第16話 浜離宮骸炭所 - 骸炭の城と狂気の舎密学者
本日は4話一挙投稿。
「第15話 川崎 多摩川河口 - 光を運ぶ鋼鉄の大蛇」
https://ncode.syosetu.com/n1033lp/104
からお読みくださいませ。
慶応四年(一八六八年)四月十六日。
江戸湾に面した浜離宮の一角は、およそこの世のものとは思えない異様な熱気と、鼻腔を破壊するほどの強烈な悪臭に支配されていた。
総敷地面積約一万五千平方メートルを誇るこの場所は、技術者たちが親しみを込めて「骸炭所」と呼ぶ、幕府最大のコークス・ガス製造プラントである。
横須賀や江戸湾岸に広がる巨大な製鉄・製鋼コンビナートを稼働させるため、九州の三池・高島、蝦夷の石狩・夕張、常磐などの国内炭田と、南山の南島のブルナー、北島のワイカトなどから、年間約五万トンにも及ぶ石炭が関東一円で消費されていた。
この浜離宮の施設は、大砲や機械部品の鋳造に不可欠な冶金用コークスを年間一万トン生産する、関東工業地帯の心臓部であった。
敷地内には、赤煉瓦で精緻に組まれた細長いカマボコ型の密閉骸炭炉が横一列に六十基もズラリと並び、巨大な壁を形成している。そこから立ち上る炎と黒煙が、春の青空をどんよりとした鉛色に塗り潰していた。
工場一帯を覆っているのは、息が詰まるようなアンモニアのツンとする刺激臭と、硫化水素特有の腐った卵の臭い、そして石炭とタールが焦げる重苦しい匂いである。近づくだけで目がチカチカし、喉が焼けるような痛みを覚えるこの空間で、男たちは石炭の粉とタールで全身真っ黒になりながら走り回っていた。
「おい、そっちの樽、早く蓋をしろ! くせえの何のって、目玉が溶けちまうぞ!」
配管職人のヤスが、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら怒鳴った。彼は、川崎のガスインフラ搬出現場で江戸に残る決意をした老職人・源七の弟子であったが、「俺は海を渡って、新しい景色を見てえ」と志願し、この浜離宮の解体現場にやってきた血気盛んな若者だ。
ヤスたちが今格闘しているのは、密閉された密閉骸炭炉で石炭を蒸し焼き(乾留)にする過程で生じる副産物、ドロドロの黒い液体、コールタールと、強烈なアンモニア臭を放つ、安水(アンモニア液)であった。
「全く、横須賀の機械や鉄っつうんなら分かるが、なんでこんな臭え泥水までわざわざ南山に持っていくんだよ!」
ヤスは、靴の裏にへばりつく粘り気のあるタールを地面に擦り付けながら毒づいた。
「こんな臭え物、江戸湾に全部捨てちまいましょうぜ! 船に積んだら、臭いで飯も食えやしねえ!」
「馬鹿者ォォォッ!!」
その時、甲高い絶叫が工場の煤煙を切り裂いた。
ヤスが振り返ると、本来は純白であったはずが、今やタールの飛沫で黒ヒョウのような斑点模様になった白衣を翻し、一人の男が猛烈な勢いで駆け寄ってきた。
幕府開成所の若き舎密(せいみ=化学)技師、内海林太郎である。ロンドンへの留学経験を持つ彼は、工場の頭脳として化学的知見から生産品の歩留まりを管理するエリート層の一人であったが、タールやアンモニアを恋人のように溺愛する、筋金入りの変人でもあった。
深川硫酸製作所の変人、宇田川の親友でもあるが、あちらの方がまだマシとの周辺評がある。
「貴様ら! 今、何と言った! 捨てるだと!?」
内海はヤスを押しのけ、悪臭を放つタールがなみなみと注がれた樫樽にすがりつき、まるで愛しい我が子を撫でるようにその表面をさすった。
「これを一滴でも捨てたら、貴様らは万死に値する! いや、大英帝国の女王陛下が激怒するレベルの損失だぞ! これは新しい国の『色』であり、『麦』であり、『薬』なのだ!」
鼻をつまみ、完全にドン引きしているヤスや職人たちを尻目に、内海はタールの匂いを深く吸い込み、恍惚とした表情を浮かべていた。
「いいか、無知なる職人どもよ。耳の穴をかっぽじってよく聞け」
内海は、ステッキで樫樽をカンカンと叩きながら、咳き込む職人たちに向けて熱弁を振るい始めた。
「石炭を燃やしてガスを抜いた後に残るこの黒い泥水。お前たちはただのゴミだと思っているだろう。だがな、一八五六年に英国のパーキンという天才が、このタールからモーブ(紫色)というこの世で最も美しい合成染料を創り出したのだ!」
内海は白衣のポケットから、鮮やかな赤紫色に染められた絹のハンカチを取り出して見せつけた。
「欧州では今、コールタールからマゼンタなどの染料を取り出す化学工業が爆発的なブームになっている。南山でこのタールを持ち出し、染料を量産すれば、世界中から外貨を湯水のように稼ぐ魔法の杖になるのだ!」
ヤスは目を丸くした。あの悪臭を放つ黒い泥水から、こんな美しい色が生み出されるというのか。
「そ、それだけじゃねえんだろ?」
「当然だ!」
内海は興奮気味に叫ぶ。
「タールを蒸留して得られるクレオソート油は、木材を腐らせない最強の防腐剤だ。南山のジャングルに鉄道の枕木や電信柱を敷設する際、これがないとシロアリや湿気であっという間に木材は腐れ落ちる! さらに、英国の外科医リスター氏は、ここから石炭酸を抽出し、傷口の殺菌消毒法を確立した。南山で近代医療を立ち上げ、怪我人を救うための消毒薬の原料そのものなのだ!」
内海は次に、強烈なアンモニア臭を放つ「安水」の入った樽を指差した。
「そしてこの安水! これに硫酸をかければ『硫酸アンモニウム』つまり『硫安』という強力な化学肥料になる。南山の荒野を黄金の麦畑に変え、何百万人もの民を食わせるための食糧生産の切り札だ! お前たちが海に捨てようとしているのは、新しい国の何百万人の飯のタネなんだぞ!」
ヤスは、目の前にある悪臭の山が、突然、黄金の宝の山に見えてきた。
「この臭え水がメシになるのかよ……舎密学ってのは、化け狐の術か何かか?」
「科学だ、愚か者! さあ、分かったら一滴残らず樫樽に詰めろ! 樽の蓋はピッチで完全に密閉しろ、揮発したらもったいない!」
ヤスたち職人は、半信半疑ながらも内海の異常な熱意と論理に圧倒され、文句を言うのをやめて黙々と樽詰め作業に戻った。彼らが詰めているのは、単なる燃料の残りカスではない。次世代の化学工業の覇権を握るための「魔法の液体」であった。
タールと安水のパッキングが狂気的なペースで進んでいった。
化学プラントの心臓部である設備の選別と解体は先行して進められていた。
総重量数万トンに及ぶ赤煉瓦のレトルト炉は、到底船には積めないため放棄される。しかし、炉を気密に保つ特注の鋳鉄製蓋や、発生したガスを上部へ導く独特の曲線を描く上昇管は、ミクロン単位の精度が要求されるため、スパナで根こそぎ取り外され、油紙で丁寧に包まれていく。
ここで取り外された機器類は川崎の集積地を経由して、横濱港から南山へ運ばれていく事となる。
解体作業の中で最も職人たちを恐怖させたのが、硫酸製造設備(鉛室)の摘出であった。ヤスが次に配属されたのは、この恐怖の現場であった。
硫安肥料を造るためには、大量の硫酸が必要不可欠だ。鉄やレンガを容易に溶かしてしまう硫酸を安全に製造・貯留するため、この建屋の内部は容積約五百立方メートルにわたり、厚さ数ミリの純鉛のシートを溶接して作られていた。深川の施設の拡大版である。
「いいか、絶対に肌に触れるな! 少しでも酸が跳ねたら、骨まで溶けるぞ!」
ヤスは、防護用の分厚い革エプロンとゴーグルを身につけ、震える手で鉛のシートをバーナーで切り分けていた。酸の飛沫がエプロンに付着し、ジュッと嫌な音を立てて白い煙を上げるたびに、職人たちの間に悲鳴に近い声が上がる。彼らは服に穴を開けながらも、南山の化学工業の胃壁となる鉛の装甲を、一枚残らず剥がしていった。
小休止で一息ついていると、工場の中心部から、ひときわ大きな重低音が響いた。
蒸気クレーンが、巨大なカタツムリのような形をした鋼鉄の塊をゆっくりと吊り上げている。大型ガス吸引機である。
炉内で発生したガスを強制的に吸い出し、都市の配管網へと圧送するこのロータリーポンプこそが、江戸の街に光を届けるインフラの真の心臓であった。
「こいつを外しっちまうと、江戸のガス灯が全部消えちまうんだな」
ヤスは、宙を舞う巨大な吸引機を見上げながら、どこか寂しげに呟いた。
江戸の夜を彩る文明の光が、今、物理的に引き抜かれようとしている。
「感傷に浸る必要はない」
不意に背後から声がした。振り返ると、仕立ては良いが薄く汚れた羽織袴に身を包んだ幕府勘定奉行、小栗忠順が、冷徹な視線で巨大なポンプの搬出を見届けていた。
「小栗様…」
平服しようとするヤスを引き留め小栗は話した。
「ヤスと言ったか。お前たちは、ガス灯こそが文明の象徴だと思っているだろう。だがな、実はあれは製鋼用の冶金コークスを大量に焼く際に出る副産物でな、死ぬほど余ってしまう引火性の有毒ガスなものだから、何とか安全に処理するために市中で燃やしているに過ぎんのだ」
小栗の言葉は、ヤスのロマンチシズムを粉々に打ち砕く、身も蓋もない極めて冷酷な言葉であった。
「江戸の夜は、今日この刻をもって、本来の暗闇に戻るだけのこと。だがな、我らが南山へ持っていこうとしているのはのは光ではない。鉄を溶かし、船を造り、橋をかけ、銃や大砲を作る、国を富ませるための仕組みそのものだ」
小栗の言葉に、ヤスはただ無言で頭を下げるしかなかった。この男の頭の中には、都市のインフラすらも巨大な工場の排気システムの一部として組み込む、恐るべき設計図が描かれているのだ。
数日後、横濱港に停泊する巨大な輸送船の船倉は、この世の地獄と化していた。
船底のバラストとして敷き詰められたクルップ鋼の上に、浜離宮から運び出された数千樽もの「コールタール」と「安水」、そして切り出された純鉛のパネルが、隙間なく積み込まれていく。
「おい、冗談じゃねえぞ! こんな地獄行きの船に乗って赤道を越えるのかよ!」
船底で荷積み作業を行っていた水夫たちが、目に涙を溜め、鼻水で顔をドロドロにしながら甲板へと逃げ出してきた。船内は、アンモニアと硫化水素の想像を絶する悪臭で満ちており、呼吸をするだけで肺が焼けるような錯覚に陥る。
「甘ったれるな! これは新しい国の宝だ!」
甲板を忙しなくウロウロしていた内海林太郎が、顔を真っ赤にして水夫たちを怒鳴りつけた。
「いいか、船倉は文字通りのガス室であり、巨大な火薬庫だ! タールもガス液も、強烈な引火性を持っている! 絶対に火の気を近づけるな! 引火すれば、この船ごと宇宙の果てまで吹き飛ぶぞ!」
その時、ストレスに耐えかねた一人の水夫が、無意識に懐から煙管を取り出し、火打ち石を擦ろうとした。
「あ……」
カチッ、という微かな音が響いた瞬間。
「馬鹿者ォォォォッ!!」
内海は文字通り飛ぶように駆け寄り、愛用のステッキで水夫の側頭部を物理的にフルスイングで殴り倒した。
ゴッ、という鈍い音と共に崩れ落ちる水夫。転がる煙管。
「貴様、百万人の未来を火の海にする気か! 航海中、タバコを吸った者は即座にサメの餌にすると思え!」
内海の過剰なまでの、しかし完全にご最もな防火管理に、ヤスも他の水夫たちも震え上がり、二度と火の気に近づかないことを心に誓った。
危険極まりない劇薬と、未来の化学工業の種を限界まで腹に詰め込んだ動く火薬庫は、月明かりの下、太い汽笛を鳴らしてひっそりと江戸湾を滑り出していった。その航跡には、タールの微かな匂いだけが漂っていた。
輸送船団が水平線の彼方へ消えてから数日後。
江戸城を接収し、市中の制圧を進める新政府軍――長州や薩摩の兵士たちが、ついに浜離宮の骸炭所跡へと踏み込んだ。
「おおっ! 見ろ、山のような石炭だ!」
部隊を率いる将校が、貯炭場に野積みされた数千トンもの瀝青炭の山を見て歓喜の声を上げた。
「これで、大砲を鋳造するための鉄がいくらでも溶かせるぞ! 賊軍どもめ、慌てて逃げたせいで、こんなお宝を残していくとはな!」
しかし、彼らの歓喜はすぐに当惑へと変わった。
石炭を蒸し焼きにしてコークスを造るためのレトルト炉は、確かにそこにあった。だが、炉を密閉するための分厚い鋳鉄の蓋は一枚残らず外されており、空気を吸い出す送風機の姿も影も形もない。
「これでは、ただの焚き火しかできんではないか」
将校は愕然と呟いた。密閉と送風のシステムを失った巨大な炉は、ただのレンガの壁に過ぎない。手持ちの鉄を高温で溶かすコークスを造ることはおろか、ガスを抽出することも不可能だ。新政府軍は、何千トンもの石炭を前にしながら、ただそれを燃やして暖を取るしかできないという、皮肉な現実を突きつけられたのである。
「チッ、忌々しい。徳川の連中は、どこまで我々をコケにすれば気が済むのだ」
将校は苛立ち紛れに地面を蹴りつけた。
ベチャッ。
靴の裏に、何か黒くて粘り気のあるものがへばりついた。コールタールのこぼれた跡だった。
「なんだ、この悪臭は……!」
将校は鼻をつまみ、靴底にこびりついたドロドロの液体を、嫌悪感も露わに石垣になすりつけた。
「徳川の連中は、こんな臭い汚物ばかり残しおって。ええい、早くこんなゴミどもを川へ洗い流してしまえ!」
兵士たちが、モーブ染料の原料であり、近代医療の消毒薬であり、南山のインフラを守る最強の防腐剤となるはずの「黄金の液体」を、ただの産業廃棄物としてデッキブラシで下水へと洗い流していく。
彼らは気づいていない。
自分たちが今、靴で踏み躙り、川へ捨てているその汚物こそが、次世代の世界覇権を握る巨大な化学工業の種であったことに。
物理的な機械だけでなく、タールや安水という化学物質の価値までも正確に見抜き、根こそぎ持ち去った南山のテクノクラートたちの恐ろしさ。
それは、コークス・パラドックスという歴史の皮肉として、新政府軍の無知をどこまでも冷酷に嘲笑っていた。
第四部 第16話 完
次話「第17話 向島精密工房群 - 漆のトロイの木馬(上)」は5/7.15:00投稿予定
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。
渾身の新連載!
「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
https://ncode.syosetu.com/n7215lz/
シリーズの短編もアップしました。
「異聞 五稜郭」
https://ncode.syosetu.com/n4984mc/
宜しければこちらもどうぞ
「南山共和国建国史シリーズ」
https://ncode.syosetu.com/s0124k/
ご興味がある方はご一読くださいませ。




