62 温泉
『娘を一目、母親に合わせてやってくれ』と言われて、アダム・ミメットは困惑した。
確かに十五年前とはいえ、妻の生き別れた娘なのだ。
その時は
「か、考えさせてください…」
とは言ったものの、どうしたものか…
「あなた、どうなさったの?」
ミカサが心配して聞く。
「いや、何でもないよ。ちょっと仕事のことを考えていてね…」
当の妻にはまだ何も打ち明けていない…
妻に話したら、どう反応するだろうか…それが怖くて何も話せていない。
「今日は黒曜さんがお茶にいらしゃるの。いいかしら?」
前から聞いていた予定だが、ミカサはこうして尋ねてくれる。
黒曜は妓楼の主人ではあるが、語学も堪能でこの国に帰化する折にも世話になった聡明な女性だ。ミカサとも気が合い時々こうしてお茶に呼んでいる。
「私のことは気にせず、ゆっくり二人でお茶を飲んでくれ。私は仕事で出掛けるよ」
* * *
宴の後、オリヴィンの周囲は慌しくなった。
と言うのも、先刻のデモンストレーションの噂が広まり、思いがけなく数多くの問い合わせが舞い込んだからだ。
ここから南へ四日ほど行ったところの領主様から、『是非に』というお誘いがあり、オリヴィンはその話に乗ることにする。
通訳の為、またモキチに通詞を頼むことにした。
他に荷物持ちとして人足を紹介してもらい、オリヴィン、モキチ、荷物持ちのシンスケの三人で朝早く出発した。オリヴィンは目立たないように変身石で、黒髪・黒い目になって行く。
商館長からは『護衛はいらないのか?』と心配されたが、『自分の身は自分で守れますから』と断った。
町を出てしまうと後はひたすら街道を歩く。商人や旅の者など、人の行き来は相応にあるようだ。加えてこの国は火山が多いらしく、火山の恩恵であちこちで温泉が沸いている。
この国の人々は身分の上下、老若男女を問わず皆、よく風呂に入る。
湿度の高い気候のせいで汗をかくからだろうか?
温泉が沸く町には、沢山の温泉旅館があると言う。今夜の宿も、そんな温泉宿に投宿する予定だ。
起伏の多い道をしばらく行くと、ふいに視界が開け海に出た。
晩秋の海は寒そうだが、青空が広がっている今日はそれほど寒さを感じない。
大きな湾になっているようで、海を隔てた向こう岸の奥に大きな火山が見えた。
僅かな煙が火口付近を覆っているが、いつものことなのだろうか?誰も気にしていないようだ。
「この湾を周り込んで、あちら側の温泉町に泊まります」
とモキチに説明されて、俺たちはまた歩き始めた。
海沿いの街道を歩いて、温泉宿に着いたのは夕方だった。
「いらっしゃいませーっ、ようこそ盛田屋へ!」
女中さんが足を洗う桶に湯を入れて持って来てくれる。
「あら、お客さん。革の長靴なんて珍しいね」
何を言われているのかまごまごしていると、モキチが
「靴を脱いで、足を洗って上がってくれって」
と教えてくれる。
ブーツと靴下を脱ぐと、女中さんが足を丁寧に洗ってくれた。
これもこの国の習慣なのだろうか?
他人に足を触られるのは奇妙な感じだが、嫌ではなかった。
案内の女中さんに付いて部屋を案内してもらう。二階建ての広い旅館で、なかなかの賑わいだ。
二階の奥まった部屋に案内される。広い部屋には低いテーブルが一つ置かれているだけで、他に家具らしきものが何もない。
奥に一段高くなった場所があり、黒一色で描かれた縦長の風景画が掛けられている。
床は草の繊維をぎちぎちに編み込んだもので覆われていて、裸足で歩いてもさらさらしていて気持ちがいい。
「さっそく温泉といきましょうぜ!」
荷物持ちのシンスケが荷物を置くと、嬉しそうに言う。
オリヴィンも汗だくだったので、その言葉に従うことにした。
モキチの言う通りに、『手拭い』という小さな布一枚だけ持って大浴場に向かう。
先ほどの女中さんが、
「うちは源泉掛け流しだからね!湯量も豊富だからじゃんじゃん使ってね!」
と言ってくれていたとモキチが言う。
大浴場の暖簾カーテンをくぐると脱衣場になっていて、ここでは全裸になるらしい。他の男たちもぽんぽんと裸になっていく。
(人前で全裸になるって…)
と戸惑う俺を尻目に、シンスケが
「何でぇ旦那。外人だろうとついてるモンはみんなおんなじだろ?それとも何かい、変なもんでも付いてんのか?」
と言っているとモキチが訳してくれるので、ここはこの国の習慣に任せるしかないと心を決め、服を脱いだ。
そんなことを言いながらも、二人とも俺を覗き込んでくる。
「やっぱ、おんなじ!」
シンスケは前をブラブラさせて、おかしそうに先を行く。
石造りの床の隅に置いてある手桶をそれぞれ手に取ると、それに湯を汲み入れた。
「まず、体をよく洗ってから入るのが礼儀です」
モキチはそう言うと、手桶で二、三杯身体に湯を掛けて流す。続いて手拭いを桶湯に浸し、それで身体をゴシゴシ洗い始めた。
オリヴィンはモキチに習って同じように身体を洗う。
(石鹸石を持ってくれば良かったかな…)
などと思いながら、変身石のブレスレットだけは外さないように気をつけて洗っていった。
洗い終わると、使った手拭いをギュッと絞って頭に乗せたシンスケが徐ろに奥の広い湯殿に歩いて行く。湯気と、混じり合った硫黄の匂いが鼻を突く。
皆静かに湯に浸かっている。
時折、子供の声が響くがすぐに親が静かにさせているようだ。
「あちっ!」
湯に入りかけたシンスケが突っ込んだ足を引っ込めて、水の出ている場所を探す。
石造り湯殿の左に水が出ている場所があった。
そこで温泉の湯と混ぜ合わせてぬるめの所から入って行く。初めは熱く感じたが、身体が慣れると中程へ移動しても平気になった。
「はぁ〜、気持ちいいですね」
モキチが満足そうな声を上げる。
「いや、最高じゃね?やっぱ、温泉だよな」
同意するようにシンスケも頷く。
「奥が露天風呂になっているそうですよ。行きませんか?」
「行こう行こう!外は気持ちいいぜ!」
天井のある建物から一歩出ると、
「さむっ!」
まあ、季節は晩秋なので寒いのは織り込み済みだ。
「温泉で火照った身体に外の空気が気持ちいいですね」
(本当に。風呂に入ることがこれほど気分がいいことだったなんて、ディヤマンドに居たままだったら、全く知りもしなかった…)
露天風呂というのは、その地の地形を生かして幾つかの穴を掘り、木材で底板や枠を造り、そこに湯を溜めて湯船とした場所だ。湯船の外は自然の中で、木が生い茂り、足が汚れないよう玉砂利が敷かれている。
オリヴィンはゆっくりとその露天風呂に浸かりながら、夜空を見上げていた。
そのうち、疲れからか猛烈な眠気が襲って来た。
「お〜い、旦那!」
「オリィ殿、しっかりしてください!」
遠くで呼ぶ声がする…
気がついた時、オリヴィンは部屋で寝かされていた。
体の上には薄い綿の着物が掛けられている。
どうやら風呂で気を失ってしまったらしい。
「『湯当たり』ですね。温泉初心者は時々なります」
「『ゆあたり』?」
「熱い温泉に長く浸かりすぎると、こうなるんですよ」
「そうなんだ…今度は気をつけるよ…」
まだ少し頭が痛い…体温が上がり過ぎたということだろうか?
半身を起こすと、服を探す。
「あ、今日着ていた服は洗って干してあります。今夜は、その『浴衣』を着てください」
(そういえば、ジェイドもこんなような着物を着ていたっけ…)
立ち上がって袖を通すと、モキチが前を合わせて帯ベルトを締めてくれた。
「きものは右前に合わせて、帯は腰骨の上で締めます」
「なんか下がスカスカするんだけど…」
「下着は履いてください」
と言われる。
部屋の外から
「夕飯をお持ちしました」
と声がかかり、女中さんが御膳という小さなテーブルに食べ物が乗せられたような台を運んで来た。
「旦那さん、大丈夫ですか?気分が悪かったら言ってくださいね」
湯当たりした俺を気遣って声を掛けてくれる。
「ありがとう…」
知っている言葉が少ないので、とりあえずそう返事を返す。
食事は焼き魚と刺身、野菜の煮物、香の物と海の近くだけあって、魚がうまいらしい。以前、一度刺身を食べてみたら良いと言われていたので、シンスケやモキチに倣って、食べてみる。
軟らかいが新鮮で魚臭さが感じられない、全く新しい食感だった。
御膳を下げに来た女中さんの後に、若い男衆が二人来て、あっという間に寝床をしつらえる。
「いやー、旦那のお陰だね。こんな高級宿に泊まれるなんて。ありがてえなぁ」
「そうなの?宿にもランクがあるんだ?」
モキチに尋ねると
「今回は宗像のお殿様のお招きですので、少し贅沢をしても良いかと…。普通の庶民は、食事なしの素泊まりなんていうのもあります」
その夜は疲れもあって、早々に眠ってしまった。
* * *
夜中、船に揺られているような夢を見て目が覚めると、本当に揺れていた。
「なに?」
と飛び起きると、
「心配ありません、地震です」
「地震⁉︎」
「大丈夫だ、旦那。ここいらじゃよくあるのさ」
そう二人に言われたが、地震なのに心配ないってどういうことなんだろう?
地震はすぐに止んで、静かになった。
二人はすでにもう夢の中に戻って行ったようだ。




