第86話 真夜中のあとには
それからの日々は、あまりに単調だった。
朝、目を覚ます。寝たままの姿勢で指輪を撫でようとして、凹凸のない薬指を撫でれば、胸に苦い気持ちが込み上げる。それを押し込めてから、再びベッドに潜り込む。ユーリの声が聞けない……ひょっとすると、もう二度と。それが、こんなに寂しくて、つらいことだったなんて。言いようのない気持ちを抱え、寝付けないままに二度寝のまどろみを持て余す。リン様にも、コグニス様にも、精霊たちにも会えない。
そうこうしているうちに、メイドさんが朝食を運んでくれる。彼女は私に友好的なので、時々便箋に優しい言葉を書いて食事に添えてくれた。それが、なんとありがたかったか。悔しいような、心に穴が空いたような気持ちの中、その気遣いは痛いほど沁みた。
幸運にも、外出規制をかけられる直前、王立図書館で大量の本を借りていた。だから、退屈さはそれを読んで紛らわすことができた。何より、魔族のこと、巫女のこと、わずかにでも手がかりが得られれば、まだ逆転できなくもないかもしれない……そんな、糸筋よりも儚いながらも確かな希望を、この本の山が見せてくれた。実際、まだ知らない魔法や、巫女のスキルのコツなど、学べることは多く、魔法規制により実践は出来ずとも、熟練度がゆっくりと上がっているのは確からしかった。
少し日が経った頃から、リン様との意思疎通ができるようになった。私が、テレパシーの技術を身につけたからだ。尤も、【口寄せ】など魔力を伴うスキルとは異なるぶん、これは親友であるリン様にのみ有効なのだが。脳内に飛び交って響く、彼女と私の声。声に出さないので、発話規制の問題もない。神様たちがこの部屋に入ることはできなくとも、これ以降、退屈することはなくなった。たとえ、ユーリがいない空白が埋まることはなくとも――ああ、彼も、私のことをそう想ってくれているのだろうか。通信が繋がらなくて、心配してくれているのかな――
そうして、リン様は、外で見てきたことをよく私に教えてくれた。
ルナはいよいよ王宮内で幅を利かせているらしい。既に王国には極めて優れた古参の策謀――カールさんという年配の男性らしい――がいるので、軍を牛耳るわけにはいかない。しかし、私に代わって儀式を行い、偽の神託で帝国への敵意を煽りながら、鍛錬をする王国軍を導いているとか。まさに予想通りだった。しかし何もできない。お札を手に取っても、その力が神様に届くことはない。
そんな生活を半月続けていた頃だった。
とうとう、王国は帝国への宣戦布告を出したらしい。
リン様からも、メイドさんの手紙からも、同じ日にそれを聞いた。
そうはいっても、私には関係ない。だって、こんなにも中枢から隔離される身となったのだから。戦争中もきっと、ここで身柄を拘束され続けるのだろう。もう、半ば諦めかけていた。
窓の向こうに広がる世界を見やる。口実上の戦線は、どこかの山脈だと言っていたっけ――
「ハルカさんっ!!」
普段のおしとやかな振る舞いからうってかわって、扉が壊れるのではないかという勢いでメイドさんが部屋に入ってきた。えっどうしたんですか、と声を出そうとし、発話規制を思い出して慌てて口を手で抑える。いや、発話規制というのは声を出そうとしても出せない魔法なのだから、そんなに慌てる必要はないのだけど……
「この部屋の魔法は、たった今全部解除されましたよ」
「……え? うわ、本当だ。喋れる!」
……突然、何があったというのだろう。あまりに久々に声を出すので、叫んだ拍子にむせてしまった。だがそんなこと気にしている場合ではない。
「それで、その、本当に、振り回してしまってごめんなさい。ただ、今は一刻を争うらしく。状況は馬車で説明するので、一緒に戦場に来て欲しい、との伝令がございまして」
「はっ、はい!」
彼女のひどく焦ったような声音に追い立てられるまま、私は何も考えられずに、巫女装束とアーティファクトを身につける。
バタバタとドアから部屋を飛び出せば、ユリウスがいた。
「ユリウスさん!」
「ハルカ! ……この詫び、戦争が終わればすぐ、貴女が望むことを、我らが命をかけてでもなんでもすると約束しよう。しかしどうか、今だけは、王の召集に応じてもらえないだろうか」
「……状況は馬車の中で、とおっしゃいましたよね。話はそれからということで、よろしいでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。……すまない」
☆
時は少し遡って。舞台は対帝国戦の最前線、このヴァイリア王国と、東のグローリア帝国との国境として広がる、グロース山脈である。
西に広がる王国陣営。
その本部に国王。そして中心となって戦略を立てて指示を出すカールとルナ。
彼らの手腕が功を奏し、初めは王国側が優勢であった。
しかし、戦況とは水のように常ならざるもの。
「……うっ?!」
「なっ……おい、カール!」
戦の重要な鍵を握っていた敏腕の策謀家が狙撃された。
仮面を被った帝国軍の手先が音もなく本部に忍び込んでいたという。隠密と転移を得意とするらしかった。捕らえようとする頃には、敵国の旗に彩られた軍服を翻し消え失せていたのだ。
カールの負った傷は致命傷であった。さらにそこには猛毒が絡められていた。国の筆頭治癒師ですら癒せない――毒を浄化できるのは巫女だけであるが、それをここにいる者たちは誰も知らないのだ。たちまち、彼は生命を落としてしまった。
それからは、王国の優位は頼りなきものとなった。
なんとか均衡を保っていたのだが、それも儚く。
「聖なる焔よ、我が仇を殲滅せよ」
東の陣営から声が発せられる。それは、帝国でいかなる者よりも強い力を持った魔術師による、厳かな、静かな、しかし激しい感情をたたえた声。
戦場の一面に染み込んでいくような低い声は、山脈を越えた西の陣営まで響き渡った。
次の瞬間。
陣営の中心に、紅蓮の火柱が上がる。
彼の強大なる魔法に蹂躙されていく。今にも地平線に沈もうとする斜陽は、まさに王国の今の勢いを具現化しているようであった。
「ルナ殿。次の戦略はなんであるか?」
「……」
「ルナ殿! 今の状況をわかっておられますか!」
「……」
「今、戦局はこちらに不利。そなたのこれまでの働きから考えれば今に巻き返してくれると信じておるのですぞ!」
その頃。本部では、ルナが沈黙を守るようになりだしたのである。
いや、彼女の真正面に立っていた者には、それがただの沈黙でないことがわかった。そして、心の底から恐怖した。
彼女の仮面の向こうから見える、青白く鋭い光を放つ、三日月。まるでこの状況に会心の笑みを浮かべているような瞳には、不気味な、不可解な雰囲気が漂っていたのだ。
そんな時。帝国軍の捕虜としてそこにいた男が、突如として声を上げた。驚きとも焦りとも、怒りとも恐怖ともつかぬ声を。
「あの女っ……俺らの皇帝を狂わせた奴とそっくりじゃねえか!」
「……は?」
急な言葉に、王国軍のひとりが間抜けな声を漏らす。
「……なあ。お前の目的はなんなんだ? お前は、人間じゃねえんだろう?」
「……」
ルナは、少し困ったようなそぶりをしながら、なおも沈黙。対して、帝国の血気盛んな男は――
「なあ、おい!」
――不意に立ち上がるや否や、ルナの仮面に手をかけ、力ずくで剥がす。
「おい待て! その仮面は……っ」
彼女の誇り。帝国の捕虜の分際で無礼だ。そう責めようとする言葉を呑まざるを得なくなった。
「……あら」
「はっ……お前は!?」
仮面の下から現れた顔。
無機質な白い頬一面に広がる、黒々とした幾何学模様。
さらに、青白い光をまとった黒白眼。
幻影魔法が間に合わなかったのだろうか。彼女の姿の全てが、祭壇の上で見たあの美少女とは異なっていた。
少しでも学のある者にとって、見間違えようもない。それに、敵国に捕らえられるほどの間抜けな武人が、偽の幻影を映し出す力を持ち合わせているとは思い難い。
これこそ、ルナの本当の姿であり――彼女は、正真正銘の魔族だったのだ。
「貴様!」
王国の中心のひとりが、恨みを乗せて声を荒げ、武器を突き立てようとする。しかし、ルナは正体を知られ、攻撃体勢をとられてもなお、涼しい顔をしていた。
焦ることなどない――
「……しまった、逃した!」
――転移魔法を使えば、いつでも安全な魔国に引き上げられるのだ。もう、全ての目的は果たしたのだから。
彼女がその場から消えた時。呪いの魔力もまた、効力を失った。
「なんと……ハルカ殿の言葉が、全て正しかったのじゃな……」
全てを後悔する国王の言葉。それは、その場にいる皆の総意を表していた。深い皺の刻まれたその顔に、同じくらいに深い後悔をにじませて。
「……彼女には、あまりに酷いことをした。だから許されぬだろうが……ユリウスよ、一縷の希望をそなたに託そう。王城から、彼女を召してはくれぬか」
「はっ。……ただ、従うかどうかは彼女の意志を尊重するということで、お咎めになりませぬか」
「ああ、もちろんじゃ。非があるのはこちらだからの」
☆
馬車に揺られるにつれ、私の身体は戦いへと近づいていく。
初めは何も聞こえなかったが、ユリウスの話が終わる頃になれば、この闇夜はあまりに多くの音に溢れていた。
四方八方から爆音が相次いで聞こえてくる。血と炎の相反する赤い光に照らされながら、人間たちはめいめいに死の旋律を奏で、いびつな不協和音が辺りを包み込む。
こだまして響く無秩序な断末魔たちは、炎に彩られた夜の闇に吸い込まれていく――
場面的には黄昏ですが、ハルカの状況的には夜明けです。ようやく……ようやく、このシーンまで来れました!! 嬉しいです!!!





