第89話 穢れを祓うは巫女の任
ここは本部。
私が【精霊の加護】を発動させてからしばらくして、第五部隊が持ち直したとの伝令を受けた。
さらに、さまざまな方面から、王国軍が盛り返しているという報告を受ける。
「おお……これが、これこそが、巫女のもたらす奇跡か……」
そんな感嘆の声が聞こえてきたが、私には知ったことではない。私はただ、この戦いをどう終わらせるか、そればかりを考えていた。ひとまず、私の恩人たちの無事だけでも守れたようなので、ほっとする。――周りの大人たちは皆あまりに独善的なのだから、私もこのぐらい良いだろう。
天幕の中に朝日が差し込んでくる。これまでは、光魔法と紙燭の光だけがそこにあった。しかし、清々しく刷新されたような光に照らされてようやく見えたものがあった。リン様と初めて出会った日の、あの夜明けのように。
その新たな視界に、おぞましいものが入る。
「えっ……この、かたは……?」
「我らの策謀、カールでございます。帝国の刺客の、毒にやられてしまったのです……」
それは死体とすら思われなかった。傷口と思われる場所を中心に、全身にどす黒い幾何学模様が広がっている。宵闇に溶け込んでしまうほどだから余程だ。朝日を吸い込んでいるようにさえ見えるソレは、ようやくそのシルエットから人の形と認識できた。あまりに不気味で、私は背筋を凍らせる。
ふと、自分の右手を見る。そうだ、次の手立てのために、祓い串を取り出していたではないか。
今は正体不明の毒のせいで、この死体に誰も触れることができない。だから、生前に有能な臣下であったにもかかわらずこのような扱いを受けているのだという。流石に可哀想だと思った。しかし、私にはその毒を清める力があるではないか。
私は、彼の前に祓い串をかざし、意識を集中させる。
私の舞に合わせて燐光の粒がふわりふわりと生まれ、その物言わぬ身体の上に舞い落ち、重なりあって閃光へと変わり、膨れ上がる。
ルナと対峙した時のように、私は目を閉じて念じた。呼応して光は強くなり――瞼を通して感じられる光が収束したとき、目を開けた。
そこには、もう、あの不気味な影は無い。
代わりに、壮年の男性が安らかに眠っていた。
「巫女様。これは……?」
「カールさんを染めていた毒を清めました。……国の、大切な人材だったのですよね? でしたら、丁重に葬って差し上げてください」
私がそう言えば、周りの人たちは再び「なんとお優しい……」などと言っている。この手のひら返しに耐えられるほど私は優しくないのですよ、と言いたいが、ぐっと堪える。寛容だからではなくて、ただ時間がないのだ。
そのまま、祓い串を東の方へ向ける。
きっと、帝国にも魔族がいて、こちらと同じように人々に呪いをかけていることだろう。それを浄化しない限り、この戦いを終わりにすることはできないはずなのだ。
既に、帝国の人間にも精霊を宿らせている。それゆえ、この遠く離れた本部のなかであっても【加持祈祷】を行えば、その力は精霊たちを通じて伝わっていくはず――謹慎中、自室で読んだ本によれば。
うまくいきますように。祈りながら、私は祭壇の上で深呼吸し、祓い串を手にとる。
導かれるがまま、私は渾身の舞を踊り始めた。
☆
戦場に、先ほどとは異なる光の粒が降り注ぐ。さっきのものが、色とりどりの流星、あるいは恵みの雨のようだとすれば、今度は雪のような光だ。それでいて冷たくない。むしろ、暖かい。
人の世の汚れをつゆほども知らぬというような、清らかな粉雪。そんなものを思わせる、青白く透き通った輝きが、柔らかく空から舞い降りている。
ハルカを知らぬ帝国の武人たちは、今日はさまざまに不思議なことが起こると首を傾げている。そうして、そんな暇はないと言わんばかりにまた剣を交わす。
しかし、東の陣営の中枢部。皇帝や大臣たちにも、この浄化の力は及んでいた。
目立った変化があったわけではないが、彼らの心のうちに、各々の大切な人が浮かぶことが増えた。誰も口に出さぬまま、郷愁めいた雰囲気が漂う。王国を目の敵にし、躍起になる心が、鎮められていた。
それだけでは終わらなかった。
王国の陣営に忍び込み、カールを暗殺した人物。帝国で重用されてきた工作員は、魔族だった。
あの儀式の日、祭壇の上でハルカと対峙したルナのように偽装や逃避の時間が与えられることはなく、不意打ちで【加持祈祷】の力が忍び寄り、その者を襲う。仮面がひとりでに地に落ち、魔族の証があらわになる頃には、ほとんど実体を留めていなかった。
【精霊の加護】と【加持祈祷】。このふたつのスキルを組み合わせたハルカの力は、戦場の魔族を一掃するほどに強力だったのだ。
☆
《ハルカ、舞をやめよ!》
「え……うん、分かった」
しまった。浄化に力を注ぎすぎると、やはり意識を手放してしまう。リン様の声で我にかえり、夢見心地のまま目を開けた。意識を保ったままスキルを使う訓練はしていたつもりなのだけれど。
「えっと……私のスキル、うまくいってた?」
《げに全し! すべての魔族ぞ戦の場より失せにし》
「わぁ、ほんと?!」
どうやら、想定よりうまくいったらしい。
【精霊の加護】により、王国と帝国の人間を保護。そして、【加持祈祷】で、呪いを浄化しつつこの国から魔族を追い出す。
……ああ、もっと早く、これほどの技術を学んでいれば、戦いを未然に食い止めることだってできたのだろうか。私がこの方法を知ったのは、行動を制限されていたあの日々の中で、だったのだ。
あんなに意志を奮い立たせて王城に来たというのに、なんとも不甲斐ない。とはいえ、遅れたにせよ、私の目的はもうすぐ達成されそうだ。
時間に余裕がある。
「あの。皆さん、カールさんにお別れ、したくありませんか?」
私がそう提案すれば、本部の天幕の中がざわめいた。
彼には申し訳ないけれど、彼の死なしには、ルナが化けの皮をはがし、私がここに来て皆に自分の声を伝えることは叶わなかっただろう。だから、せめて、あらがう間もなく敵の刃に没してしまった彼の声を、みんなに届けたい。
「いつも神託の儀式で使っているスキルで、私の身体に死霊を憑依させることができるのです。だから、最後に彼の声を聞いたり、感謝を伝えたり……」
「巫女様!! そんなことができるのですか?!」
ひとりが私の声に被せてきた。
「ええ、できますよ。実は、神様を憑依させるよりも体力がいらないのです」
「ああ、巫女様。お願いします! カールは我らの恩人なのです!」
「わかりました」
私は、祭壇の上に座り、目の前に眠る男性を見つめながら梓弓を弾いた。
自分の心の中に、ふたりの人間が重なり合っているような、不思議な感覚を覚える。
自分の喉から、一度も聞いたことのない声が発せられてぎょっとした。男性の、しわがれた声。周りの人間たちを見渡せば、その声を聞いて既に目を潤ませている者が居る。これがカールさんの声なのか。
それからたった5分ほどであるが、カールさんは何やら気難しげなことを言い、きつい言葉で叱りつけ、かと思えば不器用なりに皆をいたわるような優しさを投げかけ、それを皆が懐かしいと咽ぶ、穏やかな時間が流れていた。
「それから、ハルカ殿よ」
「えっ、はいっ」
急に私に話しかけられた。第三者が見れば至って奇妙だろう。ひとりの少女が、全く違う声音で、自分自身と言葉の受け答えをしているのだから。
「何から何まで、恩に着るぞ。本当に、何もかも、済まなかった。この世ではもう、何もしてやれぬが、あの世でずっと、そなたの幸せを願っておる。そなたを守れと、主神にだって命じてやろうじゃないか」
報われたという気持ちで胸が暖かくなるのと同時に、二重の意識が晴れ、心はふっといつもの私に戻った。
耳に、カールさんのハスキーボイスがこびりついている。生きているうちに話したことは、ついに一度もなかったけれど。暖かな涙が、私の目にじわりと滲んだ。
ちょっと、晩成ながらも異世界チートものっぽさが出てしまったかもしれません……
とはいえ、当初の予定に比べればだいぶ地に足のついたストーリーでここまで来れたので、今のところは自分なりに満足しています。





