第九章 ―魔法
学術局の施設を出たとき、外の空はほんのりと夕暮れに染まっていた。
飛翠は何も言わず、ただ私の隣を歩いていた。静かすぎて、私の足音がやけに大きく感じる。私は何度も何度も、さっきレインから聞いた言葉を頭の中で繰り返していた。
——帰還できた事例はある。でも、少ない。 ——本人の意思が大事。 ——時間が経てば戻れなくなるかもしれない。
「……あのさ、飛翠さん」
「ん?」
「……本当に、私はここから帰れるの?」
私の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
彼は歩みを止めて、こちらを見た。目を細めて、少し考えるような仕草をしたあと、静かに答えた。
「“絶対”は、この世界にも、きっとそっちの世界にも存在しない。でも……帰れた人がいるなら、それは可能性があるってことだ」
私は黙って彼の顔を見つめた。
飛翠は、感情をあまり顔に出さない。けれど、今はその口調にどこか――優しさというか、私を突き放さない空気があった。
「じゃあ……何をすれば、帰れるの?」
「それを今から探していくんだよ。俺たちと一緒に」
「“俺たち”?」
飛翠はふっと笑って、首を傾けた。
「学術局は、いわば“記録する者たち”の集まりだからさ。異世界から来た人がいたら、その記録を集めるのが仕事。だから、君みたいな人に会ったのは、俺にとっても……初めてに近い」
「そんなに珍しいの?」
「帰還事例があったのは、ずっと昔だし……。俺がこの仕事についてからは、君が初めてだ」
私は小さく息を吐いた。自分がどれほど特別なのかは分からない。けれど、普通じゃないことだけは、嫌というほど伝わってくる。
ふと、目の前の道が開けて、公園のような広場に出た。人工の樹木と、静かに流れる水路。高層ビルに囲まれた空間は、自然とも人工ともつかない不思議な静けさに包まれていた。
「……ちょっと、見せたいものがある」
飛翠はそう言って、片手を上げた。
何も持っていない手のひらが、ゆっくりと前に出される。
すると――空気が震えた。
風がないのに、風が吹いたように感じた。空気が光をまとってねじれ、その中心に青白い光が集まっていく。まるで空間そのものがほどけて、別の“何か”が顔を出したようだった。
「……これが、魔法?」
「うん。これは“導素光”って呼ばれる現象のひとつ。簡単に言えば、エネルギーを視覚化した状態。魔法の一歩手前みたいなもんかな」
光は彼の指先で小さく弾けて、空中に溶けるように消えていった。
私の目は、その光に釘付けだった。
こんなもの、現実じゃない。映画かアニメでしか見たことがない。それが今、すぐ目の前で……目の前の“人”がやってみせた。
「あなたも、いずれは使えるようになるかもしれないよ」
「え?」
「この世界に長くいると、体が魔素に慣れて、少しずつ魔法を“理解”し始める。だから、君にも可能性はある」
魔法を、理解する――。
私はまだ、何も分かっていなかった。この世界のことも、自分のことも。 でも、分からないからこそ、知りたい。確かめたい。 この世界が私に何を求めているのか。そして私は、どこへ向かうべきなのか。
「……帰れる可能性があるなら、私は信じたい。だから……教えて。いろいろ」
「もちろん。俺でよければ、できる限り教えるよ」
飛翠の声は穏やかで、安心できるものだった。 夕暮れの空が、ゆっくりと夜に変わっていく。
私はこの世界で、確かに“第一歩”を踏み出したのだった。