第四章 ――現実の輪郭
飛翠に案内されて、私は浮遊歩道――いや、「歩道」と言っていいのかすら分からない宙に浮いたベルト状の通路――へと足を踏み出した。抵抗なく体が持ち上がるような感覚に、また心がぐらつく。
「……これ、浮いてるんですよね?」
「重力調整式の流動路です。都市部では当たり前の移動手段ですよ」
当たり前、という言葉が突き刺さる。 私は、まったく“当たり前”じゃない世界に、突然放り込まれてしまった。
さっき受け取ったカード――「仮識別者情報片」と呼ぶらしい――を握りしめたまま、私はただ、飛翠の背中を追っていた。
都市は静かに動いている。無音のまま空を滑空する乗り物、地上を走る光を帯びた機体、半透明のスクリーンに浮かび上がる広告。
でもそれらよりも、目に映る人々が普通すぎることが、逆に怖かった。 この世界の人たちは、何も疑問を抱かず、この風景の中で生きている。
私は、一体どこまで“異物”なんだろう。
「怖い、ですか?」
ふいに飛翠が振り返った。
「……少し、というか……全部です」
「それが普通の反応ですよ。よかった」
「よかった……?」
「この世界に来て、あまりにもすぐに馴染んでしまうと、それは逆に危険なんです」
「どうして……?」
「情報過負荷に耐えきれずに、人格が崩れることもあります。特に、あなたのように魔力と接続していない人は」
さらりと言われたけど、重い言葉だった。
人格が崩れる―― それってつまり、「自分が自分じゃなくなる」ということ?
「……本当に、私……大丈夫なんでしょうか」
「ええ。少なくとも、僕が見た限りでは」
「あなた、さっきからずっと落ち着いてますよね。……なんでそんなに、平然としていられるんですか」
飛翠は少しだけ笑った。
「……たぶん、こういう状況に慣れてるからでしょうね。あなたのような“転位者”に出会うのは、初めてではありません」
「他にもいるんですか、私みたいな人……?」
「稀に。ほとんどは、こちらに順応できずに……戻ってしまいます」
「戻れるの?」
「それは……場合によります」
あいまいな答えに、私は小さく息をのんだ。
「安心してください、とは言いません。でも……あなたは、まだ“自分で考えること”をやめていない。それが一番大切なんです」
彼の言葉は、理屈よりも、音として心に残った。 まるで、荒れた湖に静かに投げ込まれる小石のように、波紋を広げていく。
ほどなくして、私たちは銀色の柱に囲まれた建物の前に立っていた。
「ここは?」
「一時識別者管理局。正式な施設ではないけれど、情報片を仮登録するにはここが最も安全です」
自動で扉が開き、中に入ると、まるで医療施設と役所が融合したような清潔な空間が広がっていた。
飛翠は受付で軽く手続きを済ませると、私に声をかけた。
「まずはスキャンルームへ行きます。魔素反応を調べる必要があるので」
「魔素……って、魔力みたいなものですか?」
「そうですね。こちらでは“素質”として扱われます。転位者の方にも何らかの反応が出ることがあるので」
私が黙って頷くと、飛翠は誘導用の扉を開けた。
部屋の中央には、半球状の透明な装置があり、私はそれを見ただけで緊張して体が固くなった。
「安心してください。ただのスキャンです。痛みもありません」
飛翠の落ち着いた声に背を押され、私は装置の中心に立った。機械が静かに起動し、光が身体をなぞっていくような感覚が広がる。
だが――その瞬間だった。
「……ッ!」
機械の表示パネルが、一瞬だけ赤く点滅した。 飛翠がわずかに眉を動かす。無言で、別の端末を起動してデータを確認していた。
「どうかしました……?」
「……いえ。少し、通常より高めの反応が出ただけです。魔素適応値が……予想以上に高いようですね」
「高いって、良いことなんですか?」
「良いか悪いかは……評価次第ですね。少なくとも、まったく適応しないよりは“希望がある”とは言えます」
飛翠の声は穏やかだったけれど、その目に浮かぶのは明らかな警戒心だった。 それが、私をさらに不安にさせた。
「では、こちらへ」
スキャン装置の照明が落ちると、飛翠は私を別室へ案内した。室内にはシンプルな白いデスクと、壁一面を覆う半透明なディスプレイ。そこには私の顔写真とともに、「仮識別者候補」の文字が浮かび上がっていた。
「これから、仮の識別情報を登録します。あなたがこの世界に存在していると証明するための仮の身分証です」
「身分証……でも、私、ここの国民じゃ……」
「関係ありません。異界由来の個体でも、最低限の管理は必要です。そうしなければ、公共機関すら利用できませんから」
冷静に、けれど優しい口調で飛翠は言った。私は頷き、差し出された薄いカードのような端末を手に取る。
「それが、識別片です。体表近くに保持することで、あなたの存在と権限が認証されます。肌身離さず持っていてください」
「……こんなペラペラのもので?」
「見た目より多機能です。支払い、通行、居住記録の同期、魔素計測まで。こちらでは“人”より“情報”のほうが重いですから」
私はふっと苦笑した。 何もかもが、異質すぎて。笑うしかない。
「それと……最後に一点だけ」
飛翠が、少しだけ言いにくそうに視線をそらした。
「さっきのスキャン結果についてですが――あれほどの魔素適応反応が出るのは、かなり……珍しいです。私が知る限り、過去にも数例程度」
「え……? でも、私、魔法なんて使えたことないし」
「それは異界だからです。魔素が存在しない世界では、素質があっても目覚めません。こちらでは環境が違う。もしかすると、何らかの変化が起きるかもしれません」
変化――。 そう言われると、今までずっと感じていた胸のざわつきが、説明できてしまう気がした。 空気が違う。重さも、色も、匂いも。 さっきから身体の内側が、何かを探してうずいている。
「だからといって、すぐに何か起きるわけじゃないです。今はとにかく、落ち着いて、慣れていくのが先です」
「……うん」
私は小さく返事をし、フラグメントを胸元のポケットに入れた。しっかりと――それが自分の“ここでの存在証明”であることを、意識するように。
「ご登録、お疲れ様でした。これで、当面は問題なく暮らせます」
「“暮らせる”って……」
その言葉に、私はつい問い返してしまった。
「まさか……私、もう、元の世界には戻れないの?」
飛翠は少しだけ視線を外し、ゆっくりと首を横に振る。
「……帰還事例は、過去にいくつか確認されています。ただし、それは非常に特殊な条件下で起きたもので、今も再現には成功していません。転位自体が不規則な現象で、制御も解析も完全ではないのです」
「じゃあ……望みが、ないわけじゃ……」
「はい。可能性は、ゼロではありません。でも、その可能性に辿り着くには、環境と運と……何より、あなた自身の安全が大前提になります」
飛翠の声は、あくまで穏やかだった。けれどその奥には、「安易に期待して傷つかないでほしい」という静かな切実さが宿っていた。