第73話 儀式はじめ
「王様。ハルカが参りました」
「よく参った。さらば、早速始めていただこうかの」
「承知いたしました」
巫女として王宮に入った私の仕事は、コグニス様の口寄せ。つまり、コグニス様の力で見えるもの――この先の世の中に起こること、我々人間のなすべきこと、それらを、私の身体を媒体として人々に伝えるのだ。
《じゃあ、よろしくね》
「……はい」
《かたくならなくっていいのよ……あっ、あんまり喋ると国王とかが怪しがるかな。自分のペースで始めてね》
「わかってますよー。……では、よろしくお願いします」
私は、梓弓を取り出す。思えば、これを使うのはソフィアのお母さんを呼び出した時以来かもしれない。
弦を弾くと、優しい音が鳴る。私の手元で発せられたそれは、波紋となって、あたりの空間を震わせる。丸くて暖かな、呼び出されるべき彼女の、慈悲の陽のような黄金色の光を思わせる音色。梓弓の鳴る音は、対象によって異なるのだろうか。……その甘美さにうっとりしているうちに、私の視界に霧が立ち込めた。
☆
ハルカが梓弓の弦を鳴らして、【口寄せ】を発動させた時。彼女だけでなく、その場にいる全ての人間が、その音に心を奪われた。たった一音にして。それは紛れもなく、彼女のスキルの力である。
刻は宵。外の空気は藍色のとばりに包まれている。いつもなら、無数に連ねられた蝋燭の光が装飾の数々を照らし、あたりは鋭く煌びやかな金色の光の粒が舞い踊る。だが、今は古来より伝わる伝説に倣って、数本の紙燭を除けば、この部屋の全ての灯りが消されている。ステンドグラスを透かして差し込む静謐な月の光の他に、外からの光はない。絢爛豪華たる玉座の間は、仄暗い、儀式の間と化していた。この厳かな、ぴんと張り詰めた闇を、この刹那、たったひとつの音が揺るがし、四方に広がっていく。
やがて、魅了は驚愕へと変わる。どこからともなく、太陽が昇ってきたかに見えたからだ。いうまでもなく、コグニス神の降臨である。――ハルカの目には常に妖艶で若い女性の姿として見えているのだが、常人からすれば、口寄せの行われる間だけ、黄金色の光の球として目に映るのだ。ちなみに十二単に身を包んだあどけない少女、リン神のことは、常にハルカの横についてまわる青白い光の球として、精霊たちの虹色の光の粒に紛れてしっかりと見えているのだが。
その慈悲深いような、暖かな光。伝説通りの美しさに、誰もが息を呑む。
「ほう……これが、世を治める女神の姿か」
先代、あるいはそのさらに遠い昔の王の世にもまた、巫女が現れた。その時から語り継がれてきた、神の姿。いにしえの巫女たちが語ってきたような、女性の姿は、やはり見えない。だが、その光すら、一目でまがいものでないとわかる……根拠があるわけではないが、そう、心が告げていた。
白と紅の巫女装束に身を包み、腰ほどまである黒く艶やかな髪をひとつにまとめた少女は、静かに目を閉じて跪いていた。紙燭の淡い光と、それをも包み込んでしまうほどの金色の光に照らされた、祭壇の真ん中で、小ぶりな弓をその膝の上に抱えて。
しばらくして、少女はゆっくりと立ち上がった。閉じていた目をゆっくりと開くと、見えたのは今までそこにあった輝く虹彩ではなく、何物をも吸い込んでしまいそうなほど深い闇、いや、空白だった。
そのまま、何かに操られるかのように、舞い始める。はじめはぎこちなく、やがて恐ろしいほど洗練された動きで、淀みなく流れるように。その足取りは、無秩序に見えたが、いつしか一定のリズムを刻んでいた。いよいよ盛んな、素早い動き。それでいて伏し目がちなので、表情が見えない。
彼女の周りを、小さな陽光が踊る。その拍子に呼応するように。
やがて、彼女たちの舞踏が一体となったとき。
金色の光が、少女の身体と融け合ったのだ。
踊っていた少女は突如時間が止まったかのように立ち止まり、俯いていた顔をそっと上げる。
その瞳には、あの光球となんら変わらぬ輝きが宿っていた。
すぅ、と息を吸い、声を放つ。
「この国を担う人の子どもよ」
その凛とした、堂々たる声に、昼間の彼女の面影はどこにもない。
部屋のあらゆる隅にまで染み入り、深く響く声。
国王は心のうちに、これが巫女の力かと思わずにはいられなかった。だが、神託に耳を傾けるべく、今度は声に出さない。
「この殊なる少女の身を借りて、再びこの下界に降り立つこと叶うは、甚だうれしきことよ。人の世に降り、人々に触れることは、神の喜びである」
常々人に会いたきよしをぞ語りしかど、巫女なき世なりともほしいままに降り人に戯れごとすれば他の神々に咎めらるるに――とため息まじりに呟いたリン神の声は、誰にも届かずにその空間に溶ける。闇に縁取られた金色の光。その中心にいるハルカは、いつもと全くの別人に見えた。
「皆のものが知るように、この世は未曾有の危機に晒されようとしている。魔国は怪しい動きを始め、皆はそれに立ち向かおうと、粉骨砕身、心をも削られる思いで準備していることだろう」
神は見てくださっていたのか、と感涙を流すもの数名。主に軍師や官僚である。ここ数年で激変した情勢に対応し、国全体を変えねばならなかったから。
「だが、いま言わねばならぬことがある。ここで道を踏み外しては、この大陸は魔国に飲み込まれてしまうだろう。そして、この世界は、何者かに視界を遮られ、破滅の道を歩み始めていると」
一刹那にして、その空間が凍りつく。あまりに容赦無く叩きつけられた宣告。陽光の慈悲が、突如刃のような妖しく鋭い輝きとなって見える。
その言葉とともに――少女は、糸が切れた操り人形のようにくずおれた。
立っていた脚はガクンと脱力し、項垂れるように跪いたのだ。
やがて、彼女はゆっくりと顔をあげ、黒曜石のように輝く瞳を見せた。
☆
目を開ける。
随分と長い眠りから覚めたような心地だ。周りの景色が、そぐわないような、地に足がついていないような、不思議な感覚。
だが、辺りを見渡して、ただならぬ空気を感じとる。思わず、え、と声が出る。
夥しいほどの数の人々に囲まれて、それだけでも不慣れなのに、皆何やら沈痛な面持ちだ。中には、厳しい視線をこちらに投げる人もいる。怖い。今すぐここから立ち去りたくなる。顔が火照るのを感じる。
私は、というか私に宿ったコグニス様は、一体何を言ったのだろう。後で聞いてみよう。
だが、それ以前に、この雰囲気にあてられたのか、ただ力を使ったせいなのか、体が動かない。力が入らない。
そんな私に、ヴィレム王が近づいてくる。
「もう行って良いぞ。初めての儀式で疲れただろう。神託はしかと受けた。かたじけない」
その微笑みは、どこかひきつっていた。だがその優しげな声音に救われて、私はようやく、お辞儀をひとつして、メイドさんに連れられて玉座の間を後にした。





