あと一歩(行人視点+気まぐれ少女のひとりごと⑤)
衣乃さんたちとファミレスでご飯を食べながら過ごす時間は和やかに流れていった。
体育祭でのハイライトを語り合い、うちのマルの写真や動画を皆で見て癒され、笑い合う時間はこの上なく温かい。
「そういや結局、斎藤は何で呼び出されてたわけ?」
デザートのプリンをスプーンでつつきながら、洸樹が何気なくこぼす。
そういえばさっき、せっかく衣乃さんと二人になれたのに聞けていなかった。
斎藤さんは食べかけだった辛めのチキンを皿に置き、ナプキンで指先を拭きつつ言った。
「二人になった途端、いきなり「君可愛いよね」から始まって何なんだろうと思ったら、今度は自己PR的なの始まって。長くなりそうだったから、もう戻っていいか聞いたら「俺と付き合う気ない?」って聞かれた」
だから、たぶん告白?
首を傾げて水の入ったコップを傾ける衣乃さん。
俺、洸樹、士朗は無言で互いの引き攣った顔を見合った。
おそらく三人とも同じことを考えている。
回りくどいうえにかなり痛い、と。
「その、先輩に衣乃さんは何て……?」
俺が訊ねると衣乃さんは顔から一段と感情を消した。
「……先輩とは微塵もないです、って断った。初対面で可愛いとか言って自分語りする人、意味わからなくて寒気するし。そうじゃなくても断ってたけど」
一句一句凄まじい切れ味を放つ衣乃さんの言葉に、洸樹と士朗が同時に「ブフォッ」と吹き出す。
彼女の周りで吹き荒れる冷風をびしびしと肌で感じながら、俺は野球部の先輩を少しだけ憐れんだ。
それからしばらくして打ち上げはお開きとなり、俺たちは店を出た。
洸樹と士朗とは店の前で別れ、俺は衣乃さんを駅まで送ることになった。衣乃さんと過ごすときの流れがすっかり恒例化している。
「行こうか」
「……ん」
衣乃さんと二人で歩き出す。
ファミレスに行くときよりも会話はなかったが、気まずさはその倍あった。
ふっと隣を見やると衣乃さんもこちらを見ていて、二人同時に目を逸らす。
二人きりになると思い出してしまう。ほとんど告白に近いやり取りをしたことを。
それは衣乃さんも同じなのだろう。
まだ信じられない気持ちが強い。
誰よりも特別な人と、物理的な距離だけじゃなく心まで近いところにいるなんて。
それを噛みしめるたびに、心臓が刻む音が歩く速度よりも速くなっていく。
並行して奥に仕舞っていた欲が顔を出し始める。
信じられないのなら、さっさと受け入れられる形にしてしまえと。
「……––––っ」
駄目だ。言葉が喉につっかえて出てこない。
脳が言いたいことをまとめようとして、逆にごちゃごちゃにしてしまう。
ふと、大毅に告白しに行った芹夏を思い出す。あのときの芹夏も相当勇気を振り絞ったんだろう。
自分の想いを伝えることはこんなにも難しいことだったのか。
一言も発さないまま、俺たちは駅に着いた。
発車標にはちょうど衣乃さんの帰る方面行きの電車が表示されている。発車時刻はもう間もなくだ。
「……それじゃ、またね」
「……うん」
そう言いつつ、改札の前で向かい合ったままだ。
澄んだ湖の水面のように、丸い瞳がとろりと煌めいている。とても綺麗で溺れそうだった。
想いを告げることにはまだ怖さを覚えるくせに、己の欲に突き動かされる身体は驚くほど躊躇いがなかった。気づけば彼女の手に触れていた。
小さな手は一瞬ぴくりと動いたが、振り解かれなかった。
俺よりも小さく細い指先はいとも容易く包み込めてしまう。名前を好きに呼び合えることになったあの日、無遠慮にこの手を掴んだことに心苦しくなった。
傷つけてしまわないようにそっと指を絡ませると、向こうからも同じようにしてくれた。それだけで愛おしさが溢れて、ほんの少し力が込もる。
一分にも満たない触れ合いだった。
衣乃さんは微かに笑みを浮かべてから、改札を通っていった。
長い癖っ毛を揺らし人に紛れていく背中を見送りながら、ほのかに残る温もりを閉じ込めるように手を握り込んだ。
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【衣乃side】
電車に乗り込み、空いている席に腰かける。
トクン、トクンと鼓動を刻む胸に手を置く。その手がさっきゆきちゃんと繋いだ手だと思い出して、頬がぽわっと熱を帯びた。
……夢なんじゃないか。
腕を軽く抓ってみると、たしかに痛みがあった。
お互いの呼び方を変えた日、ゆきちゃんに引き止められたときとはまたちがう。
引き寄せられるように手を繋いでいた。
あんな風に手を繋ぐのは「友達」の今ではできないと思っていたのに。
やがて動き出した電車の音も耳に入らなかった。
ゆきちゃんと同じ白組だったから、憂鬱なばかりの体育祭が珍しくマシになると思ったのに。
全く知らない先輩に呼び出され、内容の見えてこない話を聞かされて苛立ったことが小さく思えるほどの出来事が起きた。
ダンスパフォーマンス終了後、ゆきちゃんの幼なじみの女子が突然倒れそうになり、近くにいたゆきちゃんが受け止めたのだ。抱きしめているようにも見える光景だった。
私は心をざわつかせながら、ゆきちゃんとあの子が並んで体育館へ向かっていくのを眺めていた。
……そうだ。ゆきちゃんの近くにはすでに、あんなに可愛い子がいたんだ。
気づいた途端、さまざまな感情が私を襲った。
ゆきちゃんに触れられ、そばにいてもらえることへの嫉妬。名前を呼び捨てし合える近しい間柄であることへの羨ましさ。異性として魅力的な存在が近くにいることへの焦りと不安。
感情の渦が窪と赤パーマに対して抱いたものの比ではなく、あのとき以上に抑えが効かなかった。
自分勝手な思いをコントロールできず、酷い態度をとった私をゆきちゃんは呆れることも突き放すこともせず、何かしてしまったなら謝りたいと言ってくれた。
抱いていたものを感情のままにぶちまけてもそれを受け止めて、言葉を返してくれた。私が先輩に呼び出されたとき、ゆきちゃんも私と同じ思いを抱いていたのだと。
これではお互いに嫉妬し合っていたと打ち明けたようなものだ。
それはつまり、私が望む関係がほとんど現実になりかけているということ。
……すぐには飲み込めなかった。
改札の前で手を繋いだときの、私を見つめるあの目。こちらまで浮かされそうな熱を孕んでいながら、言いようのないもどかしさを秘めているような。
私の拗らせた妄想でなければ、ゆきちゃんは私と同じ気持ちでいてくれている。
あれが勘違いなら私は舌を噛み切って死ぬ。そのくらいの確信はあった。
彼の瞳に映されていた瞬間を思い出し、きゅうう、と胸が締めつけられたとき。
膝上のスマホがブブッと震えた。座席から数センチほど浮いた気がする。
スマホを開くとメッセージの通知が表示されていた。
送り主は、ずっと頭から離れない人。
ラインを開き、メッセージを確認する。
灰色の毛並みで丸みのある猫が寝そべっている「お疲れ様」のスタンプのあとにメッセージが続いた。
〈衣乃さんに直接伝えたいことがあるんだ。明日の放課後、時間もらえないかな〉
小さく息を呑む。
見間違いをしていないか、目を画面につきそうなくらい近づけ、何度も文章を読み返した。
「………まさか、ね」
呟きとは反対に、期待に大きく胸が鳴る。
私が降りる駅への到着を知らせるアナウンスが車内に響いた。




