イベントに次ぐイベント②
「……ほっ」
齋藤さんが振った猫じゃらしを、マルの短い足がすばやく捕えようとする。琥珀色のきゅるっとした瞳は獲物を狙う獣のそれと化しており、おじいさんおばあさんの家の猫とも遊んだのだろう齋藤さんの猫じゃらしさばきもなかなかのものだった。
一時間ほど前に初めて顔を合わせたばかりだというのに、もうすっかり打ち解けている。
俺はテーブルのゴミを片付けつつ、美少女と飼い猫の戯れを眺めていた。
マルを見た途端まるで目を焼かれたような反応をした齋藤さんが落ち着くのを待ってリビングに移動し、俺たちはコンビニで買ったものをテーブルに広げた。
「実物、可愛すぎた……」
そう呟きながら、齋藤さんは自分の手よりも大きいカツサンドを食していた。
まさかあれほどの反応をされるとは思わなかった。マルもちょっとビクッとして後ずさってたし。
でもそのくらいうちのマルの可愛さが凄まじいと認められた感じがして、誇らしくもある。かつてマルを馬鹿にしたバカップルに自慢してやりたいくらいに。
昼食を食べている間、ずっとマルを見ていた齋藤さんにあとで遊んであげてくれないかと頼んだら「いいの?」と細い首がもげるのではないかという勢いで振り向いてきた。苦笑しながら頷けば瞳を見たことがないほど輝かせていて、感情が読めない美少女というイメージがだんだん自分の中で崩れていくのを感じた。
テーブルに持ってきた二人分のコップにペットボトルのお茶を注ぎ、猫じゃらしを振る齋藤さんに声をかける。
「ここにお茶置いておくから、好きに飲んで」
「わざわざありがと。なんか私、遊んでばっかでごめん」
「くつろいでもらえてるなら何よりだから」
「何なら自分の部屋よりくつろいでるかも」
「それはさすがに嘘でしょ」
齋藤さんが言うと全部本気みたいに聞こえてくるから怖い。
楽にできているのは本当のようで、学校にいるときよりも雰囲気が柔らかく感じる。マルがいることが大きいんだろうけど。
俺は齋藤さんの横に腰を下ろし、いっぱい遊んで満足そうなマルを撫でた。
「よかったなー、マル。遊んでもらえて」
ンニャ、と鳴き声が返ってきて自然と頬が緩む。
膝に乗ってきたマルの顎を撫でてやる。ゴロゴロと喉が鳴る音を聞いていると、横からじいっと見られていることに気づいた。
あ、まただらしない顔を見せてしまった。
「……やっぱり吉崎って、マルにはすごい優しい顔するよね」
興味深そうに俺とマルを交互に見ていた齋藤さんがしみじみと呟くように言う。
「学校にいるときと全然ちがう。別人レベル」
「そ、そこまで?」
「うん。マルには何もかも許してる感じっていうか」
「何もかも……」
俺は膝の上のマルに視線を落とす。琥珀色の丸い瞳も俺を見上げてくる。
……言われてみれば、そうかもしれない。
マルは俺にとって家族であると同時に、心の支えにもなってくれたから。
「––––マルとは中一のときに出会ってさ。うちの近くにときどき現れる野良猫だったんだけど、初対面から擦り寄ってきてくれて。母さんと父さんにも懐いてて、気づいたら皆してマルが来るの楽しみにしてた」
唐突に過去を語り始めた俺に戸惑うこともなく、齋藤さんは静かに頷いてくれる。
太ももに頭を擦りつけるマルを見つめながら俺は続けた。
「その頃はあの二人……大毅と芹夏との関係が変わってきてた頃でもあって。今よりも自分から動けない奴だったから、いつも二人と一緒だった。……だけど、だんだん二人の接し方が「仲の良い幼なじみ」のそれじゃなくなった、というか」
脳裏に蘇ってくるあの頃の記憶に、口の中が苦くなる。
大毅が俺を引き合いに出して常に自分が上だという態度をとるようになったのも、芹夏が当然とばかりに俺をストレスの捌け口に使い始めたのも、全部あの頃からだった。
「雑に扱われてるなって感じても言えなかった。何でも言い合える仲のはずなのに。……本当、どうしようもなくてさ」
つい自嘲気味になってしまう。
なんでこんなことを話しているのかわからなくなりながら、それでも口を動かす。
「……ちょっとしんどくなってたときに家に帰ったら、ドアの前にマルが座ってて。いつもみたいに擦り寄ってきたマル見たら安心して、もうすごい泣いた。しばらく泣いてばっかだったのに、マル、ずっとそばにいてくれたんだ」
あの日のことは一生忘れないと思う。
家の前でしゃがみ込んで、声は抑えることができたけど涙はそうはいかなくて。
いきなりボロボロ泣き出す人間に、まだ名前のなかった猫は薄汚れた身体を丸めて寄り添ってくれた。
あの日、脆くなっていた俺の心を守ってくれたときから、マルは俺にとって何よりも大事な存在で一番心を許せる存在になったんだ。
「そういうことがあって、マルの前では楽な状態に見えてるんだと思……あっ」
いつの間にか鑑賞に浸っていたところで我に返る。
マルのほうを見ながら喋っていたから、齋藤さんの様子を全然気にしていなかった。
いくら猫絡みの話とはいえ他人の過去話なんて、途中から意識飛ばしてるんじゃ……と焦りながら齋藤さんのほうへ顔を向ける。
「ごめん、喋りすぎ––––」
「……そっか。うん、納得した」
首を小さく縦に振った齋藤さんは––––笑っていた。
丸い瞳をそっと細めて口角をほんの少し上げただけなのに、どうしようもなく惹きつけられる。
クラスの、いや学年の誰もが見たこともないであろう彼女の笑顔は、完璧に仕上げられたどんな人形よりも繊細でこのうえなく愛らしかった。
「マル、すごいね」
小さい手が俺の膝の上に伸ばされ、マルを撫でる。
その慈しみに満ちた眼差しは再び俺に向けられた。
「聞かせてくれてありがと。……そりゃ、マルが特別になるね」
それだけで、齋藤さんが俺の過去の話を受け止めてくれたことがわかる。
十分だった。
「じゃあ当分マルを超える特別な相手はできそうにない?」
「えっ?う、うーん……」
ちょっとからかうような口調で齋藤さんに訊ねられる。
考えもしなかったことに俺は頭を悩ませた。
マル以上に特別だと思える相手、今後出てくるのか……?
「……ふふ。ガチで考え込んでる」
笑われてしまい、真面目に考えていた自分がちょっと恥ずかしくなる。
一般的に特別だと思われる恋人あたりでもよかったかもしれない。
「超えられなくても、特別になりそうな相手いるじゃん。窪とか」
「窪?」
「だって友達でしょ?」
疑いもなく発せられたその言葉に胸がドクリと鳴る。
驚いた顔をしていたのだろう、齋藤さんが俺を見て不思議そうに目を瞬かせた。
なんでそんな反応をするのかとでも言いたげに。
俺と窪、友達に見えてたんだ。
「……窪はそう思ってくれてるか、わからないけど」
「思ってるでしょ。じゃなきゃ漫画の貸し借りしないし、昼休みに一緒にご飯食べたりもしないし。本人に聞いてみたら?」
何故だか齋藤さんに言われると、そうなのかもしれないと思えてくる。
所詮俺は窪にとってクラスメイトの域を出ない相手だと考えていた。
もしちがったら、なんて今日初めて考えた。
「あ、でもそうなると私も吉崎の特別候補か」
「へっ?」
素っ頓狂な声をあげる俺に、齋藤さんは無表情に戻っていた顔を指して平然と言った。
「連絡先交換してて、猫好き仲間で……うん、十分友達の条件になってる」
––––本当にこの人は、どうしてこうも簡単に言ってのけるんだ。
自分で言って頷く齋藤さんについ笑ってしまいながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。




