第69話 あなたを守る
図書館の窓から、幾度となく見た夕焼け。今はそれを外で見る。斜陽の、あたたかな、それでいて寂しげな光が、矢のように私の目を射る。心が締め付けられる。
「次が、最後の目的地だ」
「……うん」
石畳の上、今度は地上を走る馬車に揺られ、やってきたのはリヒトスタインだった。
「……え? ここって……」
「ちょっと、見て欲しい場所があるんだ」
毎日見てきた校門。毎日見てきた、城壁のような囲い。その周りをぐるりと歩くと、見たことのない門があった。そういえば、寮は校内にあるし、ダンジョンは正門の方が近いので、裏門を潜る用事がなかった。正門に比べれば質素だが、それでも充分重厚感がある。重そうな金属の扉は、どっしりと構え、何者をも通さないという意思さえ感じさせる。
「――」
ユーリがその扉に手を当て、無詠唱で魔力を通すと、ギイ、と音を立ててゆっくりと扉が開いた。
「入ろう」
「え、大丈夫……なの?」
「ついておいで」
彼に言われるがまま、扉を潜る。普段見慣れた棟のはずだが、校舎の裏側は未知の顔を見せていた。白い壁に夕陽が当たって、真っ赤に燃えている。空の赤と溶け合うように。
さらに歩くと、棟と棟の間に狭い路地があった。そこを、彼は通り抜けていく。私も、それに続く。
見るうちに狭くなっていく道。不安になってくる。一方で、どこか見覚えがあると思った。……ああ、神様の祀られていた神社に続く道だ。
高い壁と壁に挟まれた小道は、ある時突然開けた。
見慣れているはずの学校の中なのに、見慣れない場所。
いくつかの高い棟の壁に囲まれ、ぽっかりとまるく穴の開いたような空間があった。
その中央部には、祭壇のようなものがあって、宝玉が鎮座していた。
黄金色の――コグニス様の象徴ともいえる、あの光が、球体のちょうど真ん中から発せられ、あたりを照らしていた。
空は暗くなり始めていたし、建物の陰にもなっていたから、ここに来るまでの道はすっかり闇に包まれていたのに、この空間だけが、焚き火をしているように明るくて、暖かかった。
私は、白昼夢の中にいるような気持ちでその光景を眺めていたが……気付けば、体が勝手に動いて、その宝玉に手を触れていた。
ちょうど、この世界に来る直前、神様の祀られている神社で、お札に手を触れてしまった時のように。
次の瞬間、光は突然鋭くなり、私の目を射る。
思わず、私は目を閉じた。だが、それに続いて、頭の中で声が響く。
――ハルカちゃん。これからきっと、険しい道のりが待っているだろうけど……何があっても、自分を信じて。この世界の危機を救えるのは、あなただけなの。ほんの事故でこの世界に流れ着いたあなたを、まだもう少しの間、利用させてもらう。だからまだもとの世界には帰さないわ。その代わり、運命は必ず、あなたの味方をするからね。
その優しいような、慈悲深いような声は、まさにあの日聖堂で聞いたそれだった。
謎めいた言葉は、やがて糸を引いて消えていった。夢から覚めるように。
「ハルカ?」
「ユーリ。ありがと。ここに連れてきてくれて」
万感を込めてそう言った。その言葉に、ユーリは目を丸くしてから、バツが悪そうに頭を掻く。
「……ここはまだ目的地ではないんだけどな……」
「えっ、そうなの?!」
つい笑ってしまった。しかし、だからこそ余計に、この出会いに運命を感じた。
ユーリは、その場で数回足踏みをしてから、ひとつ息をつき、真剣な面持ちで、空中に手をかざす。
ひとつ、彼の指先から、何か小さくて丸いものが踊り出る。水晶のように透き通っていて、水色の光を帯びている。あぁ、氷魔法だ。ごく小さな氷の粒が、真下に落ちる。さっきの宝玉から発せられる光を跳ね返し、キラキラと輝いている。
粒は、カチ、と涼しい音を立ててふたつに割れると、中からこれも透き通った指のようなものが出て、寸分の迷いもなく地面へと伸びていった。
ちょうど、大地に根を下ろす種のようだ。
それは、本当に種だった。突然ぶわりと双葉を開いたかと思えば、目にも止まらぬ速さでツルが――いや、茎となり、幹となって、空へと伸びていく。こんなに生きている感じがするのに、本当は氷でできているというのが不思議だ。ずっしりと重たいガラス細工のような幹、しかしひらりと舞っては溶けていく繊細な雪のような葉。つららのような枝は、鋭く空気を刺す。
「ハルカ! あの枝に乗ろう!」
「え?!」
ユーリに手を引かれるままに、一番近くの、太い枝の上に跳び乗った。
氷でできているだけあって、ひんやりしている。だが、意外と解ける気配もなければ、凍えそうなほどの冷たさでもなかった。
「しっかりつかまっていて」
「う、うん!」
私がユーリの腰に両腕を回したのを確かめ、彼がさらに魔力を流せば、木はまた一気に伸びていった。ドラゴンが空を裂いて昇っていくように。私たちふたりがその背中に乗っているように。
ずっと、四方が建物に塞がれた景色が続いた。レンガ模様は恐ろしい速さで横を走り抜けていくのに、見えるものはずっと同じだった。それほど、この建物は高いのだろう。それほどの高さを、魔法で駆け上がろうとしている。魔力消費は他の魔法に比べてずっと激しいはずだが、彼は左手で私の肩を抱きながら右手で淀みなく魔力を流している。
突然、ずっと続きそうに思えた風景に終わりが見えた。学校の屋上に来たのだ。
「わあ……!」
そこに見えたのは、満天の星。深い闇の中、宝石を無数に散りばめたような空に、吸い込まれそうになる。
恒星だけではない。この世界にも月があるらしい。それも、地球よりずっと近く、手の届きそうなほどの場所に。
大きな、くまなき月が、周りで可憐に輝く星々を支配しているようで、それでいて星々に慕われているようで……それほど、穏やかに輝く満月が、懐の大きいもののように見えた。
そして、今自分たちが乗っている木は、それらの光を全て吸収して、自らの輝きに変えているようだった。梢は天高く、夜空の向こう側にあって、木漏れ日ではないが、ひらりとなびきつつも鋭く透き通る葉に、無数の光が滲んで見えた。
ふと、精霊たちや神様との出会いを思い出す。
やがて、隣の彼が口を開いた。
「ここ、俺が学校で一番気に入ってる場所なんだ。……第1学年の時、授業中だっけか、理由は忘れたが怒られて、ムシャクシャして教室抜け出して何も考えないで歩いてたら、さっきの祭壇の前に来てな」
「……」
「どういうわけか、そこにはクレンがいた。あいつは笑って、面白いもん見せてやるって言って……浮遊魔法で、俺をここまで飛ばしたんだ」
「え、いきなり?」
「あぁ。あれは本当に肝が冷えた。だが、うまく魔力が制御されてたんだろう。屋上にうまく着地して、見たら、絶景だった。あれは夕方だったがな。夕陽に照らされた町全体が一望できて……海も見えて」
「海……」
見回すと、確かに海があった。星空を反射して、地面の下にまで宇宙が続いているみたいだった。
「気づいたら、クレンが隣にいて、あの向こう側にはどんな凄い奴が居るんだろうなって、ぼそっと呟いたんだ。こんな高等魔法を使う人もそう考えるんだ、って思ったら……俺もまだまだガキだなって。それからだな。俺が授業を舐めないで真面目に勉強したの」
「そんな過去もあったんだね……」
「あぁ。懐かしいな」
やっぱりユーリはやんちゃだったんだ。そして、やっぱりクレンは――彼にとっても、恩師なのだ。
絶対また、彼らのもとに帰ってくる。そう誓った。
「ハルカ。ひとつ、渡したいものがあってな」
「ここで?」
「あぁ。……ここなら、邪魔が入らないだろう」
空の上。時は夜。見渡す限り、誰も居ない。
ユーリは、黙って、自分の服のポケットから、何かを取り出した。
彼はその手で、私の左手をゆっくりととり。
薬指に、それをはめた。
「え……これって……」
いま、私の左の薬指を、銀色の輪が包んでいる。
シンプルなつくりだが、緻密な模様が彫られている。
そして、薄桃色の小さな花が、可憐に咲いていた。
「俺からのプレゼント。……一応、石も含めて俺の手作りだ。その、魔道具に関する本を調べて作った魔法石なんだが、……どう、だろうか」
「すごく、可愛い……!」
最初は驚いたが、自然と口元が緩む。
「市販の宝石では駄目で。通信魔法と存在認識魔法と簡単な防御魔法を付与してある。通信魔法は、こないだ押しつけられた魔力を解析して、音声通話ができるようにアレンジしてみた。あと、存在認識魔法というのは俺の魔力が近くにあると光るっていう単純な魔法で、防御魔法は普段使っているやつだな。これから、離れてても俺とやり取りできるという魔道具だ。他の形も考えたんだが、指輪だと使いやすいかと思って。だから、その……」
「ふふ。そうなんだね」
指輪の形だと使いやすいかと思って、なんて……あれほどロマンチックに渡してくれたのに、台無しではないか。それに、電話みたいな道具なら、イヤリングやペンダントの方が使いやすいだろうに。普段の彼に似合わない、焦ったような早口に、見えすいた嘘。思わず笑ってしまう。
だがもちろん、その奥にはっきりと見える気持ちが、何よりも。
「すごく、嬉しいよ。ありがとう。ずっと着けているからね」
夜の闇がいよいよ深くなる。
1日が、終わろうとしていた。
次から新生活です!(あまり明るいものではないけど)
ですが、また古語のヒューマンドラマもひっそりと更新していきます。





