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勇者様からの婚約破棄は、一行きりの「下書き」でした

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2025/11/14

 ──その手紙は、たった一行で私の世界を書き換えた。

『魔王を討伐したら、婚約を解消したい』

 丁寧な書き出しも、近況報告もない。

 冒険の道中、焚き火の光の中で走り書きしたような、にじんだインク。

 わずかに震えた筆跡は、私が幼いころから知る“彼”のものだった。

「……ユリウス様」

 名を呼んだ声は、自分でも笑ってしまうほど、ひどく静かだった。

 私は公爵家の一人娘として、ずっと彼の婚約者だった。

 幼いころから、側にいた。

 魔力が暴走しないように、剣の握り方を教えたのも、怪我をしたときに包帯を巻いたのも──ぜんぶ、覚えている。

 けれど手紙の中の彼は、私を未来からていねいに切り離していた。

 その日から、私は癖のように“下書き”を書くようになった。

 机の引き出し、寝台の下、ドレスのポケット。

 開けば必ず、くしゃくしゃに丸めた紙切れが出てくる。

『婚約解消の件、了承いたしました。ご武運をお祈りしております』

『どうして、の一言くらい、聞かせていただけませんか』

『正直に申しまして、とても腹が立っています。ですが、お怪我はございませんか』

 書いては破り、破っては書き直す。

 送るつもりのない返事ばかりが、山のようにたまっていく。

 ──手紙一つで五年消えた婚約者の、そのたった一行に、私は五年かけて答え続けていた。



「リオナ、お客様がお見えですよ」

 五年目の春、侍女の声で私はペンを止めた。

「こんな朝早くから、どなたかしら」

「第一王子殿下のご一行です。魔王討伐からご帰還なさって……」

 そこまで聞いて、心臓がひときわ強く跳ねた。

「……ユリウス様が?」

「はい。謁見の前に、まずは婚約者であるリオナ様にご挨拶を、とのことで」

 婚約者。

 よくそんな言葉が、まだ平然と使えるものだと思う。

 あの一行を受け取ってから、公爵家も王家も、水面下で動いていた。

 公の場では何も発表しないまま、私と彼の距離だけが、静かに凍りついていた。

「……わかりました。客間に通して」

 鏡の前に立ち、癖で髪を整えようとした手が、宙で止まる。

(会うのは、五年ぶり)

 五年。

 彼は世界の外側で戦っていて、私は王都の真ん中で、世界の形を守る役目を続けていた。

 私の知っているユリウスは、どこまで“過去”になってしまっただろう。



 応接室の扉を開けると、そこにいたのは、私の知らない男だった。

 背は伸び、肩幅も広くなった。

 剣と魔法の痕跡が焼きついたような身体。

 少年のころのあどけなさは、どこにもない。

 けれど、私を見るときの目だけが、変わっていなかった。

「……久しぶりだな、リオナ」

 低くなった声が、私の名前を呼ぶ。

 条件反射のように、返事が口からこぼれた。

「お帰りなさいませ、ユリウス様」

 それだけで、喉が詰まる。

 言いたいことは山ほどあるのに、五年分の言葉が、最初の一音で全部つかえてしまった。

 沈黙を破ったのは、彼のほうだった。

「その……まずは、言わなきゃならないことがある」

 ユリウスは、ゆっくりと頭を下げた。

「勝手に手紙を送りつけて、何年も放置して、本当にすまなかった」

「…………」

「言い訳をするつもりはない。許してくれとも言わない。怒ってくれていい」

 まっすぐな謝罪だった。

 あまりに真正面からで、私は逆に身構える。

「……許せると思っていらっしゃるのですか?」

 静かに問い返すと、彼は苦笑とも自嘲ともつかない顔をした。

「思ってない。たぶん、俺は一生、お前に頭が上がらない」

「わかっていらっしゃるなら、話が早いですわね。では、本題に入りましょう」

 私はドレスの裾をつまみ、席に腰をおろした。

 彼も少し遅れて向かい合う。

「五年前の手紙。婚約を解消したいと書かれていましたね」

「……ああ」

「その意志は、今も変わりませんか?」

 ユリウスの肩がぴくりと揺れた。

「……それを、先に聞くのか」

「当然ですわ。あの一行で、私の人生はずいぶん書き換えられましたもの」

 彼はしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。

「……変わった」

「え?」

「今は、解消したくないと思っている」

 胸の奥で何かが大きな音を立てて崩れた。

「……都合が良すぎませんこと?」

 必死で表情を固める。

 唇が勝手に震えそうになるのを、奥歯で押さえつける。

「五年前お送りになったのは、王太子としてのご決断ではありませんの?」

「違う」

 即答だった。

「あれは、王太子としてじゃない。──一人の臆病者としての、逃げの一行だ」

 臆病者。

 彼が自分にそんな言葉を使うのを、私は初めて聞いた。

「魔王の城に向かう前夜、お前の名前を何度も思い出した。

 もし俺が死んだらどうなるか。もし、死ななかったとしても、戻ってこられなかったらどうなるか」

「戻ってこられない?」

「……世界を救った勇者は、世界の外側に置いておくのがいちばん都合がいい、って話だ」

 淡々とした口調の裏に、乾いたものがにじんでいる。

「王家の血筋に魔王の呪いが混じる可能性。権力争い。勇者信仰の暴走。

 俺が王都に戻らないほうが丸く収まるって意見は、思ってた以上に多かった」

「そんな……」

「だから、どこか辺境に封じられる覚悟で出ていった。

 ……そのとき、どうしても怖かったのは、お前を巻き込むことだった」

 ユリウスは私を見ないまま、拳を握りしめる。

「俺がいなくなれば、お前は別の男と政略結婚をさせられる。

 その相手がまともな人間とは限らない。

 それは嫌だった。俺のせいで、お前の人生がぐちゃぐちゃになるのが一番怖かった」

「だから、先に切り捨てておこうと?」

「そうだ。最低だろう?」

 自嘲を含んだ笑みが、妙に痛々しい。

「最低ですわね」

 私はあっさり肯定した。

「こちらの気持ちを一行で踏みにじって、そのうえ五年も沈黙なさった。

 怒るなと言われるほうが無理ですわ」

「……ああ」

「でも、ユリウス様」

 そこでいったん区切り、彼の顔をまっすぐ見る。

「私が一番腹立たしいのは、別のところでしてよ」

「別の……?」

「人生をぐちゃぐちゃにするかどうかを決める権利は、あなたお一人のものではありませんわ」

「っ……」

「私の人生は、私のものですもの。

 勝手に“守るため”と称して、勝手に捨てるのはやめていただきたかった」

 沈黙が落ちる。

 ユリウスは、初めてこちらを正面から見た。

 勇者と呼ばれるようになった男の目ではなく、五年前と同じ、臆病で誠実な青年の目で。

「……そうだな。本当に、その通りだ」

 彼は深く息を吐き、背もたれに身を預けた。

「俺は、お前を守るって都合のいい言葉で、自分の罪悪感から逃げただけだ。

 お前に打ち明けて、拒絶されるのが怖かった」

「拒絶、ですの?」

「『世界のために犠牲になってくれ』って頼むことになると思ってたから。

 俺がいない未来を、お前に押しつけることになるから」

「……ユリウス様」

 騎士たちも、聖女も、魔法使いたちも。

 彼と同じ場所で戦った人たちは、いま、この王都にはほとんど残っていない。

 誰かは死に、誰かは故郷へ帰り、誰かは英雄として遠い地に封じられた。

 その重さを、少しだけ想像してしまう。

「私も、臆病者ですわ」

 思わず、ぽつりと漏らした。

「怖かったのです。あなたのいない未来も、あなたが変わってしまった未来も。

 だから私は、王都に残された“居心地のいい役割”にしがみついていました」

「……居心地のいい役割?」

「公爵令嬢として、王太子妃候補として、政略の駒として。

 誰かの期待通りに振る舞っていれば、『自分の物語』を考えずに済みますもの」

 私は苦笑する。

「あなたの一行は、確かに私の物語を書き換えましたわ。

 でも、それまで私には、自分で書いた物語なんてひとつもなかったのです」

 机の引き出しにたまった無数の“下書き”たちが、頭の中をよぎる。

『どうしても、行かないでほしい』

『勇者になんてならなくていいから、私の隣にいて』

『あなたがいない世界なんて、要りません』

 書いて、破って、隠して。

 誰にも見せられない、情けない言葉ばかり。

「五年間、私はあなた宛ての返事を下書きし続けました。

 どれも最後まで書けなくて、最後まで送れなくて。

 それでも──やめられなかった」

「……どうして?」

「たぶん、それがやっと手に入れた『自分の物語』だったからですわ」

 ユリウスが、息を呑む音がした。

「魔王を倒した勇者様。

 あなたの物語は、世界中の吟遊詩人が歌うでしょう。

 でも、私の物語は、あの小さな紙切れにしか存在しない」

 私は片手を伸ばし、側の机の引き出しを開けた。

 ぎっしりと詰まった紙束が、重みとともに姿を現す。

「……それ、全部」

「ええ。あなたへの返事の下書きですわ」

 呆然とする彼の前で、一枚を適当に引き抜く。

『あなたがいなくても、私は生きてみせます。そのうえで、生きているあなたを恨んでみせます』

 懐かしい怒りと、どうしようもない愛しさと、幼稚な意地が混じり合った文面。

 思わず眉をひそめて笑ってしまう。

「完璧に醜いでしょう?」

「……いや」

 意外にも、ユリウスは首を振った。

「俺には、眩しい」

「眩しい?」

「俺は、お前から届くはずだったこういう言葉を、最初から奪ったんだ。

 怒りも、恨みも、執着も。

 それでも俺のことを考えてくれていた証を、全部」

 彼の声が少し掠れる。

「本当は、一通でもいいから受け取る覚悟を持つべきだったんだ。

 嫌われるのが怖くて、“綺麗な勇者”でいるために、お前の感情を切り捨てた」

「……ユリウス様」

「だから、願いがある」

 彼は、まるで祈るような目でこちらを見た。

「その下書きの山の中から──俺に、一通だけ選ばせてくれないか」

「選ぶ?」

「俺が、ちゃんと受け取るべきだった“返事”を、一つでいいから読む権利を、俺にくれ」

 胸が痛くなるほど締めつけられる。

「……あなたにとって都合のいい一通を選んで、『ほら、これなら許されるでしょ』とおっしゃるおつもりではなくて?」

「違う。どれが都合がいいのかなんて、俺にはわからない。

 ただ、五年分のどれだけわがままで、身勝手で、醜くても──それを読んで、受け止めたい」

 世界を救った勇者らしからぬ、みっともない願い。

 でも、だからこそ、今の彼の言葉に嘘はないのだと思えた。

「……わかりましたわ」

 私は紙束を両手で抱え、彼の前に差し出した。

「お選びになってくださいませ。

 あなたが本当に向き合いたいと思った私の言葉を」

 長い沈黙。

 紙が擦れる音だけが、部屋の中に続く。

 やがて、ユリウスの手が一枚の紙で止まった。

 破れかけて、端が少し焦げている。

 たぶん、暖炉に投げ込もうとしてやめた日のものだ。

「……これにする」

「どのような内容でしたかしら。覚えておりませんわ」

「読んでもいいか?」

「どうぞ」

 ユリウスは深呼吸を一つしてから、紙面を開いた。

『世界のために死なないでください。

 私のために、生きていてください。

 もしそれが許されない世界なら、そんな世界、滅んでしまえばいいと思います』

 自分の字なのに、他人の遺書を覗き見るような気分になった。

 ユリウスは、しばらく何も言わなかった。

 握る指先が、かすかに震えている。

「……最悪だな、この世界」

 ぽつりと、彼が言った。

「お前に、こんなことを書かせた世界なんて」

「ユリウス様?」

「俺はずっと、『世界を救う』って言葉に縛られてた。

 でも、本当に救いたかったのは、最初からお前一人だったのかもしれない」

 彼は紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。

「ありがとう、リオナ。俺のために、世界を嫌ってくれて」

「別に、あなたのためだけに嫌っていたわけでは……」

 口ごもる私を見て、彼はふっと笑う。

「今は、そのわがままが嬉しい。

 世界のために死ぬ勇者じゃなくて、お前一人のために生きる臆病者でいられたことが」

「……それで、ユリウス様」

 私は姿勢を正した。

「ここから先の話は、“下書き”の続きですわね」

「続き?」

「ええ。あなたは五年前、一行の下書きで私との物語を終わらせようとした。

 私は五年間、返事の下書きばかりを書いて、本当の一行を出せなかった」

 指先を重ね、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「今こそ、清書なさるべきときですわ。あなたの言葉で」

 ユリウスは、目を細めた。

「……清書、か」

「はい。世界のためでも、王家のためでも、公爵家のためでもない。

 ユリウス=アストリアという一人の人間として、

 そして、リオナ=フロイラインという一人の人間に向けて」

 彼は立ち上がり、私の目の前まで歩み寄った。

 昔と同じ距離。

 けれど、もう子どもではない距離。

「俺は」

 喉の奥から搾り出すように、言葉が紡がれる。

「俺は、世界の英雄になんてなりたくなかった。

 ただ、お前の隣にいられるくらいの男でいたかった」

 こわいほど真っ直ぐな告白。

「だから、ここから書き直したい。

 勇者と公爵令嬢という肩書きじゃなくて、

 ユリウスとリオナとして、もう一度──俺と婚約してくれないか」

「……今さら、ですの?」

 たぶん、意地悪な言い方になってしまった。

 それでも、彼は真剣な顔のままだった。

「今さら、だ。五年も遅れたことは、俺の一生の罪だ。

 それでも、ここで言わなかったら、俺はまた臆病者のままだ」

 胸の奥で、何かがふっと軽くなる。

 五年間積もり続けた“下書き”の山が、ようやく燃やされる音がした。

「条件がございますわ」

「なんでも言え」

「これから先の物語は、すべて“下書きから始める”こと」

「下書きから?」

「はい。あなたがどんなに立派な決断をしようとしても、

 まずは私に見せてくださいませ。

 『世界のための一行』を書く前に、『私のための落書き』を、」

 そこで一度笑って、続ける。

「そのうえで、二人で清書しましょう。

 あなたの物語も、私の物語も、誰のものでもない“私たちの物語”として」

 ユリウスの目が、わずかに潤んだ。

「……そんな条件なら、喜んで」

「もう一つございますわ」

「まだあるのか」

「ええ」

 今度は、私のほうから一歩近づいた。

「もし、また勝手に一行だけで私を置いていこうとしたら──」

 彼の胸ぐらを、そっとつまむ。

「そのときは、世界の果てだろうと魔王城の地下だろうと、どこへでも迎えに行きますわ。

 あなたが嫌がっても、泣きながらでも、引きずってでも連れ戻します」

「……こわいな、それは」

「覚悟なさいませ、勇者様」

 言うと、ユリウスは堪えきれないというように笑った。

「それなら、二度と逃げるわけにはいかないな」

「最初から、そうなさってくださいませ」

 私も、やっと笑えた。

「では、あらためて」

 ユリウスは片膝をつき、幼いころ何度も真似をして遊んだ“騎士の礼”の姿勢を取る。

「リオナ。俺の最初で最後のわがままを聞いてくれ。

 世界の英雄ではなく、一人の臆病者として──」

 蒼い瞳が、真っ直ぐに私を捉える。

「俺の婚約者になってくれ」

 五年前なら、きっと震えながらうなずいていた。

 でも今の私は、五年分の“下書き”を背負っている。

 だから、まっすぐに応える。

「よろしいですわ」

 膝を折り、彼と視線の高さを合わせる。

「では、私のほうからも一行、清書させていただきます」

 五年かけて選び抜いた、たった一つの言葉。

「ユリウス様。どうか、私のためにも、生き続けてくださいませ」

 彼は、まるで呪いの解けた子どものような顔で笑った。

「……ああ。約束する」

 その日、机の引き出しに残った“下書き”は、すべて暖炉の火にくべられた。

 けれど私の胸の中には、新しい白紙の物語がひとつ、確かに置かれている。

 そこに最初の一行を書き込むのは、私と彼の仕事だ。

 勇者と公爵令嬢の物語ではなく──

 ユリウスとリオナの、誰にも歌われない、小さな物語として。

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