1話 聖女レイチェル追放される
(三人称視点)
ミクトラント大陸の西部は興亡の地として知られていた。
広大な平原地帯の東西を貫くように流れる大河は古代より、数多の国が興り、消えていくさまを見つめている。
やがて、血で血を洗う戦国の世が終わり、小さな国々が軒を連ねる時代が訪れるようになった。
国力に差がない諸王国が鎬を削るこの地を人はいつしか西方諸王朝と呼ぶようになっていた。
シュルトワ王国はその西方諸王朝に属する小国の一つである。
小国とは言っても国土は広く、四季を通じ、穏やかな気候に恵まれていた。
何よりも豊かな穀倉地帯を有することから、諸国との交易で富を蓄え、一目置かれる存在なのだ。
内乱や騒乱が発生した周囲の喧騒にも我関せずを貫く。
しかし、平和な時を謳歌していたシュルトワに今、試練の時が訪れようとしている。
王立学園はシュルトワ王室からの全面的な支援で運営が行われる格式高い教育機関として、知られていた。
王族や貴族だけではなく、平民も受け入れる『自由と独立』を気風としていた。
十三歳から、十八歳までの子女を預かり、一般教養だけではなく、専門的な知識と技術を授ける。
次代を担う人材を育成出来るこの教育機関の果たしてきた役割は非常に大きかった。
事実、この学園を優秀な成績で卒業した者が国家の運営に大きく、貢献していたのだ。
この学園最大の特徴は学費が無料な点である。
そして、『自由と独立』の名の下に学園内において、全ての学生は平等に扱われる。
それはあくまで建前であるというのが暗黙の了解だったのだが……。
よりにもよって、王族という立場にある者がその理にも等しいルールを率先して、無視し、破ろうとしていた。
学園の卒業パーティーが講堂で行われている。
本年度の卒業パーティーは例年に比べ、華やかな雰囲気に包まれていた。
卒業生に第一王子であるイラリオ・シユルトワとその婚約者・聖女レイチェル・ブレイズがいるからだ。
その他にも騎士団長の三男オスワルド・ウィンディ、宰相の次男ビセンテ・フロウ、北のブレイズ辺境伯の嫡男トビアス・ブレイズの名もあった。
この卒業パーティーには特別な意味がある。
学生により、企画・運営される一大イベントであり、卒業生にとって晴れの舞台だからだ。
この日を境に一人の大人として、認められる――これまでの子供という自由な立場でいられるのも今日までという成人儀礼でもあった。
それゆえ、卒業パーティーがやや騒がしくなっても多少は目を瞑ってもらえる。
しかし、本年度のパーティーはいささか、その趣が違った物になろうとしていた。
会場は騒然としている。
原因は壇上に上がったイラリオ王子とその取り巻き達だった。
「これより、私達は新たな国造りを行う」
イラリオの言葉に会場にいる生徒達がざわつき始める。
それも当然だろう。
イラリオは王位継承権を持っているが、王太子ではない。
王位を継ぐ権利を持たない彼がいきなり、何を言っているのか?
しかも、自分達を巻き込んで。
訝しむ生徒達を前にイラリオは自信満々の表情で言い放った。
「レイチェル・ブレイズ。前に出よ」
「はい」
イラリオに名指しで呼ばれた少女が静々と壇上の前に姿を現した。
薄い紅茶の色をした髪はただ無造作に束ねられただけでゆうに膝の辺りまであるほどに長い。
前髪も整えられておらず、まるで顔を隠そうとしているようだった。
周囲の令嬢が心配そうに見つめる中、会場の注目を一身に集める少女――レイチェルは意に介した素振りを一切見せず、背筋を伸ばした堂々とした立ち姿で凛として、立っていた。
「ようやく出て来たか。この性悪女め」
「何のことでしょう?」
イラリオの言葉に対し、首を傾げる仕草を見せるレイチェルだが、前髪に隠れているだけではなく、瞼を閉じたままなので感情らしいものが一切、感じられない。
「惚けるな! 貴様の悪行は既に明らかになっているのだ!」
怒りを露わにするイラリオに対して、レイチェルは無言のままだ。
イラリオに代わって、ビセンテが書状に書かれた罪状を読み上げていく。
曰く、不特定多数の異性と関係し、罪の無い令嬢に対する嫌がらせを超えた悪質な行為の数々。
淀みなく、スラスラと読み上げていく様子から、ビセンテが決して、無能ではないことを証明しているようだった。
その隣ではオスワルドが憎しみに燃えた瞳でレイチェルを睨んでいる。
今にも剣を抜いて、切りかからんという目線にあてられているレイチェルではなく、関係ない令嬢が一人、失神していた。
この状況において、一体、どんな発言がイラリオ王子の口から、飛び出るのか。
周囲の者達が固唾を呑んで見守っていたその時、信じられない言葉が飛び出してきた。
「貴様のような無能者が……偽聖女如きがこの国の王妃になることは許されない! 貴様との婚約を破棄し……」
イラリオの言葉にピンク色の髪の少女が飛びつくように彼に抱き着いた。
少女の顔を愛おしむように見つめるとイラリオは手を大仰に振り上げ、宣言した。
そのやや芝居がかった動きを生徒達が冷めた目で見ていることに気付いていないのは壇上にいる者達だけである。
「このヒメナ・ディセンブルを新たな婚約者とすることをここに宣言する! そして、この私が王である!!」
突然のことに会場は騒然となった。
それも当然のことだった。
何故なら、彼は婚約破棄を宣言したばかりか、他の女性と婚約を結び直そうとしたのだ。
更に言えば、イラリオとレイチェルの婚約は王と王妃肝入りの案件。
イラリオは聖女と結ばれることで晴れて、立太子され、王太子になると決められていた。
それを破棄しただけではなく、王になったと宣言したのだ。
『こいつは何を言っているんだ?』と思っている者が大多数である。
そんな空気の中、レイチェルが静かに口を開いた。
「確かに承りました」
「えっ!?」
あまりにあっさりとした返事が返ってきたので、突きつけた張本人であるイラリオよりも周りの方が驚いてしまった。
「な、なんだと? き、貴様、自分が何を言ったのか、分かっているのか?」
「はい。ですから、承知致しました、と」
「ぐ、ぐぬぬぬ。貴様! 貴様の罪は本来であれば、死罪である! だが私は慈悲深い男だ。罪一等を減じ、身分を剥奪し、国外追放とする!!」
「はい。それも承りました」
「な、なんだと!?」
「この女には口で言っても分からないんだろ!」
『あっ』と周囲の者達が思った時には既に遅かった。
壇上から飛び降りたオスワルドがレイチェルの腕を後ろ手に捻り上げ、床に押し付けたのだ。
背が高く、筋肉質の大男であるオスワルドに比べ、レイチェルはどちらかと言えば、小柄で華奢な体格である。
そのあまりの乱暴な行いに令嬢だけではなく、令息もさすがに眉を顰め、その様子を見ていた。
オスワルドの蛮行はそれだけに留まらなかった。
本来は持ち込むことすら禁止されていた長剣を抜くとレイチェルの長い髪をバッサリと切り落としたのだ。
「はい。ですから、承知致しました、と申し上げたのです。今、この時をもちまして、契約は切れました」
レイチェルは顔色一つ変えずに淡々と告げるだけ。
その姿を見たイラリオもさすがに戸惑いを覚えた。
しかし、宣言を思い出したのか、作ったような怒り狂った形相を浮かべ、言った。
「オスワルド、離してやれ。衛兵! その者を連行せよ」
イラリオの言葉にオスワルドは渋々といった面持ちでレイチェルを解放した。
周囲は目の前で行われた信じられない出来事に頭が追い付いていないようだった。
そして、不思議なことが起きる。
『是を以て、契約は完了した。其は自由なり』
レイチェルの頭上に突如、年代物と思しき羊皮紙が出現し、会場全体に響き渡る声で宣言する。
声が終わると同時に羊皮紙は青い炎を上げ、消失した。
最初から、そんな物はなかったと言わんばかりに……。
長かった髪は肩口までしかなくなり、不自然で不格好な形に切られたのも気にしていないのか、レイチェルは静かに立ち上がった。
それまで閉じられていた瞼がしっかりと開かれている。
簾のような前髪の間から、琥珀色というよりは燦々と輝く、太陽を思わせる金色の瞳が顔を覗かせていた。
イラリオから、刺すような視線を露骨に浴びながら、レイチェルは会場を後にした。
困惑した表情でただ、同行を促すだけの人の良さそうな衛兵に付き添われるままに。
あまりにも静かで堂々とした退場に残された者達は呆気にとられ、反応が遅れた。
我を取り戻した者から順に、何が起きたのかと必死になって考え始める。
だが、誰一人として、正解に行き着く者はいない。
答えを知るはずの当人が既にこの場から姿を消しているのだ。
ただ、分かるのはこの場でただ一人、事の流れ全てを把握している者がいたということだけである。
イラリオの傍らでひっそりとほくそ笑むヒメナ。
彼女こそ、この婚約破棄と追放の元凶だったのだから。