どうやら人気者らしい
奇跡的に目立った外傷や後遺症は残らないようで、思っていたよりも早く退院できることになった。
お世話になった医師や看護師の方にお礼を告げると、母と一緒に自宅へ向かった。
「海斗。体調は大丈夫?」
かいと。母はそう呼んだ。きっと僕の名前だ。
「うん。大丈夫」
自宅の位置や街並み、そういったものは不思議と記憶に残っていた。
ただそれらに特別な感情を抱くことは一度もない。街の形やお店の場所は覚えていても、そこから友達や思い出というものが抜けてしまっているからなのだろうか。
「おかえり海斗。ほんとに無事でよかった……」
久しぶりに自宅へ帰ると、母はそう言って僕を抱きしめた。涙を流す母の姿を見て、僕はごめんと謝ることしかできなかった。
事故を起こしたんだなと実感させられた。
今でも残っている。あの時鼻をくすぐったみかんのような甘くてどこか酸っぱい香り。
僕はあの香りが好きだった……気がする。
「明日から学校……行けそう?」
母は心配そうな顔を見せる。
これ以上心配をかけるわけにはいかない。
僕は精一杯の笑顔で元気に答えた。
「うん!大丈夫だよ!」
自らに残る不安や恐怖は消えないままだ。
高校2年生の秋。
制服は冬仕様のものへと切り替わっている。
「行ってきます!」
僕は元気よく家を出た。
大丈夫。学校までの道は覚えているはずだから。
最寄りの駅まで歩いて電車に乗り、そこから3駅分離れた場所。それなりに近いと言えるだろう。
電車に乗り込むと、見知らぬ顔の人たちが大勢いた。それはいつものことであるはずなのに、なんだか凄く怖いことのように感じた。
同じ制服を着る生徒もちらほら見える。楽しそうに笑っている。僕もあんな風に誰かと笑っていただろうか。
「おっはよう!」
突如背後から声をかけられ、僕は驚いて体がびくついた。
「久しぶり海斗!大丈夫なのか?」
すらっと背の高い男子。金髪であるけれど、人付き合いの良さそうな顔だ。
きっと友達……なんだろう。
「ご、ごめん。えっと……」
「あー。そっかごめんごめん。俺は神木悠馬! よろしくな!」
母から学校に僕の記憶がないことは伝えてもらっているはず。だけどこれからもこんな風に友達に気を使わせてしまうのは、心が痛い。
「神木……君は家この辺なの?」
「おいおいやめてくれよ〜! 前は俺のこと悠馬って呼んでたぞ」
僕にとっては全員はじめまして状態で、どんな風に話をしたらいいのかなかなか掴めない。
母親相手でさえ、少しためらいがあったくらいだ。
「わかったよ悠馬。これからよろしく!」
「お、おう!」
どこかぎこちない雰囲気の中、僕と悠馬は学校へと向かった。
駅からすぐのところに学校があるので、すぐに到着した。
「僕は3組だよね?」
「そうそう! そんで俺も3組〜」
よかった。悠馬と一緒なのは心強い。
教室に入ると全員が一斉に僕の方に注目した。
途端に男女問わず駆け寄ってきて、僕の周りは人でいっぱいになった。
「海斗! 元気か!? 心配したんだぞ!」
「海斗くん! 久しぶり!」
海斗、海斗と何度も名前を連呼されるけど、僕は何もすることができずその場で立ちつくした。
「やめろお前ら! 海斗は今、記憶がないんだから」
悠馬が気を遣って、みんなを落ち着かせようとする。
僕の周りに群がっていた人たちは、最後に軽く挨拶だけすると段々と散っていく。
「何か困ったことがあれば俺に言えよな」
悠馬はこちらへ振り返って笑った。
僕は人気者だったのだろうか……? 少なくとも優しい友達がいたということが分かった。
けれど悠馬のその優しさが、今の僕にはなぜか少し辛く感じてしまうのだ。
自分のこともクラスのことも何もわからない。これまでどういう風に生きていたのか、友達とどう関わってきたのかわからない。
自然と表情が曇っていくのがわかった。手も少し震えている。
ああ。記憶がないってこんなに怖いことなんだ。
クラスが完全に落ち着きを取り戻し、僕は自分の席に着いた。
僕と一緒にいた悠馬はトイレに行くと言って、教室の外へ出て行った。
そのタイミングを計ったかのように、一人の女子生徒が僕に話しかけてきた。
「ねぇ。カイちゃん」
海斗だからカイちゃん。僕をあだ名で呼ぶっていうことはそれなりに仲のいい関係なんだろう。
「僕?」
「うん。私のこと覚えてない?」
彼女は自分を指さして、首をかしげた。
その顔を、その仕草を僕はどうしても思い出すことができない。
「うん……ごめん」
「そっかぁ〜。仲良しだったんだよ私たち」
「君は明るいから」
「君なんてやめてよー! 私は花園日向。カイちゃんはずっと私のことひーちゃんって呼んでたよ!」
「そ、そっか。これからよろしくね! ひーちゃん」
なんだかぎこちない。本名でさえ今さっき知ったというのに、あだ名で呼ぶことに違和感を感じる。
「それとね、私たち幼なじみなんだよ! お家も隣だし!」
驚いた。そうだったのか。うちの隣にこの子が住んでいるのか。
「それでね……えっと……驚かないで欲しいんだけど」
「ん?」
急に彼女の態度が変わった。やたらと目線をズラすようになったし、どこか顔も火照っているように見える。
「私たち恋人なんだよ」
「……え?」
橘海斗。どうやら僕には彼女がいたようです。