第1章:影の皇帝と恐怖の帝国──プーチン体制という構図
国家がどのように人を支配するか──
その答えは、法律でも、軍事力でも、時には言葉ですらありません。
ロシアという国家は、その支配の核心を「恐怖」に置いた稀有な体制です。
プーチン大統領が掌握しているのは、戦車の鍵でも、戦略の地図でもありません。
彼が握っているのは、誰が裏切るかわからないという疑念の連鎖。
その疑念は、FSBを通じて各所に拡散され、政治家、軍人、官僚すべてを静かに縛りつけていきます。
これは、“命令による支配”ではありません。
「恐れて動くしかない」ように構造化された秩序です。
ロシアは軍事大国であるはずなのに、その軍が一糸乱れぬ統率を見せたことはほとんどありません。
現場の判断は迷走し、兵站は混乱し、命令系統は頻繁にねじ曲がる。
なぜなら、軍という巨大組織すらも、“疑心暗鬼の対象”でしかないからです。
そしてこの“疑心による統制”が最も顕著に表れたのが、軍・FSB・そしてワグネルという三つ巴の体制でした。
プーチンは軍を信じていませんでした。
だから、正規の軍とは別に、秘密裏に、しかし国家の代理として動ける“私兵的戦力”──
ワグネルを台頭させたのです。
FSBが情報と密告で疑念を撒き散らし、軍が腐敗と惰性で自壊を進め、
ワグネルがその隙間を縫うように現場を制圧していく。
この構図の中で、プーチンという支配者は、あくまで“調停者”の位置に立ち続けました。
誰も信用しないが、誰からも直接は敵視されない──
その立場こそが「影の皇帝」の本質です。
いわば、プーチン体制とは**“決して破綻しないように崩れかけた状態を維持し続ける”ことに特化した国家構造**でした。
そのためには、忠誠心すらも“疑う対象”になります。
実行力があっても、信頼されていても、影響力が大きくなれば即座に危険視される。
だからこそ、この国家では、「忠誠心がある者ほど危険視される」という倒錯が成立します。
そして、まさにその矛盾を体現する存在として──
一人の男が、歴史の表舞台へと押し上げられていくのです。
その名は、エフゲニー・プリゴジン。
彼は、国家に忠義を尽くし、国家の外から国家を支え、
そして最後に国家に殺された男でした。
次章では、その男がどのように“恐怖の帝国”の表に立つことになったのか、
そして、どのように兵士たちに“信じられる外道”として刻まれたのかを辿っていきます。