第91話 静けさをふたたび
やっと、戦争が終わった。
それと同時に、私はスキルを解除する。一度まばたきをするほどのほんの短い時間のうちに、もともと戦場だった地のあらゆる場所に散らばっていた精霊たちが、私のもとへ帰ってきた。
「みんな、おかえり! よく頑張ったね」
愛おしい彼らを、私はわしゃわしゃと撫でる。
「リン様も……本当に、ありがとう。一緒に闘ってくれて」
《何とにはなし。我が愛しき巫女のためなれば》
その言葉が嬉しくて、私はリン様に抱きついた。実体こそないけれど、優しい暖かさがじんわりと伝わってくる。
少し時間が経ってから。
「ハルカ殿。此度は誠に申し訳ないことをした。誤ちを信じ正しきを苛むのは、国を統べるものとして決してあるまじき行為じゃ」
「……王様」
「かのようなことで許されるかはわからぬが、そなたの望むことならば何でもしよう。地位や土地や宝物を与えることも……いや、血筋を問わずに王位を譲ることも、余の命を絶つことも、望みさえすればしようじゃないか」
呪いから解放されたヴィレム王が頭を下げてそう言えば、周りでざわめきが起こった。私のような小娘に対して、国王の地位を持つひとが命を捧げようとさえしているのだから、無理もない。
彼の顔は、私が見慣れているより少しばかり老けていて、ずっと穏やかだった。これが、賢王と名高い彼の本当の姿なのだろう。――ユーリには相当嫌われていたけれど、一体どれほどの間、呪いに侵されていたのだろうか。
ようやく、私は、王宮で冷遇しておきながら戦場で突如私を祭り上げた人々に苛立つ心のトゲが、じわりと解けるのを感じた。
しかし、もう、こんなふうに人の都合に揉まれるのは嫌だった。
「王様は……いえ、王宮の皆様のことはもういいです。魔族の呪いのせいだって、わかっていますから。……ただ、平穏な暮らしを所望いたします。ひっそりと暮らしたいのです。つきましては、私のことはあまり広く知られないようにして、静かな暮らしを守っていただきたいです」
周りの人々が、想定外という顔をするのが見えた。確かに、権力のある人たちにはわからないかもしれない。
「……名誉すら、要らぬと申すか?」
「はい。そうしていただけると」
即答した。
人の都合に揉まれるのが嫌というか……少し大袈裟かもしれないが、油断していると人間不信になってしまいそうなほど、王宮での生活に疲れていた。地位なんて断固拒否である。
それに、何より。
リヒトスタインに帰りたい。
みんなに会いたい。
☆
その晩、王宮の自室に帰ってきた。
といっても、ここが「自室」であるのは明日の朝まで。
もっとここにいることもできたのだが、私が早く帰りたいと言ったので予定より早い出立となった。
そのせいで、休む間もなく荷物をまとめたり身なりを整えたりしなければならない。あと1日ぐらい猶予を頂戴よ、と数時間前の自分を叱りたくなった。
「はー、つっかれたぁ」
荷造りはまだ途中なのだが、どさりと音を立てながら、既に慣れたフカフカのベッドに飛び込む。
そのまま、睡魔の誘惑につられ、瞼が重くなり――
「ハルカさん、晩御飯の時間です」
「ふあいっ?!」
メイドさんの声で、心は現実に引き戻される。素っ頓狂な声をあげて飛び起きてしまった。恥ずかしい。
「……いえ、疲れていらっしゃいますよね。今日は終戦を祝う立食パーティなのですが、終わったあとでこちらにお持ちいたしましょうか?」
「パーティですか! うーん……そうですね、お願いします」
そのまま、また眠ってしまった。
しばらく時間が経って――ふと目を覚ますと、枕元からいい香りがする。ガバッと顔を上げると、ワゴンの上に食事があった。絶妙な香りが鼻をくすぐると、途端にお腹の虫が鳴く。スープなど、消化のいいものが中心だ。
せっかく晩御飯を持ってきてくれたのに、私が熟睡していたせいで全然気づかなかった……という感じか。後でお礼を言わないと。
いつものように、視覚にも味覚にも嗅覚にも美しい料理が、ホコホコと湯気を立てている。微量の魔力が感じられた。どうやら、そのワゴンの周りだけ時間が止められているらしい。だから美味しいものが美味しいままそこにあったのだ。戦争中は叶わなかった食事。たった数日間だけれど、とても久しぶりのように感じられる。滋味が疲れた体に染み渡った。
すっかり体が軽くなった。窓の外を見れば、もう夜のとばりが空を包んでいる。紺色の夜空に金色の星々が散らばっている。それらの光を制圧するほどの、月の光。一瞬、ルナを思い出してどきりとした。そういえば、まだ魔族との戦いが待っている。けれど、いまはまだ、静かな夜。空に浮かぶのは、ルナの瞳の三日月ではなく、優しくもしたたかな満月である。
明日からまた、今まで通りの日常が始まるのかな。私は、荷造りを再開した。
☆
翌朝。
巫女装束を身にまとい、昨日詰めた荷物を馬車に積み込む。
「ハルカ殿!」
「ユリウスさん! ……今までたくさん、お世話になりました。ありがとうございました」
「いや、むしろ、何もしてやれず申し訳ない」
「そんなことないですよ! ユリウスさんは、他の人たちが皆私を疑っている時も、信じてくださったではないですか。それがすごく嬉しかったんです。それに、ユリウスさんが居ないと、この戦争は終わらなかったわけですし」
「そう……か? 役に立てていたなら、何よりだが」
「ほんとにありがとうございました」
頭を下げる。……ああ、もうひとり、お別れを言わなくては。
「あの……メイドさんは?」
「ああ、彼女なら、部屋で忘れ物がないか確認してくれているぞ」
「ありがとうございます!」
私は、走って、先ほどまで自分がいた部屋に引き返す。
「あら、ハルカさん」
「あのっ! 初めから終わりまで、何から何まで、お世話になりました。ありがとうございました。あと、昨日の晩御飯も美味しくいただきました!」
「あはは、いえいえ。むしろ、若い女の子と何十年かぶりにこうして仲良くできて楽しかったわ。これからは、王宮の来賓ではなくなってしまうけれど……また遊びに来てちょうだいね。多分ここの人たちは歓迎してくれるわ」
「……! はいっ!」
初めて、メイドさんのフランクな口調を聞いた。そっか、もう公ではなくて私の関わり合いになる。なんだか嬉しい。王宮で数少ない、親しい人と、こうした形で繋がり合えるのなら。
外で私を呼ぶ声が聞こえ、再び馬車のもとへ引き返した。――メイドさんの名前を聞き損ねてしまったのがなんとも痛い。
「ハルカ殿。何もいらぬと言ったが、せめて余からのささやかな気持ちじゃ」
もうすぐ馬車に乗ろうという頃、ヴィレム王から何か小さな木箱のようなものを手渡された。
「えっと、これは……?」
「王家の紋章を象ったペンダントが入っておる。何かこの先に問題があったとき、これを掲げるだけでも強力な武器となるじゃろう」
理解するのに少し時間がかかったが、社会的な後ろ盾を得たということか。
「……ありがとうございます!」
時差ができてしまったのでちゃんと伝わったかは不安だけれど、ありがたいと思った。
しかし、ペンダントから連想して、ひとつ、思い出してしまったものがあった。
「あの……恐れながら、私が元々つけていた指輪は……」
どこに。と聞こうとして、口をつぐんだ。そこにいた人たちの顔が一斉に曇ったのがわかったから。
「……それは本当に、申し訳ございません。我々の勝手な勘違いで、あんなことを」
王に代わって、別の男が謝罪した。確か、雷魔法を私の指輪に放った本人だ。おそらく、司法のトップ。
「……戻ってこないのなら、仕方ないのでいいんですが」
本当は全然良くないけれど、それ以上に聞きたいことがあった。
「あれは何の魔法だったのですか? 指輪を壊す魔法だったのか、消すものだったのか、転移させて没収するものだったのか」
あの時、指輪は跡形もなく消えた。痛みなどなく、ただ暖かい感覚だけを残して。それが少し奇妙だったのだ。もしも、指輪がどこか遠いところに転移しているのならば、取り返すチャンスはある。あれは、ユーリとの思い出が詰まった、かけがえのない指輪なのだ。
しかし。
「……あれは単純な雷魔法でした。指輪を打ち砕くための」
「……そう、でしたか」
どこか腑に落ちないけれど、それ以上に、虚しい気持ちが戻ってくる。
だが、それも束の間。もう出発の準備はできている。この馬車に乗ってリヒトスタインに戻れば、またユーリに会えるではないか。指輪を介さなくたって、また同じ空間にいられる。彼と触れ合える。それならば、この悲しみに穿たれた空洞など一瞬で塞がり、いや、喜びで溢れるだろう。
荷台に荷物を詰め、手には木箱を持ち、王宮の権力者たちの声を遠く後ろに感じながら。
ここに来た時と同じようにユリウスさんの隣に座って、王都の凱旋門まで馬車に揺られる。
あの頃と何も変わらないように見える城下町の石畳の道の上。外を和やかに流れていく風景を、ただぼうっと眺めていた。
後日談、その一でした。





