第二章 ――ずれた世界
どう見ても、ここは伊瀬国際空港じゃなかった。
「……伊瀬国際転移場って……何?」
目の前に掲げられたホログラム状のゲートサインは、どう見ても"公式な施設名"として存在しているものだった。 冗談やイタズラの類ではない。建物も、人も、空気すら違う。なのに、どこか既視感がある。 それが逆に、私の不安を加速させた。
けれど、わけがわからないなりに、私は思った。
とにかく、家に帰ろう。 そうすれば、全部夢だったって笑えるかもしれない。
ハンドルを引く手に力を込めて、私は転移場の構内を歩き始めた。
エントランスホールは、無音に近い静けさに包まれていた。 人の気配はある。行き交う男女。会話の声。床を踏む靴音。 でもそれは、どこか私の知っている世界の「ノイズ」とはズレていた。
自販機はあったが、手のひら大のタブレットのような端末をかざすと、商品が光とともに「生成」されて出てくる仕組みになっている。 改札口には案内ロボットのようなものが立ち、乗り物の名称が聞き慣れない単語で並んでいた。
《次発:空間湾曲列車Z-Vega 伊瀬中枢・神南・羽方都方面》
「……空間湾曲……?」
何もかもが、少しずつ違う。現実からズレている。
私はチケット端末の前で立ち尽くしていた。パネルには二種類の通貨が表示されていた。 「円」と、「間」。
「……え?」
月昇では、通貨は一つじゃなかった? そう、確かに。 伊瀬では円、羽方では間。 でも、こんなふうに並列表記されているのは見たことがない。 第一、こういった表示方法は観光用に限定されているはずだった。
それでも、表示された路線図は間違いなく「伊瀬都」のもので。 地名も、駅名も、私が知っているはずのものだった。
「とにかく、神波まで行けば……」
自宅の最寄りは伊瀬都神波区。中心地から北へ四駅。 切符を買おうと試みたものの、券売機に現金挿入口はなく、どこまでもフラットなパネルが並んでいるばかりだった。 周囲の人々は、それぞれ手首のリストバンドや眼鏡型デバイスを端末にかざして通過していく。
「……は?」
私には何も反応しない。
焦る心を抑えて、駅構内の係員を探した。 運良く、近くにいた案内係の制服らしき人物に声をかける。
「すみません、この路線で神波区に行きたいんですが……紙のチケットって……」
相手はきょとんとした顔をしながらも、礼儀正しく返した。
「神波区ですね。ご帰宅ですか? ご本人登録がお済みでないようですので、仮通行許可証を発行いたします。ご本人確認のため、魔素スキャンにお進みください」
「……は? ま、魔素……?」
私は、一気に血の気が引いた。
「お客様、ご気分が悪いようでしたら、休憩スペースでお休みいただいても――」
「……いえ、大丈夫です……自分で、どうにかしますので……」
震える声を絞り出しながら、私はその場を後にした。
やっぱり、ここはおかしい。 見慣れた景色に似てはいる。人々の顔立ちも、言葉も、建物の配置も…… でも、私の知っている伊瀬都ではない。
そして――この世界では、魔素だとか、本人登録だとか、魔法が当たり前のものとして存在している。
深呼吸。冷静に。考えろ、柚希。
家には、帰れるのか。 私の家は、この「世界」にも存在するのか。 そもそも私は――どこにいるのか?
街は確かに、伊瀬だった。 でもその伊瀬は、私のいた月昇ではない。
私は、まるで誰かの見た夢の中に紛れ込んでしまったかのような、そんな都市の幻影の中に立ち尽くしていた。