などは「黒煙突が空を飛んで屁をこいた」などと減らず口を叩いていたが、その目には畏怖よりも、時代の変化に対する諦念と慣れが浮かんでいた。 なぜなら、その煙の下で燃えているのは、遥か四千キロの彼方、南洋の楽園・南山諸島や入安島から大型蒸気船で運ばれてきた「黒いダイヤ」こと、高品質な無煙炭であったからだ。
ここは橫須賀製鐵所。 徳川幕府がその威信と、17世紀以来の南山経営から吸い上げた莫大な富、そして英仏の技術支援を注ぎ込んで建設した、東洋最大の魔窟、あるいは近代文明の心臓部である。
カン、カン、カン、ゴーッ。シュゥゥゥゥ……!
地鳴りのような轟音と、蒸気が噴出する鋭い音が支配するその工場の片隅で、二人の男が並んで巨大な高炉を見上げていた。 一人は、身の丈こそ平均的だが、その眼光の鋭さと、どこか人を食ったような薄い唇、そして仕立ての良いフランス製のフロックコートを着こなす姿が印象的な御仁。
幕府勘定奉行並 小栗上野介忠順
かつて遣米使節として世界を巡り、ワシントン海軍工廠を見て「これだ」と確信した男。彼こそが、この鐵の城の主であり、同時に徳川という巨大な「複合企業体」の最高財務責任者とも呼ぶべき存在であった。
もう一人は、見るからに奇妙な男である。 額が異常に広く、まるでそこだけ禿げ上がったかのように突き出しており、眉間に深い皺を刻んでいる。着ているのは粗末な木綿の着物だが、腰には大小ではなく、南山製の計算尺と、独逸語の技術書を無造作にぶら下げている。 その眼は高炉の中で煮えたぎる鐵よりも熱く、そして外科医のように冷徹に目の前の機械仕掛けを解剖していた。
長州藩士 村田藏六
後の大村益次郎である。
「どうだね、村田殿。これが幕府の心臓だ」
小栗は、自慢の息子を紹介する父親のように、あるいはこれから解剖される死体を前にした外科医のように、象牙のステッキで高炉を指し示した。
「高さ四十五尺、一度火を入れれば三日は燃え続ける。そこらの鍛冶屋が一生かかって叩く鐵を、こいつは昼飯を食う間に吐き出すのさ。……設計はフランスのレオンス・ヴェルニーだが、施工したのは南山帰りの石工たちだ。彼らは入安の鉱山で、蒸気ハンマーの扱いに慣れているからな」
村田は即座には答えなかった。 彼は醫者であり、軍事技術者であり、何よりも冷徹な數字の信奉者だ。彼は圧倒されていたのではない。脳内で高速に計算していたのだ。 この巨大な構造物が消費する石炭の量。投入される鐵鉱石の品位。炉内温度を維持するための送風量。そして、それらを維持するために費やされる気の遠くなるようなコストを。
「……呆れましたな」
しばらくして、村田の口から漏れたのは、称賛とも侮蔑ともつかぬ、乾いた言葉だった。
「呆れたとは、異なことを」
「これだけの高炉を維持するには、一日にどれだけの石炭を食わせるおつもりか。長州中の山をハゲにし、百姓の暖を取る薪をすべて奪い上げても、一月持ちますまい。……これは、化け物だ。國の富を食らい尽くす、鉄の胃袋だ」
「ふふ、そこだ」
小栗はニヤリと笑った。待っていましたとばかりに。
「村田殿、貴殿の計算は正しい。だが、前提が間違っている。……國内の炭なぞ使わんよ。あれは煙ばかり多くて火力が安定せん。ここで燃やしているのは、南山の北嶺島(ニュージーランド北島)のワイカト炭鉱から運んだ、特上の石炭だ。鐵鉱石もそうだ。南山の赤土はな、掘ればそのまま鐵になるほど純度が高い。……それを運ぶ船も、今や帆船ではない。明望造船所で作られた、二千トン級の鉄製蒸気船だ」
村田の広い額が、ピクリと動いた。 南山。 その名は、西國の人間にとって、ある種の呪いのような、甘美で残酷な響きを持っていた。 一六〇〇年代、まだ世界が大航海時代の余熱の中にあった頃、幕府は鎖国という道を選ばず、フィリピン・マニラを経由して南洋への進出を選んだ。以来二百年。そこは、冬がなく、飢えがなく、そして何よりも、近代産業の血液たる資-—石炭、鉄、金、そしてゴム-が無尽蔵に眠る、徳川の私的楽園となっていた。 しかし、その恩恵にあずかれるのは、幕府直轄領と、譜代を中心とした東國の諸藩のみ。関門海峡より西にある長州や薩摩にとって、南山とは絵に描いた餅どころか、隣の家から漂ってくる極上のステーキの匂いのようなものであった。 嗅ぐことはできても、決して口には入らない
「幕府は……この化け物を動かすために、南の島一つ分の山を削っていると?」
「左様。金もかかるが、それ以上の金を生む。この製鐵所で作られたレールが、じきに江戸と橫濱、そして會津を結ぶ。蒸気船のボイラーも、大砲も、すべてここから生まれる。……村田殿、貴殿ならわかるはずだ。これからの國を守るのは、侍の刀ではない。精神論でもない。この絡繰なのだよ。資源を運び、加工し、富に変え、また投資する。この循環こそが、列強と対等に渡り合うための唯一の武器だ」
小栗の言葉には、一点の曇りもなかった。 彼は本気で信じているのだ。鐵と蒸気と複式簿記によって、日本という國を、いや、徳川の天下を万盤石にできると。そしてそれは、事実、東國においては実現しつつあった。
その時、合図の鐘が鳴り響いた。 出銑の時間である。高炉の下部にあるタップホールが、油圧式の開閉機によって開かれると、そこから目が潰れるほどに眩い、摂氏一千五百度のドロドロに溶けた鐵の奔流が溢れ出した。 熱風が二人の頬を打つ。小栗は満足げに目を細めたが、村田はその光景に、地獄の釜の蓋が開いたような、根源的な恐怖を覚えた。
それは、単なる鐵の川ではなかった。 東國と西國の、決定的な「格差」の視覚化であったからだ。
(勝てぬ……)
村田藏六の脳裏を、冷たい計算結果が駆け抜けた。 長州がいかに優秀な若者を育て、明倫館で最新の兵学を教え、尊皇の志を磨いたところで、この物理的な質量差の前には、紙切れ同然ではないか。
彼らが木刀を振り、旧式のゲベール銃の手入れをしている間に、幕府は南山の資源を使って、機関車を作り、装甲艦を作っている。 精神論で機関車は止まらない。気合と裂帛で装甲板は貫けない。 西國には資源がない。 技術を学ぶ頭脳はあっても、それを形にする材料がないのだ。
「どうした、村田殿。顔色が悪いぞ。南山の煙に中ったか?」
小栗が、戯れめいた口調で声をかけた。 村田は、その突き出た額の汗をぬぐいもせず、小栗の方を向いた。その眼には、先ほどまでの驚愕の色は消え、代わりに、もっと深く、暗く、そして底知れぬ決意のような光が宿っていた。
「いや……目が覚めました。良いものを見せていただいた」
「ほう? 長州でも作ってみるかね、反射炉を。……萩の土では、耐火煉瓦が保つかどうか怪しいが」
「作りますとも。……ただし」
村田は、燃え盛る高炉から視線を外し、煤で汚れた橫須賀の空を見上げた。その視線の先には、見えない南の空があった。
「材料が手に入ればの話ですがな。……小栗殿、貴殿の計算には、一つだけ変数が抜けている」
「変数?」
「人の『飢え』です。……豊かな者は、満たされているがゆえに鈍くなる。だが、飢えた者は、生きるためにどんな無茶でもする。……その計算を忘れると、足元を掬われますぞ」
小栗殿、と村田は心の中で呟いた。 貴殿は大きな間違いを犯している。 貴殿はこの豊かさを見せつけることで我々を畏怖させ、服従させようとしたのだろう。だが、それは逆だ。 飢えた犬の目の前で極上の肉をこれ見よがしに焼いて見せれば犬はどうするか。 尻尾を巻いて逃げるか? 否。 鎖を引きちぎってでも飼い主の喉笛に食らいつくのだ。
この日、橫須賀の空を覆った黒い煙は、日本の近代化を告げる狼煙ではあったが、同時に日本を真っ二つに引き裂く内戦の弔いの煙でもあった。 嘉永の産業革命。それは日本に光をもたらしたが、その光が強ければ強いほど西國という影は、より濃く、より深く、その底にどす黒い情念を溜め込んでいったのである。
◆
さて、視点を少しばかり北へ、そして時間軸を同じく安政の頃へと移そう。
奥州會津の國 城下町若松
磐梯山の麓に広がるこの城下町にもまた、時代の波は、一人の若き藩主の強力な手腕によって、強引に引き寄せられていた。 鶴ヶ城本丸御殿の奥まった一室、本来であれば風流な書院として、茶の湯や和歌の会が催されるべき場所は、今や洋書の山と図面の海に沈んでいた。
壁には、最新の世界地図と、南山植民地の詳細な地形図が貼られている。床には、英国製の測量機器や、分解された銃の部品が散乱している。
その中央で、英国製のマホガニー机に向かい万年筆を走らせている若者がいた。
會津藩主 松平容保 数えで二十三歳
切れ長の目に、スッと通った鼻筋。京の公達も裸足で逃げ出すほどの貴公子然とした風貌だが、その瞳には食い詰めた起業家のようなギラついた光が宿っている。
右手には数年前の品川台場での事故 - 蒸気杭打ち機の暴走を自らの手で止めた時 - に負った火傷の痕が、名誉の勲章のように赤く残っていた。
「遅いぞ、頼母! 測量方は何をしておる!」
容保は、入室してきた家老の西郷頼母近を見るなり、書きかけの図面をバンと叩いた。
「はっ、申し訳ございませぬ。白河街道の勾配が予想以上にきつく、招聘した英国技師スティーブンソン氏との調整に手間取っておりますゆえ」
頼母は平伏しながらも、額の汗を拭った。この主君に仕えるのは戦場に出るよりも骨が折れる。 容保は自らを「啓蒙専制君主」と定義し、藩校・日新館に併設された洋学寮で仕入れた最新知識と、小栗上野介や勝義邦ら幕閣テクノクラートとのコネクションをフル活用して、會津という伝統ある藩を急速な近代化へと引きずり回していた。 彼はすでに「南蛮癖」などという古臭い言葉では括れない。英語、フランス語を解し、エコノミーとリアリズムを信奉する、バリバリの近代人であった。
「言い訳は好かぬ。小栗殿との話はついているのだ。江戸から日光、そして會津を抜け、新潟港へと至る『北関東・奥羽鉄道構想』……。これこそが、會津を生き残らせる唯一の動脈ぞ」
容保は立ち上がり、壁に貼られた巨大な地図を象牙のステッキで指し示した。そこには、赤インクで太い線が引かれている。
「蒸気機関車だ、頼母。馬や駕籠の時代は終わった。新潟港に陸揚げされた南山の物資—ゴム、羊毛、鉄鋼——を、鉄の道で江戸へ流し込む。逆に、會津の精密機械—時計や照準器—を世界へ売る。……物流を制する者が天下を制するのだ。一刻も早く、線路を敷け」
「御意にございます。……しかし、殿。懸念がございますのは、やはり金でして」
頼母は、家老として現実的な懸念を口にした。
「莫大な工費、いかに南山移民からの仕送りが潤沢とはいえ、藩の蔵は空っぽ寸前でございます。すでに領内の古寺からは梵鐘を供出させ、大砲に鋳潰しております。領民の中には、性急な改革への不満も……」
「蔵が空なら、南山の山を削って埋めればよい」
容保は事もなげに言った。その口調には、迷いなど微塵もない。
「すでに、入安島の會津藩預りの金鉱開発権の一部を担保に、ロンドンのシティにある銀行団と話をつけてある。ロスチャイルドの代理人が、じきに若松へ来るはずだ。……金は後からついてくる。信用さえあればな」
「ロ、ロスチャイルド……でございますか」
頼母は目を白黒させた。この若様の人脈と構想は、もはや一藩の枠を超えてしまっている。
「頼母、其の方はまだ、この國が『島国』だと思っているのか? 海は壁ではない、道なのだ。我々の財布は、ここ若松にあるのではない。遥か赤道の向こう、南山にあると思え」
容保は窓を開け放った。磐梯山から吹き降ろす冷たい風が室内の図面を舞い上がらせる。 彼は、自らの民を救うためならば、悪魔とでも契約する覚悟を決めていた。 冷害に苦しむ東北の農民にとって、南山への移住と、そこからの富の還流は文字通りの生命線だ。だが、それだけではない。
「我々は、南の金で肥え太る豚になってはならぬ」
容保の声が低く、鋭くなった。その視線は、遠く西の空を睨んでいた。
「豚は、いつか喰われる。……だが、南の肉を食らい、その力で鋼鉄の牙を研げば、我らは虎になれる。……西國の飢えた狼どもが牙を剥こうとも、噛み殺せるだけの虎にな」
「……虎、でございますか」
頼母は、主君の横顔を見上げた。その目には、未来への希望と、来るべき血生臭い対立への冷徹な予見が同居している。この若き殿様は、誰よりも深く絶望し、それ故に誰よりも激しく「力」を求めているのだ。
彼は知っているのだ。品川の泥の中で見た労働者たちの不満が、いつか爆発することを。そして、その爆発から民を守れるのは、精神論ではなく、圧倒的な「力」だけであることを。
「工作機械の手配も済んだ。次の移民船が戻る時、最新の旋盤とフライス盤が届く。……銃を作るぞ、頼母。買うのではない、我らの手で作るのだ。會津を東洋の兵器廠に変える。スペンサー銃も、アームストロング砲もすべて国産化する」
その言葉に、頼母の腹も座った。 この暴走機関車のような主君に振り落とされぬようしがみつくだけではない。燃料をくべ続けレールを敷き続けるのが、家老たる自分の務めだ。
「承知いたしました。……會津の虎、世界に見せつけてやりましょうぞ。……まずは、領内の古寺を説得して回るとしますか。『仏の慈悲で、国を守る大砲を作るのだ』と」
頼母がニヤリと笑って平伏すると、容保もまた、不敵な笑みを返した。
この時、若松の町外れにある移民集積所には、南山へ向かうための移民団が集まっていた。 彼らは涙ながらに故郷の山に別れを告げていたが、その荷物の中には、南山から送られてきた写真機で撮った、家族の笑顔の写真が入っていたりするのである。
彼らは知っていた。この別れが永遠ではないことを。蒸気船と鉄道が、世界を小さくしたことを。 悲壮感と希望。古き良き日本と、未知の南洋。矛盾を抱えたまま、蒸気機関車ならぬ最新式の馬車列が、ゴムタイヤの音も軽やかに、埃を巻き上げて街道を進んでいく。 その轍の先には、まだ誰も見たことのない、二つの日本の未来が待っていた。
第2部開始です。
これから様々な視点でこの南山世界線の世界を語っていけたらと考えております。
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




