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作者: 空見タイガ

 大切なことは水に濡れたら消えてしまう。油性ペンで書いたもの以外は水の泡になる。火で燃やされたら何も助からない。

 どうやって保存すればよいのか。

 電車に乗って降りるあいだに暗記シートをなくした。通学路を歩きながら結論づけた。物質がただ在るだけでは限度がある。

 わたしがよく知るひとたちは子どもをつくることで財産とささやかな暮らしの継承を試みた。なるほど。だが、子どもはそこまで大人たちのことを保存しない。

 目の前に短い髪の女子がいるなと思いながら靴を履き替えて廊下を歩いて教室に入って席に座って前を向いたら由田(よしだ)咲那萌(さなも)だった。

 多くの視線を集めながら、彼女はわたしにきれいなうなじを見せつけていた。

 このような瞬間を保存するためにはいったいどうすればよいか。


 朝のホームルームが終わって、みんなが咲那萌を取り囲んだ。本当にみんなが。わたし以外のみんなが。あまりにも集まるので集まりきれずに自席で咲那萌を眺めるだけのひとたちも、一応はみんなの一員。

 溌剌とした咲那萌の横顔を見る。誰かの問いに何かを答えているが、聞こえない。

 わたしの机に何の断りもなく座って咲那萌を観察していた犬竹(いぬたけ)おくるがこちらを見る。

「なんだろう、失恋かな」

 あまりにも透明な陰口だった。おくるはわたしの髪をもてあそんで「髪には記憶装置がついている」と続けた。

「だから髪を切ることで忘れることができる」

 きっと彼女は首から上という意味で髪を「頭」と表現しているのだ。わたしは「担任教師はすべて忘却したか」と確かめた。

「うん、だから彼はさっぱりしている。もしも記憶を保持したままだったら、今の現状に耐えられなかっただろう」

 なんてひどいことを言うのか。

 その担任教師の授業が始まるので、みんなは自分の席に戻っていった。すっきりした視界のなかですっきりした咲那萌の頭を見るとすっきりしない気持ちになる。

 なぜ、わたしに教えてくれなかったのか。


 美術と音楽と書道からひとつを選びなさいと言われて、書道と答えたのに美術になった。咲那萌とおくるとみんなは音楽だったので、美術は最も愛されていないんだとわかった。

 思うに。絵の具のにおいを嗅ぎながら考えた。美術は残りやすいから避けられてしまったのではないか。歌は録音して再生しないかぎり忘れられてしまうし、文字だけで強烈な印象に残せるひとも限られている。しかし完成した画や形は巧拙を目に見えるかたちで保存してしまう。それは以前に受けた印象を超えて現実に再現するので、思春期の自意識が美術を無意識に遠ざけたのだと、完成させてしまった異形を眺めながら結論づける。

 だれもだれにも記憶されたくないのだ。


 だが、記憶されたいという欲望もある。

 苦手だと伝えたはずの野菜を弁当箱の端に見つけるたびに父の重圧を感じる。ブロッコリーを好んで食べられる人間に変わりなさい。それで昼休みはいつも森を嫌いになる。

 咲那萌は四時間目が終わってすぐに忽然と消えてしまった。彼女の席を借りて小麦パンを丸呑みしたおくるは「あたしが記憶喪失になったら、一日目は誰にも何も言わずに過ごすだろう」と言った。

 病室で静かに記憶喪失であることを受け止めて平然とした様子で親と医者と看護師をだましているおくるを想像し、口のなかに詰めた森を吐き出しそうになる。

「そして二日目以降は、気づいてくれたひとにだけ記憶がないことを打ち明ける」

 そう話すおくるの顔は美そのものだった。今からカメラを構えて写真を撮っても、この憂いと無関心の綯い交ぜになった瞬間を切り取ることはできない。

 気づくことができたらいいな、わたしは聞かれてもいないのに答えた。友だちが内心、変わってしまったことに気づけたらいいな。そして秘密をふたりで共有して、ふたりだけが変わらぬまま変わっていけたらいいな。

 おくるは微笑んだ。

「でも、その内心はさらにこうも考えている。自分以外の全員が記憶喪失になればいい」

 今、こうやって向かい合っているおくる、その周りを取り囲んでいるわけではないけど存在しているみんな、きっとどこかにいるはずの咲那萌、多くのひとたちが同時に記憶喪失になってしまったら、わたしは。

「あたしは誰にも何も言わずに変わるだろう」


 五時間目になっても咲那萌の髪は短いままだった。一朝一夕で伸びるものではないとはいえ、彼女の髪とは子どもの頃からの長い付き合いなだけに異世界に来てしまったと思った。たぶん元の世界に帰ることはできない。このうなじを受け入れるしかないのだ。

 みんなはすでに適応している。そして明日から驚かなくなる。半年後にはこれが当たり前になる。変わったところが基準になる。けっして「一年前の長さに戻ったね」とはならない。「髪が伸びたね」で終わりだ。

 何気なく渡したクッキーが思っていたより保存されていたら、感謝より先に恐れるだろう。咲那萌の髪はそういうお菓子なものだ。昨日まであったはずの切られた長さはわたしの中にしか残らない。彼女は残したくなくて切り捨てたのだろうし。

 それでもわたしの中には残っているのだ。

 数学を忘れて更生について考える。更生が難しいのは自分の外部に記憶があるからだ。良いことをするたびに「あんなに悪かったおまえが」と賞賛されて、引き戻される。他人の記憶を消して回らないかぎり、ゼロからスタートはありえない。また、周囲のひとたちがつねに最新の生き様を記憶してくれるとも限らない。しかし、けれど、ノットイコール。


 いつもの道に咲那萌の切られた後ろ髪を浮かべながら帰る。長い髪は重力によって引っ張られていた過去を忘れ、くるんっ、と言わないまでも少し丸まっている。

 目の前で実際に起きていることも、いずれ忘れてしまう。人間は物質で、物質は滅びるからなくなってしまう。水に濡れても火で燃やされても静電気を帯びても叩きつけられても暑すぎても寒すぎても使いすぎても壊れてしまう。刻んでも重すぎて底に沈んでしまう。

 そのことで救われる、罪が永遠に残らないことで生きられるひとがいる、理論上では。だが、いちばん忘れ去られたい過ちほど覚えている他者がいる、から変われない。

梓真理(しまり)! 旗持(はたもち)梓真理!」

 振り向くと同時に咲那萌がわたしに飛びついてきた。狭い歩道でよろけて、植えこみに座ってしまう。葉に背中をちくちくと刺され、咲那萌に肩を揺さぶられて逃げ場がない。

「なんで私のことを無視するの」

 先に無視したのは咲那萌だ、いいや違う、だって髪を切ったことを教えてくれなかった、そっちだって……わたしは咲那萌の頭を両腕で抱えて引き寄せた。

「同じ大学には行けないって言ったこと?」

 彼女は何度も頷いた。髪の短さから頭皮ににじんだ汗に直に触れた。咲那萌は走ってわたしを追いかけてきたのだ。

「一緒にさんざんバカにしたじゃん。きったねえ前髪をたらして貧乏ゆすりしながらへったくそな落書きでシャーペンシャーシャーしているマエガミナガーどもをさ。それが、なんで私に説明しないで勝手に進路を変えるの」

「考え方を変えることにしたから」

 母が死んだとき、その事実より母をよく思い出せなかった瞬間のほうがつらかった。本当は、わたしが母を殺したんだと思った。

「歴史は変わんないよ。マエガミナガーどもに謝れ。前髪が床にたれるぐらい謝れ」

 遺品のなかに故人はいない。日記にも、写真にも。そして思い出のなかにも。

「人間は変わる。永遠に同じではいられない。そのことがつらい。つらいけど変わらなきゃいけない。わたしは逐一残しておきたくなった。ずっとずっと変わる人間を永久に変わらない形にして発表し続けたいって」

 わたしとあなただけのものをみんなのものにしたい。そうすれば、いつでも取り戻せる。なくしても破壊されても完全には失わない。

「なんか立派そうな理由をつけられてもやだ、一緒の大学がいい、楽しいだけのキャンパスライフを送りたい、サークル三つぐらい破壊したい、いつものよくわかんない梓真理に、私の梓真理に戻ってよお」

「よしよし」

 わたしだってあなたの長い髪を撫でることが好きだった。

 泣いている友だちを抱きしめながら、ほかのことも綯い交ぜに抱きとめる。

 あれから(・・・・)、わたしは何度も統計を見た。半永久的に残される情報を見た。率を見た。何度見ても数字は変わらなかった。手紙は何度も読めなかった。何度読んでも心は変わらないと思っていた。でも変わってしまった。率はわたしやあなたではなく、わたしやあなたが率になると気づいたから。

 変わる前のことは忘れてほしい、でも忘れないでほしい。変わる前から好きだったと言ってほしい。そのために覚えておいて、でも忘れてほしい。だって変わりたくて変わったから。でも本当は変わらないといけなくて変わったから。変わる前と変わった後の中間に居た変わろうとしたわたしを喜ばせるために忘れておいて。わたしもあなたを忘れる。あなたを忘れることで許す。でも忘れない。あなたが良い方向に進もうと努力していることを理解できるように、忘れない。


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