勇者様からの婚約破棄は、一行きりの「下書き」でした
──その手紙は、たった一行で私の世界を書き換えた。
『魔王を討伐したら、婚約を解消したい』
丁寧な書き出しも、近況報告もない。
冒険の道中、焚き火の光の中で走り書きしたような、にじんだインク。
わずかに震えた筆跡は、私が幼いころから知る“彼”のものだった。
「……ユリウス様」
名を呼んだ声は、自分でも笑ってしまうほど、ひどく静かだった。
私は公爵家の一人娘として、ずっと彼の婚約者だった。
幼いころから、側にいた。
魔力が暴走しないように、剣の握り方を教えたのも、怪我をしたときに包帯を巻いたのも──ぜんぶ、覚えている。
けれど手紙の中の彼は、私を未来からていねいに切り離していた。
その日から、私は癖のように“下書き”を書くようになった。
机の引き出し、寝台の下、ドレスのポケット。
開けば必ず、くしゃくしゃに丸めた紙切れが出てくる。
『婚約解消の件、了承いたしました。ご武運をお祈りしております』
『どうして、の一言くらい、聞かせていただけませんか』
『正直に申しまして、とても腹が立っています。ですが、お怪我はございませんか』
書いては破り、破っては書き直す。
送るつもりのない返事ばかりが、山のようにたまっていく。
──手紙一つで五年消えた婚約者の、そのたった一行に、私は五年かけて答え続けていた。
*
「リオナ、お客様がお見えですよ」
五年目の春、侍女の声で私はペンを止めた。
「こんな朝早くから、どなたかしら」
「第一王子殿下のご一行です。魔王討伐からご帰還なさって……」
そこまで聞いて、心臓がひときわ強く跳ねた。
「……ユリウス様が?」
「はい。謁見の前に、まずは婚約者であるリオナ様にご挨拶を、とのことで」
婚約者。
よくそんな言葉が、まだ平然と使えるものだと思う。
あの一行を受け取ってから、公爵家も王家も、水面下で動いていた。
公の場では何も発表しないまま、私と彼の距離だけが、静かに凍りついていた。
「……わかりました。客間に通して」
鏡の前に立ち、癖で髪を整えようとした手が、宙で止まる。
(会うのは、五年ぶり)
五年。
彼は世界の外側で戦っていて、私は王都の真ん中で、世界の形を守る役目を続けていた。
私の知っているユリウスは、どこまで“過去”になってしまっただろう。
*
応接室の扉を開けると、そこにいたのは、私の知らない男だった。
背は伸び、肩幅も広くなった。
剣と魔法の痕跡が焼きついたような身体。
少年のころのあどけなさは、どこにもない。
けれど、私を見るときの目だけが、変わっていなかった。
「……久しぶりだな、リオナ」
低くなった声が、私の名前を呼ぶ。
条件反射のように、返事が口からこぼれた。
「お帰りなさいませ、ユリウス様」
それだけで、喉が詰まる。
言いたいことは山ほどあるのに、五年分の言葉が、最初の一音で全部つかえてしまった。
沈黙を破ったのは、彼のほうだった。
「その……まずは、言わなきゃならないことがある」
ユリウスは、ゆっくりと頭を下げた。
「勝手に手紙を送りつけて、何年も放置して、本当にすまなかった」
「…………」
「言い訳をするつもりはない。許してくれとも言わない。怒ってくれていい」
まっすぐな謝罪だった。
あまりに真正面からで、私は逆に身構える。
「……許せると思っていらっしゃるのですか?」
静かに問い返すと、彼は苦笑とも自嘲ともつかない顔をした。
「思ってない。たぶん、俺は一生、お前に頭が上がらない」
「わかっていらっしゃるなら、話が早いですわね。では、本題に入りましょう」
私はドレスの裾をつまみ、席に腰をおろした。
彼も少し遅れて向かい合う。
「五年前の手紙。婚約を解消したいと書かれていましたね」
「……ああ」
「その意志は、今も変わりませんか?」
ユリウスの肩がぴくりと揺れた。
「……それを、先に聞くのか」
「当然ですわ。あの一行で、私の人生はずいぶん書き換えられましたもの」
彼はしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……変わった」
「え?」
「今は、解消したくないと思っている」
胸の奥で何かが大きな音を立てて崩れた。
「……都合が良すぎませんこと?」
必死で表情を固める。
唇が勝手に震えそうになるのを、奥歯で押さえつける。
「五年前お送りになったのは、王太子としてのご決断ではありませんの?」
「違う」
即答だった。
「あれは、王太子としてじゃない。──一人の臆病者としての、逃げの一行だ」
臆病者。
彼が自分にそんな言葉を使うのを、私は初めて聞いた。
「魔王の城に向かう前夜、お前の名前を何度も思い出した。
もし俺が死んだらどうなるか。もし、死ななかったとしても、戻ってこられなかったらどうなるか」
「戻ってこられない?」
「……世界を救った勇者は、世界の外側に置いておくのがいちばん都合がいい、って話だ」
淡々とした口調の裏に、乾いたものがにじんでいる。
「王家の血筋に魔王の呪いが混じる可能性。権力争い。勇者信仰の暴走。
俺が王都に戻らないほうが丸く収まるって意見は、思ってた以上に多かった」
「そんな……」
「だから、どこか辺境に封じられる覚悟で出ていった。
……そのとき、どうしても怖かったのは、お前を巻き込むことだった」
ユリウスは私を見ないまま、拳を握りしめる。
「俺がいなくなれば、お前は別の男と政略結婚をさせられる。
その相手がまともな人間とは限らない。
それは嫌だった。俺のせいで、お前の人生がぐちゃぐちゃになるのが一番怖かった」
「だから、先に切り捨てておこうと?」
「そうだ。最低だろう?」
自嘲を含んだ笑みが、妙に痛々しい。
「最低ですわね」
私はあっさり肯定した。
「こちらの気持ちを一行で踏みにじって、そのうえ五年も沈黙なさった。
怒るなと言われるほうが無理ですわ」
「……ああ」
「でも、ユリウス様」
そこでいったん区切り、彼の顔をまっすぐ見る。
「私が一番腹立たしいのは、別のところでしてよ」
「別の……?」
「人生をぐちゃぐちゃにするかどうかを決める権利は、あなたお一人のものではありませんわ」
「っ……」
「私の人生は、私のものですもの。
勝手に“守るため”と称して、勝手に捨てるのはやめていただきたかった」
沈黙が落ちる。
ユリウスは、初めてこちらを正面から見た。
勇者と呼ばれるようになった男の目ではなく、五年前と同じ、臆病で誠実な青年の目で。
「……そうだな。本当に、その通りだ」
彼は深く息を吐き、背もたれに身を預けた。
「俺は、お前を守るって都合のいい言葉で、自分の罪悪感から逃げただけだ。
お前に打ち明けて、拒絶されるのが怖かった」
「拒絶、ですの?」
「『世界のために犠牲になってくれ』って頼むことになると思ってたから。
俺がいない未来を、お前に押しつけることになるから」
「……ユリウス様」
騎士たちも、聖女も、魔法使いたちも。
彼と同じ場所で戦った人たちは、いま、この王都にはほとんど残っていない。
誰かは死に、誰かは故郷へ帰り、誰かは英雄として遠い地に封じられた。
その重さを、少しだけ想像してしまう。
「私も、臆病者ですわ」
思わず、ぽつりと漏らした。
「怖かったのです。あなたのいない未来も、あなたが変わってしまった未来も。
だから私は、王都に残された“居心地のいい役割”にしがみついていました」
「……居心地のいい役割?」
「公爵令嬢として、王太子妃候補として、政略の駒として。
誰かの期待通りに振る舞っていれば、『自分の物語』を考えずに済みますもの」
私は苦笑する。
「あなたの一行は、確かに私の物語を書き換えましたわ。
でも、それまで私には、自分で書いた物語なんてひとつもなかったのです」
机の引き出しにたまった無数の“下書き”たちが、頭の中をよぎる。
『どうしても、行かないでほしい』
『勇者になんてならなくていいから、私の隣にいて』
『あなたがいない世界なんて、要りません』
書いて、破って、隠して。
誰にも見せられない、情けない言葉ばかり。
「五年間、私はあなた宛ての返事を下書きし続けました。
どれも最後まで書けなくて、最後まで送れなくて。
それでも──やめられなかった」
「……どうして?」
「たぶん、それがやっと手に入れた『自分の物語』だったからですわ」
ユリウスが、息を呑む音がした。
「魔王を倒した勇者様。
あなたの物語は、世界中の吟遊詩人が歌うでしょう。
でも、私の物語は、あの小さな紙切れにしか存在しない」
私は片手を伸ばし、側の机の引き出しを開けた。
ぎっしりと詰まった紙束が、重みとともに姿を現す。
「……それ、全部」
「ええ。あなたへの返事の下書きですわ」
呆然とする彼の前で、一枚を適当に引き抜く。
『あなたがいなくても、私は生きてみせます。そのうえで、生きているあなたを恨んでみせます』
懐かしい怒りと、どうしようもない愛しさと、幼稚な意地が混じり合った文面。
思わず眉をひそめて笑ってしまう。
「完璧に醜いでしょう?」
「……いや」
意外にも、ユリウスは首を振った。
「俺には、眩しい」
「眩しい?」
「俺は、お前から届くはずだったこういう言葉を、最初から奪ったんだ。
怒りも、恨みも、執着も。
それでも俺のことを考えてくれていた証を、全部」
彼の声が少し掠れる。
「本当は、一通でもいいから受け取る覚悟を持つべきだったんだ。
嫌われるのが怖くて、“綺麗な勇者”でいるために、お前の感情を切り捨てた」
「……ユリウス様」
「だから、願いがある」
彼は、まるで祈るような目でこちらを見た。
「その下書きの山の中から──俺に、一通だけ選ばせてくれないか」
「選ぶ?」
「俺が、ちゃんと受け取るべきだった“返事”を、一つでいいから読む権利を、俺にくれ」
胸が痛くなるほど締めつけられる。
「……あなたにとって都合のいい一通を選んで、『ほら、これなら許されるでしょ』とおっしゃるおつもりではなくて?」
「違う。どれが都合がいいのかなんて、俺にはわからない。
ただ、五年分のどれだけわがままで、身勝手で、醜くても──それを読んで、受け止めたい」
世界を救った勇者らしからぬ、みっともない願い。
でも、だからこそ、今の彼の言葉に嘘はないのだと思えた。
「……わかりましたわ」
私は紙束を両手で抱え、彼の前に差し出した。
「お選びになってくださいませ。
あなたが本当に向き合いたいと思った私の言葉を」
長い沈黙。
紙が擦れる音だけが、部屋の中に続く。
やがて、ユリウスの手が一枚の紙で止まった。
破れかけて、端が少し焦げている。
たぶん、暖炉に投げ込もうとしてやめた日のものだ。
「……これにする」
「どのような内容でしたかしら。覚えておりませんわ」
「読んでもいいか?」
「どうぞ」
ユリウスは深呼吸を一つしてから、紙面を開いた。
『世界のために死なないでください。
私のために、生きていてください。
もしそれが許されない世界なら、そんな世界、滅んでしまえばいいと思います』
自分の字なのに、他人の遺書を覗き見るような気分になった。
ユリウスは、しばらく何も言わなかった。
握る指先が、かすかに震えている。
「……最悪だな、この世界」
ぽつりと、彼が言った。
「お前に、こんなことを書かせた世界なんて」
「ユリウス様?」
「俺はずっと、『世界を救う』って言葉に縛られてた。
でも、本当に救いたかったのは、最初からお前一人だったのかもしれない」
彼は紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。
「ありがとう、リオナ。俺のために、世界を嫌ってくれて」
「別に、あなたのためだけに嫌っていたわけでは……」
口ごもる私を見て、彼はふっと笑う。
「今は、そのわがままが嬉しい。
世界のために死ぬ勇者じゃなくて、お前一人のために生きる臆病者でいられたことが」
「……それで、ユリウス様」
私は姿勢を正した。
「ここから先の話は、“下書き”の続きですわね」
「続き?」
「ええ。あなたは五年前、一行の下書きで私との物語を終わらせようとした。
私は五年間、返事の下書きばかりを書いて、本当の一行を出せなかった」
指先を重ね、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今こそ、清書なさるべきときですわ。あなたの言葉で」
ユリウスは、目を細めた。
「……清書、か」
「はい。世界のためでも、王家のためでも、公爵家のためでもない。
ユリウス=アストリアという一人の人間として、
そして、リオナ=フロイラインという一人の人間に向けて」
彼は立ち上がり、私の目の前まで歩み寄った。
昔と同じ距離。
けれど、もう子どもではない距離。
「俺は」
喉の奥から搾り出すように、言葉が紡がれる。
「俺は、世界の英雄になんてなりたくなかった。
ただ、お前の隣にいられるくらいの男でいたかった」
こわいほど真っ直ぐな告白。
「だから、ここから書き直したい。
勇者と公爵令嬢という肩書きじゃなくて、
ユリウスとリオナとして、もう一度──俺と婚約してくれないか」
「……今さら、ですの?」
たぶん、意地悪な言い方になってしまった。
それでも、彼は真剣な顔のままだった。
「今さら、だ。五年も遅れたことは、俺の一生の罪だ。
それでも、ここで言わなかったら、俺はまた臆病者のままだ」
胸の奥で、何かがふっと軽くなる。
五年間積もり続けた“下書き”の山が、ようやく燃やされる音がした。
「条件がございますわ」
「なんでも言え」
「これから先の物語は、すべて“下書きから始める”こと」
「下書きから?」
「はい。あなたがどんなに立派な決断をしようとしても、
まずは私に見せてくださいませ。
『世界のための一行』を書く前に、『私のための落書き』を、」
そこで一度笑って、続ける。
「そのうえで、二人で清書しましょう。
あなたの物語も、私の物語も、誰のものでもない“私たちの物語”として」
ユリウスの目が、わずかに潤んだ。
「……そんな条件なら、喜んで」
「もう一つございますわ」
「まだあるのか」
「ええ」
今度は、私のほうから一歩近づいた。
「もし、また勝手に一行だけで私を置いていこうとしたら──」
彼の胸ぐらを、そっとつまむ。
「そのときは、世界の果てだろうと魔王城の地下だろうと、どこへでも迎えに行きますわ。
あなたが嫌がっても、泣きながらでも、引きずってでも連れ戻します」
「……こわいな、それは」
「覚悟なさいませ、勇者様」
言うと、ユリウスは堪えきれないというように笑った。
「それなら、二度と逃げるわけにはいかないな」
「最初から、そうなさってくださいませ」
私も、やっと笑えた。
「では、あらためて」
ユリウスは片膝をつき、幼いころ何度も真似をして遊んだ“騎士の礼”の姿勢を取る。
「リオナ。俺の最初で最後のわがままを聞いてくれ。
世界の英雄ではなく、一人の臆病者として──」
蒼い瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
「俺の婚約者になってくれ」
五年前なら、きっと震えながらうなずいていた。
でも今の私は、五年分の“下書き”を背負っている。
だから、まっすぐに応える。
「よろしいですわ」
膝を折り、彼と視線の高さを合わせる。
「では、私のほうからも一行、清書させていただきます」
五年かけて選び抜いた、たった一つの言葉。
「ユリウス様。どうか、私のためにも、生き続けてくださいませ」
彼は、まるで呪いの解けた子どものような顔で笑った。
「……ああ。約束する」
その日、机の引き出しに残った“下書き”は、すべて暖炉の火にくべられた。
けれど私の胸の中には、新しい白紙の物語がひとつ、確かに置かれている。
そこに最初の一行を書き込むのは、私と彼の仕事だ。
勇者と公爵令嬢の物語ではなく──
ユリウスとリオナの、誰にも歌われない、小さな物語として。




