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寄親寄子制について

作者: 高瀬

 しばしネット上の小説(特に西洋風のお話)で寄親寄子制が採用されているのを見ますが、この制度は歴史上のヨーロッパには存在しなかった制度ですし、日本でも室町~安土桃山時代に一部の大名家で採用されたものの江戸時代に入ると消えていった制度でした。なので個人的には話の本筋には関係しないところだとわかっているとはいえ、採用されていることに違和感を覚えることが多いので一度どんな制度だったのか振り返るために簡単にまとめてみようと思って書いてみた次第です。


 そもそも寄親寄子制とはどういう制度かというのはネットで検索すると簡単に調べることができますが、大雑把にいえば大名が家中をまとめるにあたって全てを直接指示するのは難しいため、有力家臣を寄親として責任者に任じ、小身の家臣や中小豪族を寄子としてその下につけて面倒を見させた、ある種の間接統治制度ということになります。地方や時代によって細かい制度面の違いは色々とあり、寄子の領地の割り当てまで寄親に任せるところもあれば、織田家のように方面軍を組織するにあたって直臣を寄騎として貸し出しただけ、というパターンまでありました。

 この制度を採用するメリットは複数あり、一つには緊急時の対処能力で、領地の奪い合いを繰り広げていた戦国時代において、攻め込まれたり国境の豪族が寝返った際にわざわざ大名当主に伺いを立てさせずとも、より前線に近い寄親にひとまず対応を任せることができました。また攻め込む側になる時も兵の動員の割当などを寄親に任せることができましたし、勝利して領土が増えた時にも降伏してきた豪族を寄子として寄親に任せることで戦後処理を簡単に片づけることができました。戦国時代というのは下克上の時代であり家臣の謀反に気をつけないといけない時代でしたが、家臣の増長を防ぐという面でも寄親寄子制にはメリットがあり、寄子を増やすという形を取ることで有力家臣の地位を高めつつもその領地を直接加増することを避ける、ということができました。

 制度のデメリットとしては大名が直接把握している領地が減ってしまうことや、直臣と陪臣(家臣の家臣)の区別が曖昧になってしまう可能性、寄親の下で働くうちに寄子が心変わりして大名ではなく寄親に忠誠を誓うようになってしまう可能性がありました。直臣と陪臣を区別する必要があったのは、例えば賞罰を与える権利は本来の主だけが持つものであったり、大名は陪臣に対する命令権を持っていなかったこともあり、誰が誰の臣下であるのかということは当人たちの名誉のためにも大切でした。直臣と陪臣の区別が曖昧になってしまった例としては実例というよりは後世の俗説の影響が大きい例ですが、羽柴秀吉の軍師として竹中半兵衛・黒田官兵衛の二名が「両兵衛」として有名ですが、実はどちらも本当は秀吉の寄騎武将であって本来の主君は織田信長でした。しかし現在では創作においてはどちらも(特に半兵衛は)秀吉の臣下として扱われてしまっており、史実でもそうだと勘違いしている人が多いのではないでしょうか(まあ黒田官兵衛については本能寺の変以後は名実ともに秀吉直臣ですが)。本能寺の変といえば明智光秀が自身の寄騎大名であった筒井順慶・細川藤孝に同心を期待したのも織田家ではなく光秀に忠誠の向きが変わっていることを期待した例と言えるかもしれません。

 この寄親寄子制が消滅していったのは時代の変化でメリット面が失われていったからでした。豊臣家による天下統一が進むと各大名の領地が確定していき、戦国時代のように領地の奪い合いは無くなっていきました。またそうして確定した領地で検地を行ったりした結果、大名による領内の把握が進みました。こうした時代の変化により江戸時代には寄親寄子制は役職名などに名残を残しつつも制度としては消滅し、形式としては大名による直接統治が基本となりました。


 以上、大雑把な寄親寄子制のとりまとめでしたが、こういった制度はヨーロッパにはありませんでした。そうなった理由としては色々考えられますが、一つには中世ヨーロッパ封建制の主従関係というのが日本の主従関係よりも契約関係という側面が強く、複数の主を持つことも許容するような制度だったので、誰と誰が主従関係にあるのかをはっきりさせるためには寄親のような中間存在を挟む余地が無かったのではないでしょうか。各種の叙任儀式が国王の手ずから行われたように、ヨーロッパでも「誰が主なのか」というのは非常に重要視され、日本と同様直臣陪臣の区別も行われていました。もちろん、人が集まれば特定の有力貴族などを中心とした派閥が生まれることはありましたが、基本的にそれらは制度化されたものではありませんでした。

 そもそも、小説において寄親寄子制というのは国家が貴族を統制する手段として採用されていますが、国家の制度として考えた場合、日本でも鎌倉~江戸の各幕府などの統一政権は採用していません。結局のところ寄親寄子制というものはどこまでいっても地方ローカル制度でしかなかった、と言うこともできてしまいます。そしてそうである以上はヨーロッパ各国の制度を探しても見つからないのは当然、と言ってしまうと言い過ぎでしょうか。


 こんな感じで歴史上において寄親寄子制がどういった制度であったかまとめた上で、この制度の創作上での利用について考えてみると、戦国時代のように領地争いがあったり、あるいは統一から間もない時期であれば制度が残っていても変ではないと思いますが、安定期に入っているのであれば君臣関係の構築という観点から廃止されていた方が自然ではないかなと思います。しばし「貴族は面子が大事」という話がありますけど、その観点からすると最高権力者の直臣であるというのはとても名誉なことなので、そこの関係に割って入る寄親って結局上下どちらからも邪魔な存在でもあるので。ちなみに歴史上のヨーロッパには無かったこととかは別に気にしなくて良いと思います。この世界では色々あってそういう制度が定着することになったんだ、というのはそれはそれで良いとは思いますので。

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― 新着の感想 ―
興味深いお話でしたが、だとすると一体誰がどういう意図でナーロッパ世界にこの制度を持ち込んだのでしょうね。
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