94 飛行船
まだ貿易船が来港する時期でもないのに、『そろそろこの国を出る予定だ』と出島の商館長に告げると、少々苦い顔をされた。
世界有数の魔石ハンター、ユーレックス・デュモン卿は『この話は極秘でお願いする……』と小声で商館長に告げる。
それもそうだ、こんなことは公には言えない。
『海を渡る船ではなく、空を飛ぶ船がやってくる』などと、信じられぬことであるし、万が一本当にやって来てしまったら、この国は大騒ぎになるだろう。それを、知っていて許可したなどとは思われても困る。
商館長はこの頭の痛くなる話を、心の中に鍵をかけて仕舞うことに決めた。
「私は何も知らなかった、ということにしてくれ……」
商館長は額に手を当てて、俯きながらデュモン卿に懇願した。
(普通にもう三ヶ月ほど待って船で帰ってくれればいいものを……)
「要らぬ迷惑をかけてすまんな。スリ・ロータスの王子の婚姻の儀に招かれてな。自ら迎えにお見えになったのだ。まあ、断れんだろう」
いったいどんな知り合いなのだ……他国の王子の婚姻の儀に招かれるほどの付き合いとは。
オリヴィンはこちらに来てから買った衣服や土産物、賜り品など、いつの間にか増えてしまった荷物を少しずつ飛空艇で飛行船に運んでいるが、なかなかに多い。
それに、増えた自分たちの分の食料なども、買い増しせねばならない。
シンスケの実家で預かってもらっていた『雷石』を飛空艇で夜、取りに行った。
預かってもらったお礼に、町で買い求めた甘い菓子と、子供たちと女性たちの着物などを持っていったら、ことのほか喜んでくれた。
アイリンの身請けには、ヘリオスが持って来た金貨と宝石ですることで話がついた。
正確に言えば、『雷石』の代金はアイの父親に支払われ、それを預かったシンスケが月華楼に身請け代として納めたことになる。他国の金貨や宝石は換金するのが大変かもしれないが、価値があり珍しいものを欲しがる者はどこにでもいる。
そこは妓楼の主人で顔の利く黒曜殿がうまくやってくれることを願う。
シンスケはどこかから借りて来た、細かい織りの入った着物に羽織を羽織って、どこぞの大店のご子息よろしく、めかしこんでアイリンを迎えに行った。
自分たちの荷物の片付けで忙しかったオリヴィンたちは見に行かなかったが、花街の老舗である月華楼から、高く結い上げた髪に何本もの豪華なかんざしを挿し、重ねた打掛で着飾って身請けされるアイリンは、とても美しかったという。
シンスケはモキチの兄の店の一角を借り、新たにモキチと一緒に立ち上げた商店で『雷灯』を使った商売を始めた。
オリヴィンに教えてもらったノウハウであるが、これが彼らの行く末に吉となるか凶となるかは、今後の頑張り次第だろう。オリヴィンは願わくば末長く、この国の人々のためにあの石を役立てて欲しいと思った。
* * *
別れの日は、朝から小雨がしとしとと降っていた。灰色の低い雲が垂れ込め、視界を暗く遮っている。
迎えの飛行船は、灰色の雲の間から、その大きな姿を現した。
飛行船は、ミカサの父上が宮司を務める宮の真上に降りて来ると、しばらくそこに留まった。全体を鈍い銀色に塗装したそれは、周りの色を反射して存在を見えづらくしていた。
挨拶をしなければいけない人たちには、すでに挨拶を済ませてあったが、お宮の境内には最後の別れを告げる数人が集まっていた。
「親父殿、どうかお達者でな」
「婿殿、……ありがとう……ご無事でな……」
デュモン卿がミカサの父の肩に手を置きながら、別れを惜しんでいる。
「黒曜様、モキチさん、最初から最後まで本当にありがとうございました。皆さんもお元気で……」
「黒曜殿、この国でよくしていただいたことは忘れません。できるなら、またお会いしたいものです……」
ジェイドもオリヴィンの隣で、涙を滲ませて黒曜の手を握りしめている。
「モキチ、最後まで世話になったね、ありがとう。モキチに出会えてよかったよ。シンスケとアイリンを頼むね」
「だ、旦那ぁ〜。最後まで泣かさないでくださいよぉ……」
モキチの顔はもう涙でクシャクシャになっている。
一行は飛空艇に乗り込んで手を振りながら、ゆっくりと地上に浮き上がった。
そこから一気に上空へ駆け上ろうとした時、誰かがパタパタと参道を走って来るのが見えた。
長い黒髪を後ろで一つに結え、その髪が大きく後ろで波打っている。息を切らして巫女の袴姿をしたその女は、ジェイドの母ミカサだった。
「……ミカサ……」
デュモン卿の低く呟く声が、艇の中で小さく響いた。
「戻りますか?」
艇を制御しているヘリオスがデュモン卿を振り返って問う。
「……いいや、このまま行ってくれ」
「しかし……」
「いいんだ……」
飛空艇は小雨の中をあっという間に上昇して、巨大な飛行船の待つ上空へと登り、降車用のタラップへと滑り込む。
低い雲に囲まれて、地上は白一色で見えなくなった。
この天気ならば、上を見上げる者もあまりいないに違いない。大騒ぎにはならないと思う。
ヘリオスに続いて、オリヴィンとジェイドは手を繋ぎ、タラップから飛行船の制御室へ移る。周りが見渡せる大窓の着いた制御室だが、今日の天気では辺り一面が白い雲の中だ。
「お掛けください。上昇します」
騎士のサフロワに言われて、皆艇に固定された座席に掛けた。天候の悪い時は揺れることもあるのだろう、各座席には体を固定するためのベルトが付けられている。皆が座席に掛けると、飛行船は上昇し始めた。
気圧が変わり、耳の中が詰まったような感覚になる。
「鼻を摘んで嚼むような仕草をしてください。耳が楽になります」
サフロワに言われてやってみると、本当だ、耳が抜けたように楽になった。
以前飛空艇で旅をしていた時は、耳を引っ張ったり、無理やり欠伸をしたりして対応していたのだが、これなら簡単だと思った。
「エルカリア、ご苦労だった。操縦を替わろう」
「お帰りなさい兄上。お願いします」
ヘリオスは操縦を代わると、上昇速度を上げた。
急に眩しい陽の光が差し込んで来た。どうやら雲の上に出たようだ。雲の上の空は抜けるように青い。
「この飛行船には、操縦者がいなくなっても墜落せずに浮かんでいられるようにしてある。上の気球の部分にガスを詰めてあるんだ。それで後ろの大きな羽で進む設計になっている。万が一操縦者が人質になっても帰れるように……」
「ヘリオス! 縁起でもないこと言わないのっ」
セレさんが話をぶった斬った。
「ごめん、つい……ね」
ヘリオスが苦笑する。目は優しい光を湛えたままセレスティンを見ている。
「父さん、会わなくて良かったの?」
ジェイドが父を気遣うように小さな声で尋ねた。
(今更会ってなんになる……?)
十五年前、海賊船に襲われて、海に落ちた妻を助けることができなかった……己の力が足りなかったのだ。
それでも、愛し子は自分の腕で救うことができた……父と娘の二人ではあったが、嵐の日も凪の日も、支え合って生きて来れたではないか。
妻が、海の中からその男に救われたと言うのなら、そういう運命だったのかもしれない。
あの日あの瞬間に、それぞれの人生の道が枝分かれして広がって行ったのだ。
そして今がある。
デュモン卿は座席のシートに深く腰掛けたまま、目を瞑った。
周りの誰もが、彼に声を掛けるのを遠慮した。少なくとももうしばらくはそっとしておいてあげよう、皆の暗黙の了解である。




