気まぐれ少女のひとりごと④
今、何時だろう。
自室のベッドに寝転がったままスマホを開く。現在時刻は21時34分。
日付は今日のまま。全然日を跨いでいなかった。
「……まだ今日なんだ」
独り言ちた瞬間、もう何回目、何十回目かわからないくらい思い出した出来事が鮮やかに脳内を流れていく。
身体中を巡る血という血が沸騰し、顔に熱が集まってくる。
たまらず枕に顔面ダイブした。
「〜〜〜〜っ……!」
最小限に止めようとした興奮は両足のバタつきに表れてしまう。
こんなに感情を抑えられなくなるなんてどうかしてるんじゃないかと思うし、こうなるのも仕方ないとも思う。
初めて恋愛的に好きだと自覚した相手と、あんなことがあったのだから。
放課後、私はちょっと……だいぶやらかしてしまった。
ぽっと出赤パーマに続き、吉崎と仲の良い窪まで彼と下の名前で呼び合った。それが目の前で行われた私は、先を越された悔しさと嫉妬から暴走してしまったのだ。
何も知らない吉崎が困るのも当然で、駅まで一緒に歩いてもらったときに急に怒った理由を聞かれた。
わけもわからずキレた奴を宥めてくれた彼には知る権利がある。でもこんなことを言ってもさらに困らせるだけだ。
葛藤したけれど前者の気持ちが強かった私は、赤パーマと窪がずるくて羨ましかったことを打ち明けた。
改めて振り返ると、本当に恥ずかしい。
吉崎の前であんな醜態を晒すなんて。人の目なんて気にしない私が、彼の目にどう映るかだけは気になるなんて。
嫉妬したと素直に認めているようなことを聞いて、吉崎はどう思うんだろう。きっと困るだけに決まってる。でも困ってほしくもある。
整理のつかない感情を押し込めて、駅内に向かおうとした。
「待って……!」
彼は私の手を掴み、赤い顔で言った。
「俺は、齋藤さんにも好きに呼んでほしい、し。……齋藤さんのこと、下の名前で呼びたい」
駄目じゃなければ、と小さく付け足す吉崎。
声の震え、私の手を少し強く握る手から彼の緊張が伝わってくる。
それでも現実だと信じられない。あまりにも都合が良すぎる。
だってさっき、嫉妬したって暴露したようなものなのに。
「……いいの?」
吉崎がこくりと頷く。
普段の頼りなげな目は真剣そのもので、ようやく夢ではないのだと実感した。
「じゃあ、ゆきちゃんって呼びたい」
「ちゃん……?」
「好きに呼んでほしいって言ったじゃん。……嫌なら」
「あっ、ちがうちがう。ただちょっと驚いただけで、全然嫌なんかじゃないよ」
「そう。じゃあ、ゆきちゃん」
「……うん」
私だけの呼び名を口にすれば、優しく目を細めて笑いかけられた。
それだけで赤パーマと窪に抱いていた嫉妬がスウッと消えていき、ほわほわとした温かいもので心が満たされていく。
もっと感じたくなって、吉崎……ううん、ゆきちゃんに一歩近づく。
「呼んで。私のことも」
「あ……。––––衣乃、さん」
私の手を掴んでいないほうの手を口元にやりながら、ゆきちゃんが私の名前を呼ぶ。
トクリ、と胸が鳴った。
頬がじわじわと熱を帯び、自然と口元がほころぶのがわかる。
「呼び捨てでもよかったのに」
「そ、れは……。まだハードルが高いというか」
「まだってことは、いつかは呼び捨てするんだ」
「えっ⁈あ、いやっ……!」
あたふたするゆきちゃんが可愛くて、ふふっと笑ってしまう。
ちょっとした悪戯心だったけど、いつか「さん」はとったバージョンでも呼ばれてみたい。
「……いつか。いつか「さん」なしで、呼んでもいい?」
さっきよりも顔を赤くしたゆきちゃんの言葉に、今度は私が動揺する番だった。
ほんの少し突いてみたら見事に返り討ちに遭ってしまった。
私を見つめるゆきちゃんの瞳がなんだか熱っぽくて、それにあてられたように体温が上昇していく。
ずるいよそんなの。反則だ。
「……うん。待ってる」
めちゃくちゃ緩みきった顔をしているだろうな、と思った。
私のことを知っている人なら声を揃えて言いそうだ。「そんな顔できたのか」と。
自分でもこんなに表情筋を使っている感覚はいつぶりか知れない。
でも笑うなと言うほうが酷だと思う。
初めて好きになった人が、嬉しくなる言葉ばかりをくれるのだから。
帰りの電車の中でも、帰宅してからも、夕飯を食べている間も、風呂に入っているときも、ずっとあの出来事が頭にあった。
夕飯のときなんかは、好物の唐揚げが隠れるくらいマヨネーズをかけ過ぎて、母さんに「もったいないでしょ⁈」と怒られた。思った以上に浮かれていたらしい。
ふわふわと浮いているような感覚は今も続いている。
下の名前で呼び合う関係になれた瞬間を思い出しては、本当に天まで昇りそうになるんじゃないかというくらいに舞い上がっている。
––––衣乃さん、また明日。
そう言って私を見送ってくれたゆきちゃんを思い出し、猫型クッションをぎゅむっと抱きしめる。
名前を呼ばれただけというで、言い表せないくらい感情の波に襲われる。
明日から同じ現象が続くと思うと叫び出したくなった。
もう夜だし近所迷惑にもなるからやらないけど。
「……そういえば、手、掴まれたんだっけ」
ふと思い出して右手に視線を落とす。
ゆきちゃんから触れられたのも、そもそも父さん以外の異性から触れられたのも初めてだった。わりと細くて白い、けれどちゃんと骨ばった手。
以前の私なら、他人に許可なく触れられようものなら床に叩きつける勢いで振り払っていただろう。
でも今回は他でもない好きな人からだ。嫌悪感なんて微塵もなかった。
私が指摘するまでゆきちゃんは気づいておらず「勝手にごめん」と軽く青ざめながら手を離していた。
咄嗟にとはいえ異性の手を断りもなく掴むなんて失礼極まりない、といった顔だった。
……言わずにいたらしばらく繋いだままだったのかな、なんて。
何の気兼ねもなく触れ合える日が来るとすれば、それは私がゆきちゃんと付き合えたあとだ。まだ「友達」止まりの今では、私がよくてもゆきちゃんはきっと遠慮してしまう。私とは反対に人目を気にするタイプだろうし。
いや待てよ。
「そもそも異性として意識されてるのか……?」
ここに来て重大なことに気がつく。
ゆきちゃんから私自身をひとりの女子として見てもらえているのかもわからないのに、恋人になりたいとかほざいていたのか、私。
というか、ゆきちゃんに関して知らないことのほうが多い段階で、よく付き合えたら〜とか考えられたな?
クラッときてベッドに倒れ込む。
いくら表情筋が動かなくとも顔色は酷いことになっているはずだ。
感情のままに動いた結果、ここまで頭がパアになるなんて。
「……恋は盲目……」
呟いたことわざが恋愛初心者の私に深く突き刺さる。
他人に対してあまり興味を示さなかったことが、ここで仇となって表れるとは。
……目下の課題は、ゆきちゃんとより親しくなること。
まずそれだ。
そう決めた私は、自分の愚かさと恋の怖さに重く長いため息を吐き出した。




