思わぬ接触
HRが終わり、クラスメイトが散っていく。
ときどき一緒に帰ることのある窪は、好きな漫画の最新刊の発売日だからと先に教室を出ていった。その漫画は、最近アニメ化で話題にもなっている『俺だけが強くなり続ける件』、略して『俺つよ』という作品だ。
「マジで面白いから。ただの主人公つえーじゃないから。最終的に巨乳美女のハーレム作る話だろとか言わせないから」
人が数えるほどしかいなくなった、放課後の教室。
窪が真顔で迫りながら押しつけ……貸してくれた漫画の表紙を見つめる。
以前から窪に推されていたこともあり、少し調べたからその人気ぶりと話の内容はそれなりに知っていた。
だが俺は、こういう異世界転生ものや主人公最強系のラノベも漫画もあまり通っていないし、どんな本でも読み進めるのがとてつもなく遅い。一度いいなと思って買った本でも、途中のところで一年以上放置してしまうレベルだ。
窪にまともな感想を返せるかどうか、すごく不安だった。
「どうしよ……」
美麗なイラストが表紙の絵を見つめ、俺は呟く。
幼なじみカップルのグループを抜けてから、まともに俺と会話をしてくれるのは窪くらいだ。そんな彼の好きなものに対する気持ちを踏みにじるようなことをしてしまったら。
––––行人にはオレら以外、仲良くしてくれるような奴いないって。
––––あたしらくらいだよ〜?ユキがどんなにやらかしても付き合ってあげてるのなんてさぁ。
……ああ、まただ。
あいつらから離れたのは、あいつらに言われたことを否定するためでもあったのに。
机の上で作った拳に自然と力が入った。
「––––ねえ」
すぐそばで声がして、思わずビクッと肩が跳ねる。
「そんなに驚く……?」
同じ声が半ばあきれたように言った。
横で何度も聞いたことがある声。でも、まさか……。
俺はおそるおそる顔を左横に向けた。
気だるそうな丸い瞳が俺を見ている。
立っている彼女の目線は、座っている俺と揃いそうでギリギリ揃っていなかった。
「……えっと、今話しかけてたのは」
「私だけど」
「あ、いや、そうじゃなくて。齋藤さんが話しかけてた相手は……」
「吉崎だけど」
「…………」
目の前にいるのは、俺の隣の席で、一度も言葉を交えたことのない少女––––齋藤衣乃。
俺の名前を覚えていたこともそうだが、彼女に声をかけられたということが一番信じられなかった。
いきなりの苗字呼び捨てなんか全く気にならないくらい、今の状況は意味がわからない。
「………何か用だった?」
会話が0だった相手との突然の交流にテンパるあまり、舌がもつれそうになりながらもなんとか言葉を紡ぐ。
齋藤さんは無表情のまま口を開いた。
「猫好きなの?」
……ん?
質問を質問で返されてしまい、俺は一瞬固まる。
あまりにも唐突だった。
「え、えっと……?」
「いつも猫動画見てるから。好きなのかと思って」
「は、はあ……え。いつも、って」
「……?隣の席だし、見えないことはないでしょ」
一切変わらない表情のまま、首を少し横に傾ける齋藤さん。
……目の前の美少女に、猫動画を見ている姿をいつも見られていた?
…………え?
「猫見てるときの吉崎、幸せそーなオーラ出てるよね」
何気ない齋藤さんの言葉が止めとなり、俺の頬は発火したように熱を持った。
だって齋藤さん、俺が猫動画見てるときはいつも寝てるか、教室から出ているかだったのに。クラスメイトと会話してるところなんて見たことないくらい周囲の人間に対する興味が薄そうだったし、俺なんかを気にすることはないと思っていたのに。
齋藤さんへ憧れを持つ男子たちからすれば、視界に入れてもらえたことだけでも恵まれている。
俺は普段から見られていただけでなく、話しかけられてしまった。
ありがたく思えという叫びが飛んできそうだが、それどころじゃない。
猫を見て緩みきっている俺の顔を、ずっと隣で見られていたという事実。
とてつもなく恥ずかしくて、まともに齋藤さんの顔を見ることができなくなる。
「ねえ、吉崎」
「はい……」
うつむいたまま返事をする。蚊の鳴くような声が出た。
次は何を言われてしまうのか……。
「吉崎が見てる猫動画、見せて」
ああ、やっぱり俺の恥が出て…………。
え?
目を見開き、顔を上げる。
齋藤さんの表情はさっきと変わらず無だった。
「……俺が見てる、猫動画?」
「うん。特にあれ見たい、グレーでまん丸な猫のやつ。吉崎が今朝も見てた」
「今朝の……あ、マルのか」
「マル?」
「えっと、あの猫うちの飼い猫で」
「ふーん。マル……」
まん丸で可愛いから、と家族全員の意見が一致して命名したのだが、安直すぎるとか言われそうだ。
実際、幼なじみの大毅と芹夏には「センスな〜」「いっそデブにしたら?」って笑われたし。
「可愛い。合ってるね」
齋藤さんから返ってきたのはまったく予想に反したものだった。
こころなしか齋藤さんのまとう雰囲気が柔らかい。
「あ、ありがとう、ございます……」
思わず敬語になりながら、俺は胸が温まるのを感じた。
可愛がっているマルの名前を褒めてくれたことへの嬉しさと、もうひとつ別の感情が同時に湧き上がっている。
もうひとつは何なのだろう。
「ね、マルの動画見せて」
齋藤さんがススッと身を寄せてくる。
俺は頷いてスマホを操作し、フォトを開く。
今朝見ていたマルの動画を選んで再生すると、齋藤さんの小さな顔が俺の手元を覗き込んできた。
さっきよりもずっと近い可愛らしい顔にどぎまぎしながら、俺もスマホの中のマルに視線を向けた。