第三章 ――出会い
伊瀬都――いや、“それに似た何か”の市街地を私は彷徨っていた。
時刻はすでに夕方を過ぎ、空は深い群青に染まり始めていた。けれど、街が暗くなる気配はなかった。 道路の縁石、歩道橋の支柱、ビルの外壁までもが自動で発光し、まるで街全体が呼吸をするかのように輝いていたからだ。
交通機関はすべて登録制。スマホは圏外。タクシーは無人運転車で、乗車には「個体認証」が必要だった。 情報端末もすべて「視界投影式」で、私の使っていた現実世界のスマホでは何も読み取れない。
人々は違和感のない顔で、何かしらの“端末”を身につけている。 リストバンド型、イヤーカフ型、インナーグラス型……それらが共通して持つのは、微かな魔力の放出反応だった。
誰もが当たり前のようにそれらの中を行き交っていて、私ひとりだけが、ただ取り残された異物だった。
「すみません、大丈夫ですか?」
唐突に、後ろから声がかかった。
私は驚いて振り返る。 そこには一人の男性が立っていた。年齢は私と同じか、少し上くらい。 柔らかな色合いの髪に、落ち着いた灰の目。薄手のジャケットにTシャツというシンプルな服装だったが、背筋がまっすぐで、どこか静かな雰囲気を纏っている。
「……あの……」
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです。さっきから、あまりにも様子が違っていたから」
彼は一歩だけ距離を詰めて、でもそれ以上は近づいてこなかった。
「何か、探しているんですか?」
「……家に……帰ろうとしてたんです、けど……ここ、どこなんですか……?」
「伊瀬ですよ」
「……嘘。こんな伊瀬、知らない」
思わず言ってしまった。 彼は少し黙ったまま、私を見つめた。
「――もしかして、向こう側の“伊瀬”から来ましたか?」
「……え?」
「すみません。変なことを言ってるように聞こえるかもしれません。けど、あなたは少し……こちら側の“常識”とずれているように見えたんです」
“こちら側”? どういうこと?
私は口を開きかけて、何も言えずに閉じた。
「混乱されて当然です。だから、答えられる範囲でだけ、お話しますね」
彼の声は静かで、落ち着いていた。
「ここは、“魔法界”と呼ばれる場所です。あなたのいた伊瀬と似ているけれど、別の位相に存在する世界……といえば、少しは伝わるでしょうか」
「……つまり……異世界……?」
「そういう理解でも、大きく間違ってはいません」
冗談のような現実が、静かに目の前に広がっていた。 私は、夢を見ているのかもしれない、と思った。
「普通なら、こんなふうに来られる場所じゃありません。こちら側には“転位”の制度もありませんから……」
「え……じゃあ、どうして私が……?」
「それは、まだ分かりません。でも、あなたがこの世界の“法則”に属していないことは確かです」
法則に属していない――。その言葉が胸の奥に冷たく突き刺さった。
「……私、どうなるんですか」
「今すぐに何かが起きるわけではありません。けれど、放っておくと“情報不在者”として登録されてしまう。それは、あまりよくありません」
「……情報、って……」
「こちら側では、個人情報も存在権も、すべて魔力にひもづいて管理されています。あなたにはその記録がない。だから、仮の情報を設定して――正式に“この世界にいる”という状態にする必要があるんです」
その説明が、どれほど現実味のあるものか、正直分からなかった。 けれど、彼の言葉がどれも私を否定していないことだけは、感じられた。
「……あなたは、何者なんですか」
ふと、私は尋ねた。 彼は少しだけ困ったように目を細めた。
「ただの住人ですよ。少しだけ、技術に詳しいだけの。気にしなくていいです」
はぐらかされたのに、不思議と嫌な感じはなかった。
「――あなたに敵意はありません。ただ、少し、手助けができればと思っただけです」
彼は小さな金属片を私に差し出した。先ほど誰かが使っていたタッチカードのようにも見える。
「これを持っていれば、仮の識別者として、最低限のアクセスができます。嫌なら、捨てても構いません。でも、何か困ったら……」
「……受け取ります」
自分でも驚くほど素直に、そう言っていた。
手のひらの上のカードは、ほんのりと温かかった。