10話 マリベル・フロウ
(三人称視点)
ダンタルトはかつて、活火山として猛威を振るった荒ぶる山だった。
四方は荒れ果て、人どころか、生命のあるものの気配すら、一切感じさせない死の大地。
人は畏れ、敬い、信仰の対象として、ダンタルトを禁忌の地としたほどだ。
だが、ある時を境に人は大切なことを忘れてしまった。
紅き竜に与えられた穏やかな風景と愛にいつしか、溺れてしまったかのように……。
その代償が今のこの状況である。
それはそれで仕方がないのかもしれない。
そう思ってしまう程に目の前に広がる光景は衝撃的だった。
「なんてことなの……」
思わず口元を押さえ、吐き気に耐えているのはまだ、うら若き女性だった。
シニヨンにまとめられたシルバーブロンドの髪と紫水晶を思わせる瞳はフロウ侯爵家の色を色濃く、受け継ぐものだった。
フロウ侯爵家の長女、マリベル・フロウだった。
イラリオ王子の懐刀として側に仕えるビセンテの姉であり、国王夫妻の外遊に同行し不在の父に代わって、領地を取り仕切っていた。
文官を輩出する大貴族の令嬢であり、社交界でも名の知れた美姫である。
その勝気で男勝りな性格と剣術を嗜む活発さを理由に婚約破棄された経歴の持ち主でもあるが……。
彼女はその日も朝から、執務室で書類仕事に追われていた。
ところが突如、鳴り響いた轟音に窓の外の風景が一変した。
まるで世界そのものが裏返ってしまったかのような錯覚を覚える景色の変貌にマリベルは我が目を疑った。
フロウ領は王国屈指の穀倉地帯として知られる、肥沃な土地である。
見渡す限りの緑色の大海原は彼女が幼い頃より、良く知っている風景だった。
それが失われていく。
降り注ぐ炎の礫がまるで血の雨のように大地に降り注ぎ、全てを穿ち、焼き払う。
これが現実?
もしや自分は悪夢の中にいるのではないか?
その時、彼女の頭に浮かんだのはそんなことだった。
夢ならばすぐに覚めるだろう。
だが、この地獄のような情景は何時まで経っても消えなかった。
それからどれくらいの時が経ったのかは分からない。
マリベルは呆然と変わりゆく景色をただ、見つめることしか出来なかった。
しかし、彼女の悪夢はまだ、終わらない。
さらなる地獄のような悪夢が襲い掛かろうとしていた。
血の雨が焼き払ったのは大地だけではなかったのだ。
多くの家屋が焼け落ち、人々の糧となるべき貴重な作物も失われた。
当然のことながら領民たちは混乱し、不安に陥る。
ここで悪手となったのが手っ取り早く、食料を得る手段として、森に手を出したことである。
森に住んでいるのは人にとって、友好的なモノばかりとは限らない。
彼ら――魔物は人間という種族そのものを憎んでいる節がある。
そんな魔物が鳴りを潜めていたのはひとえにヴェルミリオンが目を光らせていたからに過ぎなかったのだ。
だから、それまで森に押し留められていた彼らがテリトリーを犯され、怒り狂うのはある意味、必然と言えた。
そして、彼らの怒りを買った結果がこれである。
手始めにゴブリンの群れが被災した人々に襲い掛かったのだ。
しかし、この襲撃は相手がゴブリンだったことが幸いした。
数こそ、多かったものの侯爵家の騎士団と冒険者ギルドから、派遣された冒険者の奮戦により、被害を最小限に抑えられたからだ。
ところがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間に過ぎなかった。
ゴブリンを上回るオークの集団が大挙して、押し寄せたのである。
その数の前に騎士団と冒険者だけでは手が回らなくなり、悲劇が訪れた。
抵抗した男が動けなくなったところを生きたまま、貪り食われるという無残な殺され方をしたのが皮切りだった。
無抵抗でも男は手足を千切られ、生きたまま次々と食われていった。
そこには老いも若きもなかった。
女は殺されなかった。
しかし、死んだ方がましと思える扱いに彼女達の目から、光が失われていくのにさして、時間を要さなかった。
ただ、本能のままに目の前の雌を犯し続けるオークの群れ。
欲望を突き入れた相手の生死など関係なく、醜悪な顔を歪め、腰を振り続ける魔物の姿と咽かえる血と死の匂い。
マリベルの目の前に広がる衝撃的な光景がそれだったのだ。
「どうして……こんなことに……」
しかし、この時の彼女は知らなかった。
この惨劇の引き金を引いた原因の一つが、愛する弟だということに……。
「あぁっ!? ダメ……お腹が破れちゃうぅ、あぁ」
マリベルの目の前で一人の若いメイドが四つん這いになり、背後から激しく突かれ、犯されていた。
その目は既に正気を失っていた。
その横でまだ、幼い少女の体が激しく、上下に揺さぶられている。
結合部からは多量の赤い液体が滴り落ち、手足はだらんとぶら下げられており、既に生きているか、死んでいるかも定かではない。
その光景を目の当たりにしたマリベルのアメジストの美しい瞳に妙な光が差し込み、縦長の瞳孔に変じた。
両手の爪が鋭く、長くなっていく。
(許せない……許せない……絶対に!)
「大丈夫だ」
言葉とともに優しく、肩に置かれた手がマリベルの激しい怒りを和らげたのだろうか。
再び、落ち着きと美しさを取り戻した瞳が紫水晶の色に戻っていた。
「エル……」
「マリ。遅くなって、すまない」
ウィンディ伯爵の次男、エルナン・ウィンディ。
彼の手に握られた剣の鞘からは僅かに白煙が立ち上っていた。
どうやら、抜かずに済ませたらしい。
欲望のままに動いていた二匹のオークの首が地面に転がっている。
「ありがとう。おかげで助かりましたわ。でも、あの二人は……?」
「残念だが……もう、死んでいる」
「……そんな」
「ここを離れよう。危険すぎる」
そう言うとエルナンはまだ、震えているマリベルの手を優しく、握る。
暫く、見つめ合う二人の面持ちはまだ、恋と言うには遠いようだった。
この日、マリベル・フロウは周囲を固める騎士とともにまだ、息のある者を保護し、エルナン・ウィンディとともに比較的、被害の軽微なフロウ家の別宅を緊急避難所として、解放することを決め、落ち延びるのであった。