第一章 転移
第一章
ブルーセルでの長期出張を終え、私はようやく帰国の途についた。 着陸の衝撃が、わずかに機体を揺らす。座席の背にもたれたまま、大久野柚希は深く息を吐いた。
「……はぁ、帰ってきた……」
機内のスピーカーから流れるアナウンスが耳に入る。 『ご搭乗ありがとうございました。まもなくドアが開きます。』
ベルトを外し、キャビンの中で立ち上がると、荷物棚からビジネスバッグと機内持ち込みのキャリーケースを引き出した。 機体のドアが開くと、冷んやりとした外気が一気に流れ込み、肌を撫でる。ああ、この感じ――懐かしい。
タラップを降りると、空港の地面が靴底に確かな感触を伝えてくる。 伊瀬の空気は、ブルーセルとはまるで違っていた。湿り気を含んだ生ぬるい風に、潮の香りがかすかに混じっている。 出張先の乾いた大気とは正反対の、じっとりとした、それでいて妙に安心する空気だった。
私は小さく伸びをして、目を細めながら見上げた。 伊瀬国際空港のガラス張りの外観が、夕焼けに染まっている。陽の光を反射して、建物の輪郭がほんのりと輝いていた。 滑走路の向こうには、高層ビル群のシルエットが滲んで見える。帰ってきた実感がじわじわと湧いてきた。
「さて、帰るか……」
小さくつぶやいて、私は到着ゲートへと歩き出した。
入国審査は自動化されていて、パスポートをかざすだけで手続きは終わる。 係員の無機質な「おかえりなさいませ」の声が耳に残る中、私はそのまま荷物受け取りのターンテーブルを通過し、エスカレーターで到着ロビーへと上がった。
足音が床に反響する。吹き抜けの天井からは柔らかい白色灯が落ち、周囲には観光客の姿も見える。 コンビニの明かり、並ぶ自販機、地元のイベントを告知するポスター――どれも、見慣れた日本の空港そのものだった。
スーツケースのハンドルを引いて自動ドアに向かう。 タクシー乗り場に出るには、あの扉を通ればいい。何度も通ったはずのルート。
――だが、その一歩を踏み出した瞬間。
世界が、音もなく裏返った。
「……っ、え?」
空気が歪んだ。いや、それだけではない。 視界の輪郭がぼやけて、景色の奥行きがぐにゃりと曲がった。頭の奥で耳鳴りがしたかと思えば、次の瞬間には足元の感触すら消えていた。
重力が、いきなり消えた。
宙に浮くような感覚――いや、真空に放り出されたような違和感とともに、私は落ちたのか、上がったのかもわからない感覚に飲み込まれた。
次に目を開けたとき、私は全く知らない場所に立っていた。
そこは、空港ではなかった。